羽を休める場所
カナリアを拾ってから何日か時間が経った。どうにも一人でいると今がいつなのか認識が甘くなる。痩せて弱ったカナリアはそうすぐに体力が回復するわけもないはずなのだが、ぐっすり寝込んだあと翌日にはカナリアはちょろちょろ動き回るようになった。骨と皮だけといって相違ないほどの弱り具合だというのに、こうもすぐ動けるとは予想外だ。
単に今だけが弱っているわけではなく、日頃からこの細さだったのだろうか。
「ん?……なんだ、カナリア」
喋れない代わりに、服の袖を引かれる。
まだガリガリではあるものの、きちんとお風呂に入り衣服を洗濯したカナリアの見目はかなり美しいことになっている。これについては女体男体関係ないようだ。確かにこれでは、生きづらいだろう。
藤色の透き通った瞳はまっすぐにわたしを見ていて、細い髪はさらさらと軽やかに揺れている。表情に関してはあまり変化はないのだが、時折笑顔を見せることもある。
「ああ、食事の時間か?」
こくり、と頷く。
カナリアはこうして、朝昼晩と三度、食事の時間をわたしに認識させるようになった。というのも、これまで一人で暮らしていたこともあって食事は時間通りに食べたり食べなかったりで不摂生気味だったのだが、このカナリアにはまず肉を付けさせねばならない。勝手に一人で食べてくれたら良かったのだがカナリアは料理が出来なかった。ならば作り置いたものを食べてくれと言ったのだが、何度言ってもわたしが食事に来るまでカナリアが一人で食べることはなかった。ものすごく律儀な性格をしているらしい。そういったこともあって、三食ごとに呼んでくれという方向で落ち着いたのだった。わたしのお腹が空くのを待っていては、丸一日何も食べない日もあるから健康には良くないだろう。
「そういえば、種族名で呼ぶのもどうなんだろうな。不便だし。カナリア、お前名前はあるのか?……いや、といっても話せないし文字も書けないんだったか」
昼食の準備をしながら話しかける。カナリアは料理に興味があるらしく、わたしの手元を覗き込みながら頷いた。
「そうだな……じゃあ仮の呼び名で、ふじ、とでも呼んでもいいか?わかりやすいだろう」
髪も目も綺麗な藤色だからわかりやすいし、いずれここを離れたとして後腐れの少ない呼び名ではなかろうか。軽い気持ちで言ったことだが雰囲気も藤の花に似ているし、良い案だと自負する。
カナリア本人は驚いたように両目を見開いて、それからこくこくと何度も頷いた。どうやら気に入ってくれたらしい。
「良かった。じゃあ、ふじ。お皿を出してくれ」
ふわり、と良い香りが漂う。トマトソースとチーズを食パンに乗せて熱を加えるだけで、本当に美味しそうだ。いや、実際美味しいのだが。
付け合わせのスープも良い感じに仕上がっている。今日はカブの冷製スープにした。庭で美味しそうに育ったカブを収穫したから朝のうちに仕込んでおいたのだが、大正解だ。
ふじが出してくれたお皿に取り分け、椅子に座る。
「頂きます」
きちんと椅子に座って食事をする時には挨拶をしてから食べる。わたしがそうするのを見て、ふじもそれを真似るようになった。声を出せないからそっと目を閉じて頭を下げる。
焼きたてのパンは美味しい。そしてトマトとチーズの相性の良さ。抜群である。カブの冷製スープも上出来だ。少々自慢気に思いながらふじを見ると、表情を和らげていたのでどうやら口に合ったようだ。
あまり表情に変化のないふじだが、こうして食事をする時には和らぐことが多い。不安になるくらいの細身だったが、食べることは苦手ではないらしい。むしろ好きなように見える。だというのにこの体格ということは、つまりは環境が悪かったのだろう。
「ふじは、文字の読み書きは覚えたいか?」
問うと、ふじは突然の質問だったからか少し不思議そうにして首を傾げる。
「体調が良いとか悪いとか、ここを出て行くだとか、食事が美味い不味いとか、そういったことがなんとなくでしかわからないのは不便かと思ったが。ふじが気にならないのならいい」
「!!」
ガタタッとテーブルが勢いよく揺れる。ふじが立ち上がったからだ。
「ど、どうした?」
じ、と藤色の両目が見つめてくる。忠犬というか、捨てられた子犬のようというか、そういったつぶらな瞳だ。何かを訴えたいようだが、わたしには他人の心を読む術などはない。なので何を訴えたいのかまったくわからない。
「余計な世話だったか。悪いな」
ぶんぶんとすごい早さで頭を振った。
「なんだ、じゃあ勉強したかったのか?」
こくこくとまたすごい早さで今度は頷く。こんなに全力で頭を動かして首を痛めないのだろうか。
「それなら食べ終わったら読み書きの練習をするか?」
ふじは最後に大きく頷いてから、嬉しそうに笑んだ。
この家には本を読む為の部屋がある。
一面が本棚になっていて、そこにソファーと軽食をつまむ為のテーブルがある。勉強をするのにも丁度良い場所だ。
ふじをソファーに座らせる。一人暮らしだったが、良い環境で読書をしたかったから二人でも余裕で座れるサイズだ。わたしは一冊の本を持って、ふじの隣に座る。
「この本は読めるか?」
わたしがふじに出して見せたのは、子供用の絵本だ。絵本は読み書きの練習にもよく使われている。子供向けだからそこまで難しい内容は書かれていないし、絵もついているからわかりやすい。
ページを開いて見せたが、ふじは少し困ったように視線を落ち着かなくさせている。
わたしの話すことは理解しているようだから、聞き取りは出来ても読むことと書くことはまったくといっていいほど出来ないのだろう。
ふじは、幼いわけではない。わたしとそう年は変わらないだろう。どんなに貧しい家庭でも国からの支援を受ければ文字の読み書きと簡単な計算くらいまでは学べるはずだった。あまりに治安の悪い場所や、裏取引で買われた子供などは学べない場合があるが。各地から誘拐を防ぐ為に隠れ住むカナリアは学びには行けないものなのだろうか。けれどその場合は通常なら両親や、側にいる大人が教えてくれるものだ。文字の読み書きが出来なければ買い物もままならないのだから。
「そうか、わかった」
絵本を最初のページに戻す。そして一ページ目からゆっくりと音読をする。
絵を見て、音で聞けば、内容は理解出来るだろう。そして内容が理解出来れば、この後文字を書く練習や読む練習をする時にも役に立つ。わたしもそうして覚えたのだから。そして子供向けだからといっても、内容はとても勉強になるものが多い。成長してから読むとまた違った味わいも生まれる。
一冊、読み終える。ふじは終始大人しく、聞き入っていた。
「面白かったか?」
こくり。ふじが頷く。それからおもむろに絵本を開くと、書いてある文字を指差した。どうやら知的好奇心を擽ることには成功したらしい。
「その言葉の意味が知りたいのか。うん、書き取りをしながら話そうか」
楽しい、と感じて学ぶことが何よりの近道だ。
ふじの勉強への意欲は目を見張るものがあった。
最初はわたしがついて教えていたが、基本的な字や単語を理解してしまうと、あとは自分で辞書を持ち出して調べたりしていた。この部屋にある本は好きに読んでいいと伝えると、それはもう嬉しそうにして次々と部屋にある本を読破していく。言葉だけではなく、世界情勢、歴史、薬学、魔法理論と、多岐に渡って知識を身につけていった。
ふじには、真っ白なノートをいくつも渡した。勉強用に使うものと、あとはそのノートにふじが文字を書いて意思疎通を図るものと。
くい、と服の袖を引くのは変わらずだ。呼び掛ける声を発することが出来ないのだから。
「どうした?ふじ」
問うと、ふじはノートを広げて見せる。
『手伝います』
「掃除をか?面白くも何ともないぞ」
定期的に各部屋の掃除はしているが、いかんせん苦手だ。興味がまるでないから。一度散らかしっぱなし埃だらけの惨状にした時にリカバリーが死ぬほど大変だったから仕方なく散らかる前に適度に行っているだけで、出来ることならやりたくない。
勉強をはじめてから、ふじは何でも手伝いたがるようになった。単純に伝えたかったことがきちんと伝えられるようになったからだろう。
ふじは何に対しても無知だったが、努力家だった。掃除の仕方もわからなかったのに何度か教えるうちにわたしよりも先に掃除をはじめて終わらせていたり、料理も簡単なものなら一人で作れるようにもなった。
最初は他人を家には招き入れたくなかったし、すぐに追い出すつもりだった。けれどふじは静かで大人しい。声が出せないとかそういったことだけではなく、雰囲気や行動自体も邪魔にならないのだ。わたしは一人が好きだけれど、ふじがいても苦にはならない。それどころか上達する姿を見守るのは楽しいし、二人でとる食事は美味しかった。
「ふじ」
なんとなく、声を掛ける。わたしが呼ぶとふじは必ずこちらを見る。何をしていても作業は止めて、じっと無垢な藤色の瞳をわたしに向けて言葉を待つ。
「声を発したいか?」
話せない原因さえわかれば、方法はあるかもしれない。例えわたしの魔法で治せなくても、世界を回れば治せる医師もいるかもしれない。
わたしの問いに、ふじは答えない。
「そうか。なら、喋りたくなったら教えてくれ」
本当に、ふじは不思議なカナリアだった。喋れなくてもいいなんて。毎日顔を合わせていればふじが遠慮をして断っているわけではないことはわかる。それならわたしがすることはない。
「ああ、今日も良い天気だな。ずっと家に篭るのももったいない。少し森を散歩しようか」
ふと窓の外を見ると、綺麗な青空が見えた。わたしの提案にふじは頷き、表情を和らげる。
傷ついたカナリアが飛び立つまでの、止まり木になろう。この時間はわたしにもとても多くのものをもたらしてくれるから。