三題小説第五十弾『髪』『太鼓』『人形』タイトル『異世界団地のオトシルベ』
夕陽が反射して画面が見えにくい。スマホの中で私のアバターがくるくるゆらゆらと踊っている。アバターはわりとかわいい服を着ているけど、ちょっと飽きてきた。着せ替えようと一覧を見ているとアンが口を挟む。
「えー。もう変えるの? マリってば飽きっぽいよね」
私の顔の横からアンが覗きこむ。黒目がちで鼻筋の通った猫っぽい顔が意地悪げな笑みを浮かべている。
「そう? 無料配信がけっこうあったでしょ? この前。だから色々試すの」
「まあねー。うちはこれとか好きー」
アンが指差した服は何だか地味な服だ。
「何かゆるキャラが着てそうだね」
「ひどいー」
その隣の青いワンピースを試しに着せてみる。なかなか悩みどころだ。
「下校中にスマホ見ちゃ駄目なんだよ」と、ヒナが言った。
「分かってるけどさー」と、アンがくるりと振り返りポニーテールを揺らして言った。「ってヒナもスマホ見てんじゃーん」
ヒナも長いまつげを下向きにしてスマホを覗いている。背が高いヒナがランドセルを背負ってスマホを覗く姿はアンバランスだ。上目遣いのヒナと目が合う。
「あたしは帰る連絡を親に入れただけだもん」
「えー。それだってルール違反じゃん?」
アンがヒナのスマホを覗きこみながら言った。
「セーフだよ。セーフ。これは仕方ないの」
私は再び自分のスマホに視線を戻す。やっぱり久々に課金しようかな。どうも好きになれない服ばかりだ。
「ねー、アンちゃん。何か聞こえない?」
無料のはへんてこなデザインとかコスプレみたいなコラボ服ばかりであまり好きになれない。
「ん? 何がー? 何の音?」
でもなあ。今月もおこづかい厳しいしなあ。
「ほらほら。太鼓みたいな音。何だろう? お祭りかなあ」
「ホントだ。聞こえた。ねえマリ。この音何だろう?」
何かお手伝いしておこづかいもらう? っていうか雀の涙だもんなあ。
「あっちから聞こえるっぽいよ。行ってみようか」
「マリってばさ。聞いてんの?」
アンが私の肩をつかんで揺らした。
「聞いてるよ。音? 音でしょ。太鼓の音。それがどうしたの?」
「何の音だろう? って言ったんじゃん」
「太鼓でしょ? 聞けば分かるよ」
「そうじゃなくて、話聞いてよって言ってんの」
「聞いてるってば。ちょっと考え事してただけだよ。あれ?」
ヒナがいない。夕焼けに沈む赤い住宅街を見渡す。どこにもヒナがいない。どこに行ったの?
「んー? あれ? ヒナどこ行った?」と、アンも辺りを見回して呟く。
「ヒナ!? どこにいるの!?」と私は手でメガホンを作って叫ぶ。
私の声は空しく消える。返事はどこからも返ってこない。ただ太鼓の音がリズムよく聞こえてくるだけだ。
「もしかして太鼓の音の方に行ったんじゃね?」と、アンが言った。
「ええ? 一人で勝手に何も言わずに好奇心の赴くままに?」
「ほら。ヒナってそういうところあるじゃん。マイペースってかさ」
ヒナにわがままという印象はないけど、マイペースという言葉を使われるとそうかもしれない。
「いや、でもいくらなんでもさ。ああそうだった。ちょっと待って。とりあえず電話してみる」
太鼓の音の方向へ行こうとしたアンを引き止めてヒナに電話をかける。ビバ文明の利器だ。だけど呼び出し音が繰り返されるだけで、ヒナは電話に出なかった。
「どうする? マリ。絶対太鼓の音の方だって。行こ」
他に手がかりもない。ヒナにメールを送る。時刻表示は午後五時を示していた。先に行ってしまったアンを慌てて追う。
太鼓の音へと近づくにつれ、それは単なる音から体に響く震えへと変わった。肌を刺激し、体の内部まで震わせる。
何だか心地いい。マッサージのような、何か体の中心から作りかえられていくような気分だ。
そして少しずつ一拍が長くなっていく。行き止まりに当たった時には二十秒に一回ほどになっていた。どこかの誰かさんの家を前に立ち止まる。家の中ではなくさらに向こうから聞こえて来るみたい。
「どうしよっか?」と、言いながらアンはぴょんぴょんと飛び跳ねて塀の向こうを覗こうとする。
「どうするも何もいったん戻って回りこむしかないでしょ」
そうした。一度戻って隣の道から回りこむ。だけど太鼓はどこにもないばかりか、太鼓の音は消え失せてしまった。冷や汗がこめかみを伝う。ヒナを永遠に失ってしまうような、それも目の前で自分の手から取りこぼすような嫌な予感がよぎった。
アンはさっきの家の中を今度は裏庭から覗きこもうとしている。しかし裏庭にも何もないらしい。一体どこから太鼓の音は聞こえていたのだろう。
「聞こえる? 太鼓の音」と言ってアンが両耳に両手を添えて辺りを窺う。
「聞こえない、かな。太鼓の音に誘われてヒナがいなくなったのなら、ここら辺にいるって事だよね。あ! 待って。聞こえる」
ほっとしたものの、音が聞こえるのはまさに回りこんだ家の方向からだった。
「本当だー。え? じゃあこの家の中で太鼓を叩いてるっての? ど、どうする? ヒナ、この家の中にいんのかな?」
「この塀を登って家の中を覗いてみるよ」
私が指差した塀は家と家を区切る塀だ。その塀の上がどちらの土地なのかは分からないけれど、多分そこに上る事はいけない事だろう。
「ちょ、ちょっと待って。怒られるってば。普通にチャイム押せばいいじゃん」
「平気だよ。どの道玄関は反対側でしょ。近道だよ近道」
「待ってってば、マリ」
アンの反対を押し切り塀の上によじ登る。アンも渋々ついて来るようだ。そんなに嫌なら回りこめばいいのに。
猫のようにバランスを取りながら歩く。塀を半分ほど過ぎた頃、異常に気づいた。太鼓の音は家の中から聞こえてくるわけではなかった。そのまま家を通り過ぎ、反対側で塀を降り、さっきの行き止まりに戻る。元の場所に戻ったはずなのに。
アンも異常に気づいたようだった。太鼓の音はヒナがいなくなった道のある方向から聞こえる。
太鼓が移動している? あちこちで太鼓を叩いている? そんな疑問は最早どうでも良かった。
何故か私達が来た方角に金網フェンスがある。その向こうはどうやら団地のようだ。敷地内は杉の木で囲まれているけど、その隙間から集合住宅らしき建物が見える。
「えー? さっきこんなのなかったじゃんね? ってかこの団地の方角から来たはずなのに」
今はその団地の方から太鼓の音が聞こえる。太鼓自体はあいかわらずどこにも見えない。けど、すぐ近くにあるはず。単調な太鼓の音はもう目の前にあってもおかしくないくらいに大きく聞こえる。自然と私の声も大きくなる。
「そのはずだけど! 回りこんだ時に家を間違えたのかな! ヒナが太鼓の音に誘われたのだとしたらこの団地の中のはずだよね?」
「そうだけどー! え!? 入んの?」
私は男子がよくやってるように、金網フェンスに取り付いて登る。
「太鼓の音の方に行こうって言ったのはアンでしょ!」
「そうだけどー! 一旦戻ろ!? もしかしたらもう家に帰ってるかもしんないよ? もう一回電話してみよう? ねえ!」
アンはそう言いながらも私の後ろをよじ登っている。
金網フェンスの上から飛び降りた。教科書の入ったリュックがずしりと背中を引く。また太鼓の音が聞こえなくなってしまった。木の間を通り抜けて進むと、そこは団地であって団地でないようだった。後ろでアンが息を呑むのが聞こえる。
団地なのにまるで繁華街のように人が往来している。雑踏の音、話し声、他にも鈴や鐘の音、機械音や水の音、様々な雑音が渦になっている。だけど太鼓の音は聞こえない。
そこにそびえる建築物は、基礎は団地の集合住宅には違いないのに、ルールなく建て増ししたのか、歪な形になっている。管や線が雑に張り巡らされ、黒い蜘蛛の巣に覆われているかのようだ。今にも巨大な蜘蛛が顔を覗かせるのではないかと思わせる。それに、住宅のはずなのに看板が掲げられていたり、梯子がかけられた窓から人が出入りしたりしている。何だかみすぼらしい小屋から呼び込みしている者もいた。
私とアンは一度ゆっくり引き返し、木の後ろにしゃがみ込んで隠れた。
「ねえ? 何なの? ここ? マリ?」と、アンが心底怯えた表情で訴える。
「私にも分かんないよ。普通じゃないのは分かるけど」
「だから戻ろうって言ったのに!」
「私のせいにしないでよ!」
「マリはいっつも話聞かないじゃん!? さっきだって!」
「もういいよ! とにかく一旦団地から出よう。あれ?」と言って私は立ち上がった。
アンの後ろにも集合住宅があった。そこには私達が塀を登った一軒家があるはずなのに。そもそもさっき乗り越えた金網フェンスすらない。どこにも見当たらない。私達は団地の端にいたはずなのに、何故か二つの蜘蛛の巣の塊のような集合住宅に挟まれている。
「え? 何で? マリ! どうなってんの?」
アンは今にも泣きそうだ。私だって泣きたい。
「ちょっと声大きいよ。あいつらに見つかったらどうするの?」
もしかしたら食べられてしまうかもしれない。そういう予感が頭をよぎった。その繁華街のような団地を行き来する人々は全員が全員異形の姿をしていたからだ。
「そんな所で人間が何をしている……?」と、声をかけてきたひそひそ声は蛙のような姿だった。だけど象のような耳だ。
私は悲鳴を飲み込み、驚いて倒れこんだアンを立ち上がらせ、闇雲に走り出す。どこへ行けばいいのか分からない。異形の人々の間を潜り抜ける。とにかく団地の端に行き当たるまで走らなくちゃいけない。それなのにどこまで走っても延々と団地が続いている。方向を変えても何にも行き当たらない。行き止まりがどこにもない。
近くの集合住宅に数字が書いてある。第二棟。私達はその隣の棟へ走る。そっちは第三棟だった。第三棟から引き返し、第二棟のその向こうへと走る。そこは第五棟だった。引き返すも第二棟はいつの間にか第四棟になっている。
頭がおかしくなってしまいそうだ。もしかしたらもうおかしくなっているのかもしれない。
ふと、集会所のような小さな建物と木の影に人間の姿を見た。周辺には異形の人々も見当たらない。私は思わずそっちへ走り、建物の陰に身を隠す。必死に逃げ回ったけれど誰も追って来てはいなかったようだ。私もアンも息を整える。そしてアンがそこにいた人々に声を潜めて話しかけた。
「すみません。ここは一体何なんですか?」
返事はなかった。アンが話しかけた髪の長いおじさんは微笑みを浮かべて中空を眺めている。
「うわ! アン。それ人形だよ」
アンは飛び退くように人形から離れて私に抱きつく。
「わあ! 何で? マネキン?」
おじさん以外にもリアルな人形が何体か奥にあった。人間が立てかけてある、という風に見える精巧な人形だ。
「みたいだね。あ。圏外だ」と、私はスマホの画面を見て言った。
「うちのも圏外。どうする?」
アンもスマホを覗き込んで言った。
「どうするってここから出るに決まってるでしょ」
「でもヒナはどうすんの?」
「ヒナがここにいるなら探すけど、いるか分かんないじゃん。一旦出て誰か大人と一緒に……」
「それおかしい。いると思って入ったんだから探してから出るべきじゃん!」
「状況が変わったでしょ!? こんなへんてこな奴らがいる団地だとは思わなかったんだからさ!」
「それは、そうだけど」
「仮にヒナもこの団地に迷い込んでるとしたら、ヒナだって外に出ようとするはずだよ」
「そう、だね」
私は建物の陰から身を乗り出して周囲を見渡す。
「どこか出入り口みたいなの見えない?」
アンも私に続いて顔を出した。だけどこの祭りのような人混みでは集合住宅のような背の高い建物以外何も見えない。
よくよく見ると異形の人々はこちらに気づいても特に何かをしようとはしてこない。精々外国人をちらと見るかのようだ。
「取って食われはしないんじゃない?」と、アンが呟いた。私も同感だ。希望も込めて同感だ。
何も怖がる事はなかったのかもしれない。姿こそ異質だけど、皆ただ当たり前の日常を送っているだけのように見える。
「ちょっと道聞いてくるね」と、アンの肩をぽんと叩いて私は言った。
「ちょ、ちょっと待って。何でも一人で決めないでってば」
「別にただ話聞いてくるだけだよ?」
「でも今はうちら運命共同体じゃん。ちょっとは相談してから動いてよ」
「分かったよ。で、どうするの?」
「話しかけるのはいいけど、よく人を選ぼ?」
私は改めて異形の人々を見る。赤い蝙蝠みたいな人のつぶらな目と目が合った。
「大体動物みたいな見た目だからどれがどんな人かなんて想像つかないよ」
今言った言葉はもしかしたら失礼かもしれないな、と思った。気をつけないと。
「待って。あれ、あの人!」
アンが指をさした女の人は比較的人間に近い見た目をしていた。髪が青いし、青いふさふさの尻尾が生えてるし、ファンタジー映画に出てきたエルフみたいに耳がとても長いけど、この団地の中ではかなり人間っぽい見た目だ。
「あの人ね。ちょっと行ってくる」
「うちも行くってば」
私達は出来るだけ身を寄せて、異形の人々に出来るだけ触れないようにして青い髪の人に近づく。
「すみません」
「すみません。ちょっと良いですか?」
「え……? 何……? あら、また人間の子じゃない……」と、青い髪の人は振り返って立ち止まり、そう囁いた
人混みが二つに分かれてしまったので手短に話さないといけないけど。『また』?
「うちら以外に人間の女の子を見かけたの?」とアンが言った。
「ええ……。人間の性別はちょっと分からないけど……。あなた達より少し背が高かったわね……」と、青い髪の女の人はそう囁く。
私とアンはお互いの笑顔を見合わせる。
「ヒナだ……。すみません……。どこで見かけたんですか……?」
「んー? えーっとあれは『フウリン』だったか『メトロノーム』だったかな……。いや、『フウリン』方面だね……」
「やったね……。マリ。ヒナと合流してから出るよね……?」
「もちろん……」
「ところであなた達……。ここに来てどれくらい……?」
青いお姉さんはひそひそ声でそう言った。いや、初めからずっとひそひそ声だ。このお姉さんだけじゃない。この団地を行き来する異形の人々は皆ひそひそ声で喋っている事に今更気づいた。私もアンも知らず知らずひそひそ声がうつっている。
「えっと、さっき来たばっかじゃんね……、マリ」と、アンはひそひそ声で言う。
「さっきってどれくらい……?」
私はスマホの時間表示を確認する。まだ二十分くらいしか経っていない。
「えーっと、二十分くらい前に来たばかりです」と、私もひそひそ声で言う。
「ふうん……。そうなんだ……。それで、ヒナちゃん? を探してるんだね……」
「はい……。『フウリン』っていうのはどっちにあるんですか……?」
「うーん、口で説明するのは難しいなあ……。かといって私、これから用事があるのよね……」
「そうですか……。ありがとうございます……。それじゃあ他の人に教えてもらう事にします……。行こう、アン……」
「待って……。髪の毛くれたら案内してもいいよ……?」
私達は思わず頭を抱えて後ずさる。やっぱり何か化け物的な存在だった?
「大丈夫だよ……。怖がらなくて良いよ……」
そうは言っても、いったい髪をどうするというの?
「何に使うんですか……?」と、アンが恐る恐る言った。
「人間にとっての黄金みたいなものなんだよ……。私達にとっての人間の髪の毛っていうのはね……」
「えっとどれくらい渡せばいいんですか……?」と、私は言う。
髪の毛くらい、とは思えるけど丸坊主になるのは御免だ。
青いお姉さんは手を合わせて拝んできた。
「丸々一本くれたら嬉しいな……、なんて……。駄目……?」
髪の毛一本にどれくらいの価値があるのかは分かんないけど、青いお姉さんの遠慮がちな態度から少しは想像できる。
「一本くらい別にいいよ……」と、アンが安請け合いする。
「本当に……、じゃあ……」と、とても嬉しそうにお姉さんは催促した。
私はアンを庇うように前に出る。
「疑うわけじゃないですけど、一応『フウリン』に着いてからでいいですか?」
青いお姉さんは「ま、いいわよ……。ついてきて……」と囁いた。
私達は青いお姉さんについて歩く。人混みをを潜り抜ける。集合住宅のエントランスを通り抜ける。エントランスは屋台が並んでいた。やっぱりここも様々な音に溢れている。コオロギの鳴き声や川のせせらぎまで聞こえる。それにとても香ばしい匂いがする。お腹の中で食欲が暴れだす。
「それにしてもあなた達って綺麗よね……」
青いお姉さんが誰にそう言ったのか最初は分からなかったけれど、どうやら私達がそう言われたみたい。
「え……。えっと、ありがとうございます……」と、私は一応感謝の言葉を伝えておく。
階段で五階まで上がると隣の棟への渡り廊下を通る。渡り廊下では将棋やボードゲームに興じている人々が沢山いた。よく見ると人間の髪の毛を賭けているようだった。
「髪の毛もそうだけど……、鼻も口も手足も全部美しいと思うわ……」と、お姉さんはうっとりとそう言った。
ヒナは結構モテているようだけど私に――そしておそらくアンにも――そういう浮いた話は起こらない。この異形の人達にはそう見えているのかな。
「あ、あの……。お姉さんも綺麗だと思います……」
アンはお姉さんのお尻で揺れる尻尾を見つめながら言った。確かに綺麗な、毛並みだ。
「ありがとね……」
エレベーターで何階か上昇して一階についた。似たようなエントランスを通り抜けると似たような集会所の建物がある。そしてまた隣の集合住宅のエントランスへ。やっぱり屋台が集まっている。
「でも人間の美しさにはさすがに敵わないわ……。私達みんなの憧れなのよ……?」
私達ではなくて人間の話か。
階段、共用廊下、渡り廊下、エレベーター、時には住居に入り、ベランダを抜けていった。あちらからこちら、こちらからあちら。気がつくと屋上にいて、扉一つで一階に辿り着く。途中までは帰る道順をしっかり覚えていたけれど限界を越えてしまった。
「おかしくない……?」とアンが囁いた。
「うん……。おかしいと思う……。この廊下さっき通ったよね……」
もう三回は通った気がする。
「さっきは反対向きに通ったはず……。これ騙されてるんじゃ……」
「一、二、三で振り向いて逃げるよ……」と、私はちらとアンに視線を送って囁いた。
私はいつの間にか繋いでいたアンの手を離す。
「えっ……、ちょっ……」
「一……」
逃げたとしてもどこに行けばいいのかは分からない。
「二……」
でも現状どこに行くのか分からないんだから同じだ。
「三……」
二人で勢いよく振り返る、と同時にお姉さんに肩を掴まれた。
「こっちよ……。着いたわよ……」
気がつくと私達は広場にいた。集合住宅を繋ぐ渡り廊下と渡り廊下の間に増築したらしい空中の広場だ。広場の中心には竜巻みたいなオブジェが飾ってある。所々の床に隙間があって遥か下が見える。思わず足がすくむ。ここも人は多いけど地上と比べると静かな気がする。全員が声を潜めているのは変わらない。
「ここが『フウリン』ですか……?」と私は青いお姉さんに囁きで尋ねた。
「これね……」と、青いお姉さんが囁く。
お姉さんが指差した円柱型の木造の建物には大きな看板に筆で『宿』と書かれていた。そしてその軒先に風鈴が吊るしてある。風鈴は風に揺れていて控えめに響いている。それ以外にも犬の吼え声や波の音がどこからか聞こえてくるけれど、その風鈴の音はささやかだけど強い存在感を主張していた。
「ありがとうございます……。これでいいですか……?」
私は髪の毛を一本引き抜いて差し出した。青いお姉さんは恭しく髪の毛を受け取った。
「ありがとね……。また困った事があれば助けになるわ……。じゃあね……」
私達はもう一度お礼を言って青いお姉さんとお別れした。だけど広場を見渡したところ、ヒナの姿はどこにもない。
「また誰かに尋ねるしかないね」と、私は呟いた。
「もうすぐ夜になっちゃうね。急がないと」
赤い太陽が地平線に沈もうとしている。私達は広場で聞き込みをした。話を聞いてくれる人も聞いてくれない人もいたけれどヒナの事は何も分からないままだ。逆に、ここに来てどれくらいなのかを何度も聞かれた。何でそんな事を聞きたいのか、と尋ね返しても誤魔化されるだけだった。
「どうする? マリ。何にも手がかり見つかんなかったけど」
「うん。もう真っ暗だね。ヒナどうしてるだろ」
一つ一つの部屋に明かりが灯り、廊下の蛍光灯や地上の街灯、それにあちこちに据えられた篝火のようなものが団地を照らす。団地はまるで表情を変えた。お祭りのような騒々しい雰囲気が、厳かな儀式めいた雰囲気に変わった。だけど地上だけは別で、活気はさらに高まっているようだった。
「あ!」
アンが何かを閃いたのか、目を見開き口を開ける。
「どうしたの?」
「この宿の人に話聞いてなかった」
「本当だね。もしかしたらここに泊まってるのかも」
風鈴が風に揺れている。私達は軋む宿の扉を押し開けた。内装は木とトタンで設えている。明かりは蝋燭だけで、なんだか心もとない。
「いらっしゃい……。おや……。人間かい……」
そう言ったのは太ったウサギのような人だった。でもその毛皮はゼブラ柄た。それにとても目つきが悪い。カウンターの向こうでふんぞり返っている。
カウンターの向こうにはあの人間そっくりの人形が椅子に座っていた。その人形は優しそうなおばあさんだった。
「ちょっとお尋ねしたい事があるんですけど……」と、私は一歩前に進み出て言う。
「客じゃないなら帰んな……」
このウサギのおばさんも声を潜めている。
「人探ししてるの! 人間の女の子!」と、アンが加勢した。
ウサギのおばさんは慌てて耳を抑える。
「やかましいよ……。私ゃ客の注文にしか応じないんだ……。分かったら帰んな……」
「それじゃあ、お客になります……。ここに泊まります……。それなら良いんでしょ……?」
ウサギのおばさんに髪を見せつける。
「もちろん……。ナマ髪の毛なら三十本だよ……」
「じゃあ一人十五本だね……」
アンがリュックを下ろして中を探り、ハサミを取り出しながら言った。
「一人一泊三十本だよ……」とウサギのおばさんは吐き捨てるように囁いた。
「そうですか……」
二人で六十本の髪の毛を切ってウサギのおばさんに支払った。
「これで尋ねてもいいんですよね……」
私は身を乗り出してウサギのおばさんの目を見つめる。
「ああ、好きにしな……」
「今日私達以外に人間の女の子を見かけませんでしたか……?」
「……いいや……」
ウサギのおばさんは目をそらした。
「本当ですか……? 何か隠してませんか……?」
「何にも隠しちゃいないよ……」
「お客さんにもいなかったですか……?」
「いくらお客さんでもお客さんの事は話せないねえ……。守秘義務ってもんがあるんだ……」
「いくら払えば教えてもらえますか……?」
ウサギのおばさんは値踏みするように私の髪の毛を眺める。
「百本ってとこかね……」
アンからハサミを受け取り、適当に髪を切る。百本以上あるはずだ。そしてカウンターの上に置く。
「いいだろう……。客の事でも何でも聞きな……」
「人間の女の子の客はいました?」
「今日の客はあんた達二人で全部だ」
思わずハサミを強く握り締めたが、アンに取られてしまった。
「あんた達、ここに来てどれくらいなんだい……?」
「あなたは私のお客さんじゃないので答えません」
ウサギのおばさんは忌々しげに鼻を鳴らした。
案内された部屋は家の私の部屋よりも狭く、天井はとても低い。粗末なベッドが二つある以外は何もなかった。屋根があるだけマシだと思うしかない。それにここはとても静かだ。外は小さな音が大量に溢れていて耳の理解が追いつかなかった。
小さな窓から団地の様子が見える。異形の人の群れはあいかわらずごちゃごちゃしている。だけどここの人々も外の人々とあまり変わらないように思えてきた。
ここからは団地の外も見える。何故あそこに辿り着けなかったのだろう。すぐそこに見えるのに。
「ここは空間が捻じ曲がってるのかな」と、私はなんとはなしに呟いてみる。
「え? 空間? 何の話?」と、アンは少し慌てた様子で返事する。
「うん? だって方角とか方向とか滅茶苦茶だったじゃない? 地上で階段を上ったら地下に着いたなんて事があったでしょ?」
「そだね。確かに。角を曲がったはずなのに扉を開けてるなんて事もあったね」
「そう。それに同じ道を通っても次は別の場所に辿り着くって事もあったよ」
「一体ここの人はどうやって好きな所へ移動してるんだろうね」
「さあねー」
多分考えても分かるって事はないと思う。異形の人達特有の何かがあるのだろう。
「これからどうする?」と、アンが言った。
「どうするべきだと思う?」と聞き返す。
「そうだなあ。結局ヒナの行方は分かんないし。そもそも『フウリン』にいたのはヒナじゃなかった可能性もある」
「じゃあここを出る? 誰かに髪の毛支払えば案内してくれそうだけど。それで改めて大人と一緒に……?」
「ううん。まだ出ない。だってこんな話、誰も信じないじゃん? 信じてくれたとしてもまた戻ってこれるとは限らないしさ」
「そうだね。ここに入ったのも偶然で、何かの拍子に入ってしまったって感じだった」
「それね。だからヒナを見つけてからじゃないと出れない。それにマリも言ったけど髪の毛払えばいつでも外に案内してくれるだろうし」
「そうだ。その手があった」
私は思わず立ち上がり、天井に頭をぶつける。
「え? 何? 自分で言ったんじゃん?」
「そうじゃなくてヒナを見つける方法思いついた」
翌日の朝、私達は広場の竜巻のオブジェの前に立った。団地は朝から活気に満ちている。この広場は相変わらず他と比べると静かだけど、それでも多種多様な音がやってくる。
恨めしげにお腹が鳴った。最後に食べたのは昨日の給食だ。アンは朝からごねて中々動こうとしなかった。私もなんだか体が重い。でもこの団地の食べ物を食べる気にはなれなかった。あの異形の人々が食べている物が人間の食べ物とは限らない。
私は広場の人々を前にして、大きく息を吸い込んだ。
「すみません! 私達は人を探しています!」と、私は大声で言う。
異形の人々は一斉に耳を塞いで、こちらを睨み付けてくる。何人かが野次を投げかけてきた。とても控えめな野次だった。
「今更だけどここの人々は耳が良いんだろね……。普通に話すボリュームでいいんだわ、きっと……」と、アンが私に耳打ちする。
「そうみたいだね……。皆、耳大きいしね。すみません。ヒナという女の子を探しています。私達より少し大きくてとても可愛いです。赤いランドセルを背負っているはずです。どうか探してもらえませんか?」
人々はほとんど誰もこちらに注意を払っていない。それこそ聞こえていないかのような振る舞いだ。
「さすがに駄目だろうね……。ここの人達は何と言うか……。親切心では動いてくれなさそうというか……」
「拝金主義……?」
「うん……。拝髪主義だよ……」
「まあでも今はそれが助けになるはず……」
「そだね」
もう一度息を吸い込む。周りを見渡してしっかりはっきり話す。
「ヒナを無事に届けてくれた人には私達の髪をほぼ全部あげます」
「ベリーショートくらいなら大丈夫」と、アンが付け加えた。
一斉に異形の人々の視線が集まった。何人かが急いだ様子で広場を飛び出し、何人かは私達に真偽を確認しに来た。だからきちんと説明する。もちろん嘘ではない。本当のことを言えば髪を切りたくはないけど、ヒナが見つけられるなら安いものだ。
もしこれで見つけられなければ諦めて団地を出る事に決めた。昨晩アンとよく話し合い、タイムリミットも決めた。
「日が沈むまでにお願いします。その後、私達はここを出て行くつもりです」
広場の人口が十分の一以下になった。後はただ待つしかない。ここから出て行けば迷子になるだろうから。
ただじっと広場の竜巻モニュメントの前に座っていた。ぽつりぽつりとアンと話したけど、何を話したか覚えてない。今日の昼食も食べ損ねて、合計三食を逃した。考えるのも億劫だ。
「何か買って食べない?」と、アンがそろりと立ち上がって言った。
「もうこの髪をあげるって約束しちゃったでしょ?」
「じゃなくてさ。普通にお金あるし」
そういえばそうだ。頼まれたから髪を払ったけど普通のお金だって少しは持ってる。私も立ち上がる。関節が軋み、筋肉が強張った。
「あ、駄目だ。広場から出られないよ。戻って来れないかもしれない」
広場に屋台の類はない。
「そっか。そうだね」
「考えたら分かるでしょ」
口に出してすぐまずい言い方をしたことに気づいた。
「何それ。考えなしだって言いたいの?」
「別にそういうわけじゃないよ」
「マリなんていっつも優柔不断の癖に」
「否定しないけどさ。人の事言えないでしょ。アンは聞いてばかり。どうする? どうする? ってさ。たまには自分で考えたら?」
「それは相談してるだけじゃん!?」
「どうだかね」
「マリはいっつも一人で勝手に決めるし、人の話聞かないし、そもそもここに迷い込んだ時だって! ヒナがいなくなったのだって!」
「それは私の責任じゃないでしょ!?」
「ちょっと待って……」
そう言ってアンがよそに目をやる。視線のない目で何かを見ている。耳を澄ませている。
広場の人々が迷惑そうにこちらを見ていた。声が大きすぎたようだ。
「何?」
私も耳を澄ませる。種々雑多な音が溢れる中、確かにその音が、その声が聞こえた。ヒナの声だ。泣いているような叫んでいるような声がどこからか聞こえる。
「行こっ」
アンの手を掴み、声の聞こえる方を探りつつ走り出す。広場の外に出ると声は上の方から聞こえてきた。エレベーターだとどこに連れて行かれるか分かったものじゃないので階段を上る。だけどすぐ後に、それは階段でも同じだという事を思い知る。どこかの部屋の一室に迷い込んだ。でも声に近づいてはいるようだ。声の聞こえる方、つまりトイレの中に入ると、そこは地上の通りに繋がっていた。雑踏に飛び込み、耳を澄ませる。群集のひそひそ声を貫いてヒナの悪態のようなものが聞こえる。
「こっち!」
アンの大声に人々がおののく。今度はアンに引っ張られて走る。気がつくと私達は駐車場を走っている。何の変哲もない自動車もあれば、馬車のような乗り物やただの箱にしか見えない何かが駐車されている。ヒナの声は一つの軽自動車の中から聞こえてきた。何も考えずに助手席の扉を開くと、そこは地下室のような薄暗さだった。どうやら配電室のようだ。それらしい設備がコンクリートの殺風景な部屋に整然と並んでいる。ヒナが部屋の隅で顔を伏せて縮こまっていた。
「ヒナ!」
私とアンは同時に叫び、ヒナに駆け寄った。ヒナも驚いた様子で顔を上げて立ち上がる。私達は抱きしめ合った。
「さみしかったよー。マリちゃん。アンちゃん」
ヒナの顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。それにどうやらヒナもかなり髪を支払ったらしい。長かった髪が肩までの長さになっている。
「もう! こんな所で何してんの!? うちもマリも心配したんだから!?」と、アンも涙声を震わせた。
「ごめんー」
私も涙を拭い、改めてヒナを点検する。髪が短くなった事以外は大丈夫なようだ。
「それでここに来てからどうしてたの?」
「えーっと。とにかくここから出ようといっぱい歩いたよ。でも全然出られなくて。お腹が空いたら屋台で食べて。あ、でもお金は使えなかったから髪で払ったよ」
「食べたの? 何ともなかったの?」と、アンが掴みかからんばかりの勢いで言った。
「うん。普通の、何ていうか、定食だったよ。それで、えっと誰も使ってなさそうな寝室に入っちゃって一泊した。でも朝になったら道端で寝るなって怒られちゃった。どう見ても寝室なのにみんな通り抜けて行くの。それでまた朝からこの団地を出ようと歩き回ってたら突然知らない人に連れて行かれそうになって」
「え? 何で? どうしたの?」と、私はヒナの手をぎゅっと握って言う。
「分かんないよ。広場が何とか、『フウリン』が何とかって。あたし怖くて逃げちゃった。でもあの人達大きな声出したら嫌がって近づいてこないの」
私とアンは深々と謝った。そしてここに来てからの事を説明した。ヒナを探して団地に迷い込んでから、ヒナを探すためにここの人々を利用した事まで。
「ああ。なるほどね。何か悪い事しちゃったね」
「別に悪くはないよ。うちとマリに比べれば。それでここに迷い込んだのかー」
「迷い込んだというか。閉じ込められたんだよ。そうだ二人に話さないといけない事があった。っていうか二人はどうやって入ったの?」
私とアンは同時に振り返る。この部屋にある唯一の扉は閉まっていた。私達は車のドアからここへと入ってきた、もしくは出てきたわけだけど、こちらの扉から駐車場に通じているとは限らない。というか十中八九通じていない気がする。私は扉に駆け寄り、そっとドアノブを捻る。動かない。
「すみません。誰かいませんか? 友達が見つかったので帰ります。髪もお支払いします」
扉の向こうに誰かがいる気配がする。その誰かが扉一枚隔てて言った。
「お前達。ここに来てどれくらいになる?」
「一体何なんですか? ここから出してください」
「良いから答えろ。この団地に来てどれくらい経ったんだ?」
私はスマホの時刻表示を見る。ここに来てもうすぐ二十四時間になる。
「ほぼ丸一日です」
「そうか」
それ以上の返答はなかった。私が何を言っても誰も答えなかった。そして扉は開かなかった。
「マリちゃん! ちょっと来て!」
戻ると二人はスマホを取り出していた。その画面にはメモ帳が表示され、(喋らないで)と書かれていた。
(どうしたの?)と、私もスマホのメモ帳で尋ねる。
(ここの人達は耳がいいから、こうしないと秘密のお喋りが出来ないんだよ)と、ヒナ。
そしてスマホ画面をさらにスクロールし、既に書かれている文章を見せてくれる。アンはもう読んだらしい。
(ここに入った人間はその内、人形にされてしまうらしい。早く逃げないと)と書かれていた。
(あの人間そっくりの人形?)と、私。
ヒナはこくりと頷く。その二つの瞳には恐怖の色が滲んでいた。
「ああ……。ヒナ……。目を覚まして……。どうしよう、アン……?」
アンもばたりと倒れて動かなくなる。
「アン……。ヒナ……。私を独りぼっちにしないで……。ああ……」
私も倒れる。少し過剰な演技だったかな。あとはただ待つしかない。念を置かれて人形になるまで待たれたらおしまいだ。異形の人々が心臓や呼吸の音を聞き分けるくらい耳が良くてもおしまいだ。
数分後に開いた扉から入ってきたのは福耳のトカゲ男だった。しかもどうやら一人みたい。欲張って髪を独り占めしようとしたのだろう。
合図はナシ。誰かが触れられたら後に続く。
トカゲ男が近づいてくる。トカゲの表情は読めないけど、その足取りの軽さから見るに完全に油断しているらしい。トカゲ男の足が私の足に触れた。
「わアアああアアアぁあアあああああああアアアあああぁああああ!!!」
私はあらん限りの力を振り絞って声を張り上げる。不意を突かれたトカゲ男は耳を抑えて倒れこんだ。私達は立ち上がり、手を繋いで配電室を飛び出した。
そこがどこかの部屋のリビングだと認識すると同時に、振り返って扉を潜り抜ける。
次は共用廊下。誰かがこちらを指差した。取って返す。
屋上へと続く階段。叫び続けた私の息が切れ、アンが続いて叫ぶ。
駐車場。多くの異形の人々がこちらを見ている。
『フウリン』とは別の広場。アンの息も切れる。
屋台街。ヒナと叫びを交代する隙を突いて人々が詰め寄ってきた。私達の方へと手を伸ばす。踵を返す。
煙たくて薄暗くてじめじめした通路。異形の人々の中でも柄の悪そうな人々が人形を運んでいる。人間そっくりのあのマネキンだ。何人かはそのマネキンの髪を剃っている。つまりそれが目的だったんだ。人形になっても髪は生えてくるのだろうか。振り返る。
繁華街のように賑わう場所。地上。集合住宅の外観には見覚えがあった。鳥の巣のように管や線が絡み合っている。人々は皆遠巻きに、こちらを発見する。全員が耳を抑えている。そして少しずつこちらに近づいて来る。両手が塞がれてるからか飛びかかってこない。だけどヒナの叫び声に怯む様子もない。
「早く! 早く上ろう!」と、アンが怒鳴る。
振り返るとあの金網フェンスがそこにあった。外には塀の上を通らせてもらった一軒家が確かにあった。私もアンに続いて上る。ヒナは何故かランドセルを探っていた。
「何してるのヒナ! 早く!」
ヒナはハサミを取り出して自分の髪の毛をざくりと切ってしまった。そして手に掴んだ髪の束を群集に投げつける。異形の人々は髪の毛を取ろうと躍起になって手を伸ばす。フェンスのてっぺんに座った私もアンもヒナの意図を理解する。
「わアアああああアアアぁアアああアぁあアアアああアあアああぁぁアアア!!!!!」
三人同時に張り上げた声で異形の人々は転げ回った。何だか酷い仕打ちをしているような気がしてきた。でもあの人達は私達の事を髪の毛を収穫できる作物としか思ってないんだ。
アンと二人でヒナに手を伸ばし、ヒナの手を掴むと一気に引き上げて、そのままの勢いで金網フェンスを乗り越えた。
コンクリートの床に背を打ち付ける。太陽はかなり赤づいている。私達がいたのはどこかの屋上だった。
「そんな……。何で!? 何で出られないの!?」
私は立ち上がり、屋上を見渡しながら言った。二人も立ち上がり、辺りを見渡す。たぶんあの団地のあの集合住宅の屋上だ。異形の人が誰もいないのは幸いだ。
「あのフェンスであってたの?」と、アンが言った。疑いの眼差しを私に投げかける。
痛む喉を酷使して叫んでしまう。
「また私のせいにするの!? アンも見たでしょ!?」
「聞いただけじゃん!? あってたの!? どうなの!?」
「あってたよ! 何もかもあの時と同じだったよ! なのに! 何で……?」
それはつまり、そういうものだからだ。
「考えてみたら当たり前じゃん。同じ道を通っても同じ場所に辿り着くとは限らないってマリも言ってたし」
そうだった。何で思い当たらなかったんだろう。
「分かってたなら言ってよ!」
「もう喧嘩しないで!」
ヒナが二人の間に割り込んで叫んだ。ヒナは泣いていた。
「ごめん」と、アンが言った。
「とにかく出る方法を考えようよ」と、ヒナは涙を拭って言った。
「方法なんてないんじゃない? ここにはどこかに行く方法なんてないんだよ。それこそ偶然どこかに辿り着くだけでさ」
それか異形の人達に案内される以外に目的地に辿り着く事は出来ないのかもしれない。
「もうちょっと考えなよ」と、アンが私を睨み付けて言う。
もう言い返す気になれなかった。
「うーん。でも、何か方法があると思うんだよね。うわっ」
ヒナが何もない所でこけた。
「何してんのヒナー? ほら、捕まって」
「ありがとう。アン。あれ? 足が動かない」
私はヒナの足元に走り寄る。ヒナの足はとても冷たくなっていた。それに見た目は何も変わらないのに人間の肌とは違う何かに変質している。
「もしかして……」と、アンは何か言葉を飲み込んだ。
人形化している。まさかこんな形で人形になるなんて。異形の人達の特殊な技術で人形と化してしまうのだと思っていた。
「何でヒナだけ?」と、アンが呟いた。
「あたしが先に団地に入ったからだよ、たぶん」と、ヒナが足をさすりながら言った。
「とにかく外に出るしかないよ。ヒナ、肩に掴まって」
私はヒナに肩を貸す。
「ちょっと待ってよ。無闇に進んでも仕方ない事はもう分かったじゃん」
アンが私の肩を掴む。
「じゃあ何か良いアイデアがあるの? どこに行けば良いかなんて分からないんだから進むしかないでしょ!」
「それは、ないけど」
私は屋上に続く唯一のドアに進む。その向こうに何があるかは分からないけれど行くしかない。だけどそのドアの向こうに誰かがいた。異形の誰かだ。施錠されているのかドアをこじ開けようとしている。その施錠で、こちらから出る事も不可能なのかは分からない。だけど私の足はもう進む事が出来なくなってしまった。
「ほら、アンがぐずぐずしてるから!」
「関係ないでしょ!」
ヒナが私の腕からすり抜けて床に倒れこんだ。もう足に力を入れる事も出来なくなっている。
「ねえ、マリちゃん。アンちゃん」
「早くそっちからもヒナを抱えてよ!」
「分かってるよ! 命令しないで!」
ドアの向こうにはかなりの人が集まっているようだ。とてもその空間には納まりそうにないほどの大群衆の声が聞こえる。声だけじゃない。風鈴の音。犬の鳴き声。メトロノーム。鐘の音。太鼓。波音。エンジンの音。野次。演説。ギター。ブーイング。ありとあらゆる音が押し寄せる。
「ねえってば」
「それでどうするわけ? もうどこにも行き場ないよ」
「分かってるよ。だから考えてんじゃん」
「ねえ、聞いてよ! ここから出たくないの?」と、ヒナが叫んだ。
二人でヒナを見つめる。ヒナの体はもう首から上しか動かないようだ。
「何か分かったの?」と、私は言った。
「どうすればいいの?」と、アンは言った。
ヒナは首を振る。
「どうすればいいのかは分かんない」
ヒナがにっと笑う。
「こんな時に何言ってんの……。ヒナ」
「ヒナ! 諦めちゃ駄目!」
「大丈夫だよ……。マリちゃんもアンちゃんも……、あたしを見つけてくれたからね……」
ヒナの頬から温もりが失われ、その瞳から光が失われた。直後、ドアを蹴破られる。私達は叫びながら、ヒナを抱えて後退する。
みるみる屋上が異形の人々に覆われる。中にはウサギのおばさんや青いお姉さんもいた。全員が耳を抑えて、私達の大声に警戒している。
涙が止まらない。なんで、ここに来て下らない事で言い合ったりしたんだろう。ヒナは最後までずっと考えてたのに。私はどうして。
「マリ! ヒナの言った事、どういう意味だと思う?」
意味? 意味って何?
「何か思いついたのかな……」
「出たくないの? って。そう言ったじゃん」
「でも分からないって。首を振って……」
「ヒナも何か分かりそうだったんだよ。何か。何か」
何か。何か。何か。
「私を見つけてくれたからね、って言った。あ!」
私の背中が落下防止用の手すりにぶつかる。追い詰められた。けど異形の人々は慎重に近づいてくる。
「何!?」
「それだ!」
「どれ!?」
私はアンと顔を見合わせる。頷き合い、三人で手すりを乗り越える。
「アン! 私達、ヒナという目的地にちゃんと辿り着いたよね!?」
「本当だ!? 何で? あの時はヒナの泣き声が聞こえたからがむしゃらで」
「それだよ! 声だよ! 音だよ!」
異形の人々が近づいてきたのでさらに叫ぶ。
「太鼓だ! 太鼓の音は聞こえる!?」
「さっきは聞こえた!」
喉を振り絞って叫びながら、耳を研ぎ澄ませる。太鼓の音は確かに聞こえる。あの時と全く同じ音だ。どこから?
「後ろだああああああああああああ!!!!!!」
私とアンは同時に叫び、集合住宅の屋上から跳んだ。
衝撃は少しもなかった。呆気ないほどに簡単にアスファルトの上に着地した。私もアンも周囲を見渡す。異形の人々はどこにもいない。気味の悪い集合住宅もどこにもない。朝焼けに染まる普通の住宅街の一角だ。
「一体どうなったの? アンちゃん。マリちゃん」
私もアンも意味不明な事を泣き叫びながらヒナに抱きついた。腰が抜けたみたいに座りこむ。
「痛いよ。二人とも。団地から出られたんだね。よかったー」
「ヒナのお陰だよ三人とも脱出できたのはね」と言ってヒナの背中を軽く叩く。
「そもそも迷い込んだのもヒナを探してたからだけどね。もう勝手にどこかに行ったりしないでよ」と言ってアンもヒナの肩を軽く押す。
「ごめんね。それより早く帰らなきゃね」と、言ってヒナが立ち上がる。
私もアンも立ち上がる。その時どこからともなく太鼓の音が聞こえた。深い地の底から響いてくるような重々しい音が響いてくる。
私達三人は顔を見合わせ、走り出した。太鼓の音の聞こえない方へ。
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