3.彼女はそこにいた
「…………」
二の句が継げない、とはまさにこのことか。隼斗は、おそらく十にも満たないであろう見目の少女を前に、全身を硬直させていた。
決して上等とは見えない紅色の和服を纏い、はしたなく細い右足をさらけ出したあぐら姿。艶やかというには幼少に過ぎ、しかし市松人形じみた長い黒髪を地面に遊ばせ、格子越しに無沙汰を余す様にはこの世のモノと隔絶した異様を感じ得ない。
底知れぬ冷たい闇を両目にたぎらせた、奇妙な少女は――ただ、そこにいるだけだった。
「……女の子」
隼斗は呟いた。何か言わねば気圧される、されど絞り出せた言葉は湖面に落ちた枯れ葉も同然。
そんな呆然のリアクションに満足したのか、少女はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、おもむろに右手を天井へと突き上げた。
その瞬間――目を灼くほどの瞬間的な白光と共に、ばぢぃッ!と空気が弾けるような音が響く。
「わっ!?」
隼斗は思わず両手で視界を覆い、とっさに半身をそらした。
一瞬。たった一瞬のほとばしりに、心臓が跳ね上がる心地を覚える。
電圧を思いっきり上げられた電子機器が吹き飛ぶ映像を見たことがあったが、感覚としてはそれに近かった。そう、電気。いや、イナズマと言っても良かったかもしれない。
しかしおそるおそる隼斗が腕を下ろすと、決して唯一の明かりである電灯が弾け飛んだようでもなく、当然ながら地下にほとばしる稲光など影も形もありはしない――少女の手元を除いては。
「言うに及ばん。理解するには実践が一番でな」
くつくつと笑い、和服の少女はまるで手鞠か何かをもてあそぶように、手元でばちばちと電気を弾けさせていた。
隼斗は一旦驚きこそすれ、すぐに一つ息を飲み、その光景を目に焼き付けることに意識を向けた。『予備知識が無ければ』隼斗とて情けなくすっ転んでいただろう。
「……『雷獣』……本物なのか」
隼斗は、知識としては知っていた。その存在を。
鳴嶺の家に代々伝わる、雷の化身の伝説は既に聞かされていた。それもいずれ引き合わせられることになる、そう言われて遂にやって来たのが今日この日だったのだ。
その存在は浮世を揺蕩うお伽の語り草にあらず、引き摺り込むような冷たい闇の虚に厳然とあり。
『化生』――分かっていたから、どうなるというものではない。
次はどう来る? 全身を沸き立たせるような臓腑の早鐘が、警戒心に彩られた時だった。
少女は腰に両手を当て、これでもかと言うほどぺったんこの胸を張って立ち上がった。
「いかにも! さてさて寄ってしからば音に聞けい。我こそは蒼天に神鳴る霹靂の化身にして鳴嶺と契約せし雷の獣王、靂! 三国をば一条に貫かん紫閃の操手、盛名聞かば草木は伏し天神地祇をも震撼せしめん――」
「あの、申し訳ないんだけどその口上できるだけ短めにお願いします」
レキはずっこけた。まさしく三十年も前に流行ったコント番組のように。
うぐっ、とレキの口がへの字に曲がる。無理もない、彼女が腰に両手を当てて「ふんすっ」とドヤ顔で名乗りを上げる様には威厳もへったくれもありはしなかった。もはや完全にちょっとオマセな女の子を見る目の隼斗である。
「なんじゃい、久々に興が乗ってきたところに水を差すのが人情か! 初見の人は優しく笑顔でハートキャッチが雷獣の流儀ぞ! 雷獣ってベースうさぎじゃから寂しいと死んじゃうんじゃぞ!」
「いやその、俺、あんまり長くて退屈な話だと人よりすぐ眠っちゃいがちなんでこればっかりは」
「うぎ~、初対面でなんと口幅ったい奴じゃ! この近頃の若者め! なれば儂の四十八の奥義で足腰ガックガクに立たなくなるまでひーひー言わせたろか!」
レキなる少女はその黒髪が天を衝くような剣幕でキシャーッとがなった。こうなってはパパにおもちゃを買ってもらえなくて女の子が駄々こねてるのと何が違おうか。いや、いくら駄々でもパパに向かって両手で中指立てる女の子は滅多に見られないだろうから、この例えは正確ではないかもしれない。
この茶番がひとしきり終わるまで待っては日が暮れる、と隼斗はあくびを噛み殺してから改めて告げる。
「ごめんなさい、雷獣様。正直、まさか相手が見た目幼女とか全然想像してなかったものだから……つい口が滑ったというか」
「幼女ゆーな! 何が『つい』じゃ、急に素直になりおって。それと様付けはくすぐったい。儂と鳴嶺の仲じゃ、レキと呼ぶことを許そうぞ」
落ち着くと、幾分か威厳じみたものが戻ってきたような雰囲気が感じられた。
「さて改めて、儂は雷獣のレキ。そうさのう、雷獣やって四百とんで今年で七歳じゃったかな。お主ら人間の魑魅なる隣人――すなわち化生である」
隼斗は、瞬間的に悪寒が走るのを感じた。口の端をほんのり上げるレキの微笑、見た目十歳にも満たない少女が出せる表情ではなかった。喜色に歪み、うねり、虚が混ざり合う。どれだけの生を重ねれば、こんな顔になるのだろう。
彼女が妖しき人外の範疇に依るモノ――化生であることの何よりの証左であった。
「化生のことは小さい頃から父さんに、何度も話を聞いてきたよ。実際に化生らしい連中とも何度か会ったことあるし。ただ俺からしたら、ちょっと変わった生き物、くらいの認識でしかないけど……」
「ふふ、この地でそうそう悪辣な遭逢もあるまいて。なにせ、この地は儂と鳴嶺が約する『化生互助会』に守られておるのだから」
「……互助会? 話が見えないな。父さんは何も教えてくれなかったからさ、いろいろ聞かせてよ」
「うむ、とーぜんじゃ!」
レキは待ってましたとばかりにバサァっと黒髪をなびかせ、また威厳の無い不敵な笑みに変わる。
「化生互助会、読んで字のごとく化生が互いに相助け合う愉快な会じゃよ。別に入ったらツボ買わすとかそういうんじゃないからの」
「……はぁ」
「この高度に統制された人間社会、なかなかこれが自然を故郷とする者の多い化生には生きにくいのでな。我々は我々で助け合い、また悪しき者は罰そうということじゃ。人界の情報も明日の食い扶持も、大勢で組んだほうが手に入りやすいのは道理じゃろう? ゆえに、この界隈の化生を律しておるのだよ」
「へぇ。それはたしかに、そんなもんなのかな。で、それが俺と……っていうか、うちの家柄? と、どんな関係が?」
レキがぽつぽつ口にする『鳴嶺』。己の名字に何か奇妙な謂われでもあるのか、隼斗は少し前から頭の隅に引っ掛かっていた。
「うむ。元はと言えばこの互助会はな、儂がこの地の人間側の代表であった鳴嶺の高祖と契約して始まったものじゃ。この我らの契約は次代に繋がねばならぬ。次代――つまりお主は今こそ鳴嶺の『家督継承の儀』を行い、化生互助会の首魁を引き継いでもらわねばならぬ」
「……家督って……何だそれ、戦国時代かよ」
身震いしつつ、そんなつまらない皮肉を捻り出すのが隼斗の精一杯だった。「会うだけでいい」と言った父親を問い質したい気分にもなるが、振り返ってもアガナイと共に入口付近で様子を見守っているばかりだ。
『化生』という人外の存在そのものについては、この世の中、人々の生活の陰にひっそり生きていることを知っていた。今思えば、そんな存在を父からまことしやかに教えられてきたのは、この日に備えるためだったのだろうか。しかしそんな予備知識があるとしても、これはいきなり一介の高校生に頷ける内容ではなかった。
「ま、お主が拒否するというなら、こちらで別の手を打つ用意があるからその点は安心せい」
安堵を促すレキの言葉。しかし隼斗の胸中は、次の言葉に打ち崩される。
「じゃが、お主がやることになるじゃろうて。……稀代の『シズメ』であるお主が、な!」
ちらりと八重歯を覗かせた、かわいらしい満面の笑み。
同時に深く星を吸い込む大海のような黒瞳が、隼斗の揺らぐ心をしたたかに鷲づかんでいった。






