27.道惑う夜を見下ろす星よ
ふらっぺことコノハとの会合から三日後、『人喰い』のものと思われる新たな事件が発生した。今回の発覚は早かった。というのも、犯行現場を間近で目撃した化生がいたのだ。二尾の狐の化生である彼は「自分も殺される」と、抵抗する勇気も無く死を覚悟したらしい。にも関わらず、どういうわけか彼は生き残った。それでもかなりの心痛を負ったようで、保護したレキは会話を引き出すのにも難儀したようだ。
対して隼斗は手をこまねくばかりで、苛立ちばかりが鬱積していく。
(くそっ。居場所が掴めないことには、後手に回るしかないじゃないか……あの野郎!)
自宅のリビングのソファにぐったりと腰を下ろし、胸中で呪詛を吐き出した。今日もミケとの夜回りが終わって帰宅した直後で、時計を見れば午後十一時。収穫はゼロ。いつかのようにアガナイとさえ出会うことはなかった。ただただ疲れだけが後に残るばかりである。
新たな一件、人喰いが目撃者をあえて残した意図は何だろうか。狐の化生は食べられない理由でもあるのかと考えることも出来たが、隼斗はそれをこちらに対する『挑発』と受け取った。
あえて再戦を期さず、いたずらに被害だけを広げて事態を煙に巻く。捕まえてみろと言わんばかりの悪質なやり口だ。その推測が正しければ、苛立ちを覚える今の状態はまさに相手の思うつぼ。冷静にならねばならない。
かと言って努めて落ち着いてみれば、次いで脳裏に翳るものは頭を冷やすにはあまりにも過ぎたる、全身をぞぉっと凍てつくすような暗澹とした心持ちだった。
(本当に俺、役に立ってるのかね……)
調査が遅々としているがために被害が増えるのだとすれば、むしろ足手まといではないのか。レキに定期報告を行って個人的な心情を吐露した時、彼女はそんな隼斗の頭をぴんと小突くと、白い歯を見せて童女のようにケラケラ笑って告げた。
『益体もない戯言を。それを自意識過剰というのじゃ。女郎の股座も知らぬ童が調子づくでないわ。彼奴を追うは儂ら全員の領分であって、今のお主なんぞはその端の端の藻屑の棒きれにひっついたヤゴのごときと分を弁えよ』
随分な言われようだったが、さりとて事実とあっては反駁すべき言葉も無く。ただぼんやりとそのやり取りを回想しながら、死んだ魚のような目で時計の秒針を追っていた。
その時、まどろみかけた意識を覚醒させたのは、ほのかな甘い香りだった。リビングに、風呂上がりの悠奈が入ってきたのだ。
「あ、兄さん。帰ってたんだね」
「ただいま。……今夜もムダに疲れただけだったよ」
彼女はしっとり濡れた黒髪をかわかすよりも先に、楽しそうに兄の傍へと近づく。
相変わらず子供っぽい薄桃色のパジャマ姿。その体の凹凸の無さをからかう余裕も、今の隼斗には無かった。彼女の態度を見て、俺の心情も知らずに――と醜く理不尽な苛立ちを覚える気持ちが無かったと言えば、それは嘘になるだろう。
「明日も普通に学校だろ。湯冷めする前に早く寝とけよ」
「兄さんが頑張ってるんだもん。それを考えると何か眠れなくて」
そう言って悠奈は、そうするのが当たり前のように、隼斗の隣りにぽふっと座った。二人の言葉が途切れれば、こち、こち、と時計の秒針が反響する夜のリビングに戻るばかり。なまじ言葉が交わされたせいか、隼斗にはこの部屋がさっきまでよりも一層寒々しい静寂に感じられた。
それこそ何か言わなければ、冷えきってしまいそうな。
「……なぁ、悠奈」
「ん?」
「お前、雷獣眼を持たずに生まれた自分を想像できるか。別の人生というか、道というか」
なんとなく口をついて出た言葉は、まとまり無く、とっ散らかった響きに満ちていた。
――ただ。自分でも半ば投げ遣りに放ったものだったはずなのに、ふと引っかかるものもあった。存外、それはじわじわと沁みるように身体を暖かくしていくような心地がするのだった。
「別の人生? どうしたの、急に」
妹の言う通り、急で突拍子もない。流れも脈絡も何もあったものではない。
しかし彼女は、さして不審に思うでもなく少し考えこみ、ややあって再び口を開いた。
「うーん、あんまり考えられない、というより……考えたくないかな」
「考えたくない?」
「うん。だって、この眼のせいで受けた苦しみよりも、この眼がくれた喜びの方がわたしの中では大きいもの。わたしが眩暈を起こし、それを兄さんが鎮めてくれる。兄妹そうやって、今まで何だかんだ楽しくやってこれたじゃない」
耳にかかる黒髪を手漉きしながら、悠奈は微笑んだ。
雑音ない静謐に強調された澄んだ響きが、隼斗の脳裏を冴え渡らせる。ミントの香りが通るような清涼感を覚え、少しの間、彼は全身の疲労を忘れることができた。
あえて兄妹の些細なじゃれ合いの空気を一切含まない物言い、それは彼女が、血を分けた妹だからこそ発せられたものなのだろう。言葉の端々に見え隠れする、十数年に裏打ちされた気遣い。それを思うと、肩の荷が下りたような気分にもなれた。
「変えられないものを悩んでも仕方ないもの。だからこそ、ね。いつも言ってるけど、兄さんに恩返しもしたいの。何かあったら遠慮無く言って。ミケさんには言えないこと、言えるかもしれないから」
「……そっか」
どうだこうだと言ったところで、人生は一度きりだ。まだ生まれ落ちて十数年、人間を偉そうに語れるほど生きてもいないが、それでも今こうして呼吸をして心臓を動かしているこの場所、この大きな流れは、紛れも無く隼斗という一人の人間の生き様だった。
選んだのは誰だ。それは自分だ。人生の無限の選択肢など、これまでだってありはしなかったが、数少ない枝の中から選んだのは――自分だ。
レキにミケ、コノハらと出会わなかった人生を、精密に考えられるだろうか? 妹と、『ごく普通の兄妹』として生きられた人生を。隼斗は考える。その上で改めて思うのだ。シズメという力を、化生互助会の首魁を継ぐ権利を持つ身に生まれた以上、持ち得たものを精一杯に振るわなければ嘘というものだろう。
「忘れかけるところだったよ。ほんの少し前にレキの前でタンカ切ってやったのに、情けないったらないな俺」
「え、何それ。わたしも見たかったなぁ。おぶぎょーさんみたい」
そう言って笑う悠奈の隣で、拳を握ったり開いたりして、己の中にあるものを確かに実感する。
振るうことに迷いなく。妹のためだけに使ってきたこの力を、今、もっと役立てられる場にいると信じなければならないだろう。成果が出ない、失敗した、そんなことで中途半端に投げ出すなんて、あまりにもみっともない。
ほんの少し言葉を交わしただけで、隼斗はそのことを再び気付かされていたのだった。図書館の折と同じように――悠奈本人が言ったように、彼女にはミケとはまた違う面から知識や勇気を与えられる。
「詳しいことはやっぱわからないけど、自信を持って! なんてったって、わたしの兄さんなんだよ。化生とは違う、人間だからできる選択だっていっぱいあると思うし!」
「そうだな。まったく、お前に考えさせられるなんてな。良い妹を持てて兄として……こら調子乗んな」
ファイト、などと言いつつドサクサに紛れて肩にしなだれかかってくる妹を、やんわりと押しとどめる。結局こうしてじゃれついてくる子供っぽさ、先ほどまで何やら良いことを言っていたような気がする少女と同一なのか疑いたくなるほどの二面性だった。彼女もまた、女としての引き出しの数が、これからどんどん増えていくのだろうか。
そんな未来を守れると思うと、隼斗はまた一つ、暖かな気持ちと勇気が湧いてくるのを感じた。
傍らに妹の笑みを見やり、同時にふと目についたカーテンの隙間から覗く小さな星の光――それさえも心象に残る夜だった。




