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喰わざるもの、生きるべからず  作者: あさぎり椋
夜闇、ヒト喰うもの在りて
20/27

20.捕食者達の夜(3)

「くそぉっ! 紛れるほどの人混みでもないのに! どこ行ったってのよー!」

「この逃げ足も、なかなか捕まらない理由の一つなのかもな……」

 ミケが人目を憚ることなく激しく地団駄を踏むのとは対照的に、隼斗は静かな怒りを燃やしていた。

 ついに対峙した人喰いを取り逃す失態。己の無力さを痛感するには十分だろう。怒りを噛み潰すような彼の横顔を、夜の街灯が同情するように淡く照らし出している。

(しかしまぁ……あれが、人喰い。化生の、力……?)

 怖気。ほんの一分前まで命の遣り取りをしていたことを今さら思い出したかのように、全身からドッとイヤな汗が吹き出した。直接的に戦闘をしていないとはいえ、身震いする五体の内を鼓動がばくばくと打ち鳴らすのも至極当然だろう。

 死の吐息を感じた瞬間など、公園の遊具から落ちて頭を打った記憶が精々。それを思えば、まったく逃げ出さなかった自分に金メダルを十枚ほどかけてやりたい気分だった。

 やるせなさと同時にこみ上げる怒りと恐れ。勝るはどちらか。じわりと汗ばむ握り拳は、その打ち付ける先も得られず途方に暮れていた。

「……おや? これはこれは、隼斗君にミケさん! こんなところで出会うとは!」

 ふと、隼斗達のものではない声音が響いた。気づいた隼斗が右の方を見やれば、彼らに近付いて来るスーツ姿の長身の人影があった。

 レキが棲む旧家の屋敷で出会った、メイド達を束ねるハウスキーパーの長――アガナイだ。

「アガナイさん!? あ、こんばんは……」

「んにゃ! うっわぁ変態スーツマンだ! 深夜徘徊おじさん現る! 事案発生かこらー!」

 ミケは気が立っていた。あたかもフシャーッと猫が他猫を威嚇するかのごとく、アガナイへ言われもない罵倒を投げつける。

 それらを柳に風とばかりに受け流し、楽○カード○ンみたいなアダ名を頂戴した彼はすまし顔で咳払いを一つ。

「こんばんは、お二方! 何やら妖猫の言葉のネコパンチがワタクシを襲っておりますが、我が目線から見れば不純な深夜行脚を行っているのはまさしくソチラ側と言わざるを得ませんな! なに隼斗君、ご安心を。教職の身にあらざるワタクシがおこがましく補導などしようとは思いません。公私の分別あるこのワタクシ、心を鬼とするは屋敷での話でございます! すなわち、一歩外に出た今のワタクシは言わばお目こぼしの達人! 目の粗いフルイにかけるがごとく全力で見逃しましょう!」

「相っ変わらずワケわかんねー。で、何なのよ。いや、聞かなくてもあたしは何となく分かるんだけどさ」

「……ミケは、知り合いなんだな」

 それも、かなり気心の知れた仲らしい。『御前』ことレキを介した繋がりがあることは想像に難くなかった。

「いやむしろ隼斗が知ってることが意外っちゃー意外。まぁそうだよね、レキちんに会いに行ったんだからそりゃコイツも知ってるか」

「まったく、高級カリカリでも持ち歩くべきでしたかな。駄猫をなだめるにはエサを放るが常套手段、そう先人の知恵とペットショップのお姉さんと某スマホアプリも申します」

「ねこ言うな! 二口女なめんなよ!」

 もっとも、仲は良くないのだろうか? ネコ耳フードの少女はスーツの長身男と睨みを効かせ合っている。

 話が進みそうにない、と隼斗は二人をなだめるように間に割って入った。

「……えーと。アガナイさん、俺達さ、さっきここで人喰いと会ったんだ。夜回り中でさ」

「なんですと! そ、それで、仕留めたのですか? まさか今はミケさんの腹の中で消化を待つ肉塊の身と――」

「逃した」

「……はい?」

「取り逃したんだよ。強かったし、逃げるのも早かったし」

 先ほどの顛末を思い出したか、意気消沈した声色でミケは吐き捨てるように言った。事実と言い訳にさほどの差異は無く、自虐的な響きがあった。

 そんな失態を嘲笑うでもなく、アガナイはふむふむと納得して腕を組んだ。

「ミケさんが取りこぼすとなれば、相応の大物でございましょう。シツケも何も無い奔放な猫さんでも、『食事』の業前に間違いは無いはず。ワタクシが掃除をするようにね。……隼斗君、君もどうやらケガが無さそうで何よりだ」

 ミケは否定も肯定もせず、複雑な表情で視線を落とした。

「それで、アガナイさんはどうしてここに?」

「あぁ、ワタクシも御前にお仕えする身でございますからな。この近辺を警戒すべく歩いていたのです。ここでお二方に出会ったのは全くの偶然でしたがね」

「……一人自警団、ってことですか!? 危ないですよ! 本当にさっきまで、すぐそこで戦ってたんですから。ヘタしたらマジで人喰いに遭遇してましたよ」

 隼斗はミケと二人だから良かったが、一人であの怪物と出会った時のことなど想像したくもなかった。アガナイの行動も無謀そのものとしか映らず、本気で彼の身を案じる。

 しかし、アガナイ本人はその警告を笑い飛ばした。

「お気持ちはありがたいですが、案ずることはありません。たしかにワタクシの身は雷獣の如き天地震撼の神力より見下ろせば、それこそ春の流風にも細身を寒からしめる木っ端の芥。なれども、光栄にも御前の下僕の端くれに選定された身でもございます。きっと危地を脱する二千の技がワタクシを守りましょう!」

「は、はぁ……」

 なんかよく分からんけどすごそうだ、と隼斗は謎の安心感を覚えた。本当に人間なのかこの人は、と少し思ってしまった疑問は、胸の奥にしまっておくことにした。

「手伝ってくれるのはいいけどさ、頼むから仕事増やさないでね。レキちんに申し訳ないから」

「言われずとも、御前の心を曇らせるようなことは万に一つも。逆に、猫の手も借りたいと言いたくなる日がくるかもしれませんよ。……おっと、逆でしたか」

「ほっとけ! ……まったくもう、静かな夜が台無し。じゃあね、レキちんによろしく」

 先刻がウソのように『静か』と言ってのけ、ミケはホイホイと手を振って通りをフラッと歩いて行った。

「あ、ちょっと待って! すいません、アガナイさん。すぐレキの方にも、二人で報告に伺いますから」

「急ぐことはありません。それより助言するならば、今の君にできることは自分の無力を恥じぬことです」

「え?」

 どこか戯けたアガナイの纏う空気がピンと張り詰めたものに変わった。

 自然、うらぶれた夜の雑音は鼓膜から遠ざかり、王を招く扉のごとく彼の言葉を待ち受ける。

「致し方無いことを恥じるのは罪ではありません、存分に他人に頼るのが良いでしょう。そのために彼女はいるのですから、彼女に危険が及ぶと分かっても躊躇してはなりません。それはあの娘もこの案件を受けた時点で了解していること」

「……」

「若き身空で何も出来ぬと心を苛めることが、得てして自身を無謀な行動へと駆り立てます。現状の力量を受け入れ、戒める。その覚悟こそ、自身の命を守る何よりの堅牢なる鎧となるでしょう。それすら無くば、付け焼き刃の雷撃など何の意味も持ちません」

 そう言って、アガナイは穏やかに微笑んだ。隼斗はそれをただただポカンと見上げるばかりで、意味をすぐ咀嚼することが出来なかった。

「まぁ、ああ見えて御前は君と彼女に全幅の信頼を置いているようですよ。このワタクシとしても、嫉妬してしまうくらいにね」

「え? ま、参ったな。ちょっと、帰ってからよく考えてみないと、いまいち整理できないというか」

「それで良いのですよ。……さて、話が長引きましたね。それでは、夜に出歩いて風邪など引かぬよう! 今日びとはいえ、前時代的な竹刀片手にサンダルつっかけた体育教師が見回りをしているとも限りませんからな!」

「はは、似たようなのならまだまだ結構いますよ。ゲーセンとかに。……ありがとうございました。また今度!」

 そう言って隼斗は遠くでほっぺたを膨らませて「はよせーや」な雰囲気を出してるミケの元へ駆けて行き、それをアガナイはにこやかに手を振って送り出した。

「なに話してたの? 男の変態トーク?」

「一緒にすんなよ! あいや、何があったか知らないけど、あの人そんな悪い人じゃないだろ。見た目は変だけど」

「どーだかね。ある意味、アイツはヘタな化生より意味分かんないとこあるからねぇ」

 まだ夜の二十二時に差し掛かろうかという頃合、行き交う走行車のライトがちかちかと街並を明滅させては過ぎていく。

 なんとなく歩調を緩め、隼斗は『捕食者』の背を眺めつつ歩く。そして何一つ変わらない冷ややかな空気感を漂わせた、どうしようもなく平和な夜の世界をその両目に映す。

(……まだ、心臓落ち着かないや)

 一体、どこの誰がこの闇に烟る街を見て。

 すぐカドを曲がった先の胡乱な路地裏で、捕食者たちのお食事会が行われているなどと、想像するものだろうか。 

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