19.捕食者達の夜(2)
「……あっ」
――視られた。
背筋に戦慄。人喰いの凍てつく視線が、一瞬こちらを射抜いたのがハッキリと分かった。
動けない。腰が抜けそうになるのだけは何とか耐えた時、人喰いが一歩動き、その半身をズラす。
「おおうっ!?」
ミケが驚きの声を上げる。
攻め手が変わった。正面から打ち付け合うのみならず。人喰いの右足の裾より新たに伸びる二本の触手が、死角からミケの左腕をついに絡め取った。
巨大ザメの一本釣りが如く凄まじい勢いで引っ張られ、グラリとバランスを崩すミケ。しかし彼女も負けてはいない。
「んなろぉッ! 喰われんのは、そっちなんだよッ!!」
地面をぶち抜く勢いで間一髪踏ん張り、土俵際の意地を見せる。
引っ張られる左腕を剛力でもって逆に自分の顔に近づけ、後頭口の大アゴがグバァッとそのキバをむいた。
バグリ! ただ開き、一気に閉じる――その淀みない捕食が、二本の触手を容易く食い千切った。何か得体の知れない体液のようなものを吹き散らかしながら、ボタボタと欠片が地に落ちる。
ミケは「どんなもんじゃい」と挑発するように笑い、しかしすぐに「うっえぇ、まっず何コレ!」と顔をしかめて後頭口から触手をぺっぺと吐き出す。さらに、今度は違った意味でその顔が蒼白に染まる。
別の触手が隙を突き、高速で彼女の背後――隼斗へと向かって一直線に襲い掛かっていた。
「隼斗っ!!」
「わぁぁぁぁっ!!」
彼女が叫ぶと同時、隼斗は無我夢中で両掌をただただ前へと突き出した。
そのまま一気呵成に放電を意識する。威力もタイミングもありはしない、本能レベルで放たれるがむしゃらな迎撃。
全身全霊を込めた雷撃が、ほとばしった。
「うあぁぁっ!?」
電子レンジが爆発するような凄まじい轟音に、たまらず隼斗は尻餅をつく。そのまま体を縮こませるも――触手の気配は、無い。
「え? あ……」
真っ黒に焼け焦げ、消し炭同然となった触手が一本、目の前に落ちている。仕留めた、らしい。
こわごわ、戦う二人を見れば――雷撃が効くのか、人喰いは触手一本やられただけにも関わらず、明らかに何かもがき苦しみ、身をよじらせている。のたうち回る五体の触手の様相たるや、まさしく骨身の髄まで撃たれ痙攣する人体と何ら変わりがない。
ミケは心の底から安堵した表情で、
「……やるじゃん」
一言つぶやき、今の明らかな隙に人喰いを攻撃するのも忘れ、ほっと胸をなでおろした。
しかし継戦の緊張は、二口女VS人喰いという構図に生じた互いの意識の間隙が長く続くことを許さなかった。
グ、ウ、オアァァァァァァッッッ!
「えっ!?」
人間の男とも女とも、獣ともつかない凄まじい唸り声――鼓膜をつんざき天の月まで響かんばかりのそれは、打ち震える人喰いの体から発せられている。
突然の事態に隼斗はもとより、さしものミケもたまらず一歩退いた。
「グ、クゥ――」
「……え?」
戸惑うミケの眼前で、人喰いの左腕に変化が生じた。ガスでも注入されたかのようにコートの左腕部がみるみる膨張し、びりびりと破り裂けたのだ。
現れたのは何本もの触手を纏め束ねて一本の腕を模したと思われる部位で、その先端、人間ならば指があるであろう場所には――
「ハサミ、か?」
カニやエビといった甲殻類の腕を思わせるような、しかし人間の胴体など一太刀で真っ二つにできるであろうほどに巨大で、分厚い、ハサミ状の器官が形成されていた。強酸でも浴びせかけられたかのように爛れ、どろどろとしたグロテスクな質感に覆われた、それでいて今まさに胎内から産み落とされたとばかりのおぞましい生物感に満ち満ちている。
隼斗はそこにかつてSF映画で見た、人の体を食い破り血と粘液を纏って産まれてくる唾棄すべき宇宙生命体の姿を想起した。いかなる理の窟にも所以を見出だせない生理的嫌悪の具現。現実の生態系のいずれとも隔絶した存在感は、突き刺さるほどの敵意と共にこちらを睥睨するようだった。
しかし、ミケは。
「……ねぇ、ねぇ」
二口女の、一の口が艶めいた声を張る。
ミケは猫背になって膝を曲げ、やや内股になるほどにまで腰を落とした。
「君さ、ハッキリ言ってクソ不味いよ。ニガリと練梅と蜂蜜とマヨネーズとマグロとたくあんと錆びた百円玉とセミの抜けがら混ぜたみたいな味した。何なの。喰われないように不味く進化したの? ねぇ? ねぇ? そこんとこどうなのよ」
『矢』だ。双肩より五指へ推し打つ膂力にて弓箭引き絞り、蓄えたエネルギーと共に今飛び出さんとする豪なる一矢の様相。
やにわに彼女の全身へと震えが伝い、ふふっ――と小さな声音が零れる。
呼応するかのように、ガチン、と人喰いのハサミが小気味良く通る音を響かせた。闇を震わす律に融けたその意図、いかに汲めようものか。
「でもさ、でもさ。ハラワタが不味くてもガワは美味ってこともあるじゃない。……君みたいに変化したら、どうなるの? ねぇ? そこんとこどうなのよ」
その身の打ち震えるは、蜜満ちる桃源郷のごとき甘美なるものを夢想するが故の鳴動。
領域が違う。喉元を過ぎる刹那の美味にためらわずアクセルを踏み込める、『捕食者』の震えだ。
「いただき、ますよぉッ!!」
ぺろり、と品の無い舌なめずりに次いで――ミケは影をも留めぬ爆風の一矢となり、人喰いへと飛び掛かった。
そのまま敵の眼前で怒涛の勢いを殺さずグルンと翻身、後頭口の大アギトが凄絶な咆哮と唾液を撒き散らしながら食らいつく。
ガチン! 合わせて素早く人喰いがハサミを開かず槍のように突き出し、あえて噛み付かせた。鍔迫り合いだ。噛み砕かんとミケは全力を込めているようだが、いかに食い縛れどもまるで歯が立つ様子はない。人喰いもまた穂先で百舌刺しにせんと拮抗し、さながら中心の動かない綱引の様相だ。
「こんのぉ……!! どんだけっ、カルシウム摂ったらっ……こんなクソ硬くなんのよっ……!!」
果たして植皮にカルシウムの概念があるのか否か。大カラットのダイヤも砕けそうな牙揃いの大アギトでさえ、人喰いの武装が貫けない。ニ者を伝う激しくも静かな微震は、そこに爆発的な衝動を溜め込んでいる。
ライオンとガゼルの物言わぬ駆け引きにも似た緊張が数秒――さしものミケも、やがて折れた。梅干しの種でも吐き出すように、噛み付いた人喰いのハサミを思い切り吐き捨てて距離を取る。
「……あーもう。ねぇ、これってラチ明かなくない? どんだけめっちゃ気合入れてもさ、お互いずっとチョキ出してたらジャンケン終わんないっしょ?」
軽口を叩くミケは、しかし少しばかり肩で息をしていた。戦いもいささか長丁場の域に入りつつある。宵闇にレフェリーのカウントなどありはしない。終わる時は生きるか死ぬか、だ。
と、ここで人喰いは追撃するでもなくスッとハサミの腕を下げた。
(なんだ? ……休戦ってことか?)
見守るなりに心休まることのない隼斗の胸中に、わずかな希望が去来する。タイミングからして、人喰いはミケの意を汲んだとしか見えなかった。
「おっと、逃すとは言ってないからね。味の追求のためなら命の一つや二つ安いんだから」
にやりと笑うミケ。
だが、対する人喰いは先程までの威勢の良さを明らかに失ってしまっていた。新たな武装をも見せつけておきながら、疲労でガタでもきたのか、左手でその右腕を抑えつけている。
「……グゥゥ」
「へ? あ、ちょ、待てぇっ!!」
判断は早かった。人喰いは異形の右腕をコートの中に覆い隠すと、即座に踵を返して路地裏を飛び出して行ってしまった。
あまりの唐突な逃亡に、ミケの判断は一拍の遅れをとった。制止の声を放つが早いか、カドを曲がって大通りへ消えていく人喰いの背を追走する。
さらに遅れて、戸惑いながらも隼斗も二人を追った。
「はぁ、はぁ……おい、ミケ! 人喰いは!?」
「……見ての通り」
大通りをキョロキョロと見回しながら立ち尽くすミケ。隼斗が声をかけずとも、その様子を見れば事態は一目瞭然だった。
見失った――らしい。