13.脱兎のごとく
「あ、それで……参拝でしたら、まずそこの手水舎から」
柄杓の据えられたこじんまりとした手水舎を右手で示し、ぽやんとした笑みと共に緋沙音は言う。
清められた水の貯まりに少し一瞥をくれてから、隼斗は大人しくなった白うさぎを地面に置いてから「違う違う」と手を振った。一応とはいえ参拝の意思も無いではなかったが、逡巡もそこそこに切り上げ、先んじて自らの目的を優先する。
「悪いな。それもいいんだけど、今日ばっかりはそういうわけじゃないんだ。聞きたいことがあってさ」
「聞きたいこと?」
緋沙音は緊張感の無い声音でオウム返しした。きょとんと小首を傾げ、合わせて黒髪がさらりと流れる。まったく、何気ないゆったりとした挙動が境内に流れる穏やかな空気と完全に調和してしまっている。阿吽の狛犬もかくやといったところか。
しかし人も化生も転がる毬につられる猫ほど純ではない。ペースを乱されまいと隼斗は軽く唸り、事の次第を説明しようとした。
(……化生がどーのこーの、その辺のことを言うわけにはいかないのがな)
いかに緋沙音が夢見がちで非現実的なシチュエーションにもそこそこ免疫のある乙女だとしても、化生にまつわる非現実的な事象についてわざわざ全て説明し、納得してもらうのは骨の折れることだ。
結局、近隣で起こった行方不明事件に興味を持ち、それを調査するために二人で探偵の真似事をしているという体で話を進めることになった。緋沙音も特に疑問を持つこともなく、むしろ気を昂ぶらせている様子。まるでお昼のワイドショーにかじりつく主婦だ。
「何か、知ってることないか?」
と、ここまで説明したは良かったのだが。
「……う~ん、ごめん。その事件のこともたった今知ったばっかりだし、特にこの辺りでは変な噂とかも聞いてないね」
申し訳なさそうに身を縮こませ、緋沙音はぺこりとお辞儀で謝罪の意を示した。
隼斗とミケはわずかに口を開け、どちらともなく顔を見合わせる。徒労――そんな二文字が、二人の脳裏を過ぎった。同時に、石段を登り切った足の疲れが急にどっと増したような錯覚に襲われる。
「ご、ごめんねっ。分かった、わたしも明日から早起きして聞き込み調査するから! 大丈夫だよ、ふらっぺが起こしてくれるもん!」
ねー、と、足元で微動だにしなくなったうさぎさん――ふらっぺをわしゃわしゃとなでる緋沙音。先ほどまでの様相とは打って変わって、言わば借りてきたうさぎと言うべきか。
「あぁいやいや、そんなことしてくれなくていいよ。こんなの、ただの暇つぶしみたいなもんだからさ。こっちこそ気にさせて悪かったよ」
言ってしまえば、元々この神社に来たことに大した意味は無い。ふと思い立っただけで、何かあれば儲けもの、それくらいの感覚だった。ミケも隣で「あーお腹減ったミケさんもう全部消化しちゃったよ神社って何かお団子とかおにぎり的なサムシングとか置いてねーんですかやだやだもー歩きたくなーいぶつぶつ以下略」などとブツブツ呪詛を撒き散らしており、それはもう全く気にしていないようだ。
隼斗はそんなミケの後頭部をチョップで制し、ひでぶっとか言ってるのを尻目にしゃがみ込んだ。軽い調子で緋沙音と同じようにふらっぺをもふもふしようとする。
そんな何気ない行動が、隼斗に気付かせた。
「……ん?」
ぞわり。
と、体中を駆け巡る悪寒。
鳥肌。刺された。突き刺さっている。視線。どこから? 分からない。次いで来る胃を強く押されるような圧迫感。一瞬、魂が乖離したかのように体が動かせない。
ふらっぺに向けて右手を伸ばした間の抜けた姿勢のまま、壊れた振り子のような歪さでこわごわと辺りを見渡すのが精一杯だった。
「どうしたん、隼斗……?」
異変を感じ得なかったか、さしものミケも恐る恐る問いかけてくる。
「い、いや……」
出すべき言葉が喉で引っかかる。何でもないよと継ぐには遅すぎ、大したことないと濁して済む錯覚でもない。化生と意識的に触れるようになってきて、感覚が鋭敏化しているのだろうか。レキとの間にも似たような手合いがあり、先の犯行現場でも味わったことを想起する。
そして。
(まさか)
辺りを窺っていた視線が目の前――それもやや下に固定される。注視、意を決してごくりと唾を飲み込み――
「――ふらっぺ、いや」
そう、言葉を紡ぐや否や。
だっ。
「……ま、待てっ!?」
「ふらっぺ!?」
「ちょ、はやっ!?」
三者三葉の驚き声を背に、ふらっぺは――明らかに人語に反応して逃げるように、文字通り再び脱兎のごとく森へと向けて走っていった。