砂の王国と革命軍 4
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大陸全土を覆い尽くした紫色の空は、スルール率いる砂漠の民にも一種の不安を抱かせていた。
「あんな空、はじめて見るぞ。それもすぐにもと通りになって――どうなってるんだ?」
「なにか悪いことが起こる前兆じゃないか。もしかしたら、おれたちの作戦も中止したほうがいいのかもしれない」
砂漠の民はもともと、教養よりも伝統を重んじるひとびとである。
伝統的視点での空の変色は、吉兆か、あるいは凶兆のどちらかしかなかった。
そのなかでもスルールは非常に研ぎ澄まされた理性を持つ人物であり、不安がる部下たちに、スルールはあえて厳しい表情を向けた。
「あんなものは、単なる自然現象だ。吉兆でもなければ凶兆でもない。われわれとはなんの関係もなく起こる自然の営みの一部にすぎない」
「しかし、スルール、年寄りだってあんな空は見たことがないと言っているぞ」
「年寄りがすべてを知っているわけでもあるまい。おれたちの作戦は、いまや中止もできないところまで進んでいるんだ。だからこそ慎重に、より大胆に進めなければならない。空の色ごときで左右されてたまるか」
最後は、ほとんど自分へ向けて叩きつけるような言葉だった。
スルールは黒々とした髪を掻き上げ、彫りの深い顔立ちにひりひりと焼けつくような緊張を漲らせて部下たちを見回した。
その目でにらみつけられると、どんな大男でも声が出なくなる。
スルールは彼らの若き指導者だった。
体格そのものは、さほど大柄でもない。
すらりと筋肉を帯びたしなやかな身体つきで、腰には常に短刀を帯びている。
顔立ちはいかにも精悍であり、眉は太く、唇は薄く、目には危険な炎がめらめらと灯る。
スルールの視線ひとつで押し込められた部下たちは、みなスルールと同じ年ごろか、それよりも年上だった。
砂漠の強い風を防ぐ、昔ながらのテントのなかである。
スルールはどかりと腰を下ろし、視線を下げた。
「これからが、おれたちの正念場だ――町に送り込んでいたタルハはどうした?」
「まだ帰ってこない。おそらく見つかって囚われたか――」
ちいさな舌打ちを漏らし、スルールはすぐそれを後悔するように顔をしかめた。
「おれは、どうかしてる。どうも緊張が過ぎるようだ。すまないな、みんな」
「いや、気にするな。緊張するのも当然だ。おれたちの長年の願いが、いま叶おうとしているのだから」
「ちがう、叶えようとしているんだ。おれたちの手で」
テントが揺れる。
砂漠特有の乾いた強い風ではなく、小柄な男が入ってきたせいだった。
「スルール、外にいた連中が、雷を見たらしい」
「雷?」
スルールは怪訝そうな顔をしたが、すぐ指導者らしい顔に戻って、
「どこかに落ちたのか」
「さほど遠くない場所に落ちて、黒煙が上がったと。いまは消えているが、黒煙が上がったのはなにもない砂漠の真ん中らしい」
不可解な出来事が続発している。
砂漠の真ん中に雷が落ち、砂が黒煙を上げるはずがない。
それもまた奇妙な自然現象の一部だと言い放ってしまうこともできたが、スルールは仲間たちに広がる不安を懸念して、その小柄な男に伝えた。
「何人か馬を出して、黒煙の方向を調べてくれ。なにか見つかったにしても、見つからなかったにしても、日暮れまでには必ず戻るように」
「わかった」
「スルール、タルハの件はどうする?」
「捕らえられた以上、仕方がない。タルハの帰還を持つ必要はないが、まただれかを町へ出さなければならないな」
「しかし、もう適任はいないぞ」
わかっている、と声を荒らげそうになるのを、スルールは危ういところで飲み込んだ。
状況がすこしずつ、まるでじりじりと追い詰められるように悪くなっていくのはスルールにもよくわかっていた。
しかし仲間たちにそう気づかせてはならない。
状況が悪い、また機会を見て出直したほうがいいという意見が出る前に、引き返せない場所まで進んでしまわなければならない。
スルールは、いまが最初で最後の好機だと感じていた。
何十年と待ち、ようやく巡ってきた運なのだ。
多少の障害はなぎ倒してでも進まなければ、二度と前を向くことさえできなくなる。
「スルール、すこし喋ってもかまわないだろうか」
テントの隅に座っていたマタルは、その位置から動かずに黒い瞳だけをテントのなかに彷徨わせた。
マタルは、もともとスルールの仲間だった男ではない。
キャンプでは客人という身分のため、これまでは一言も発言していなかった。
マタルは四十をすぎたばかりという年の男で、年齢のわりに皺が多く、老けた顔をしている。
それでいてどこか剣呑が雰囲気があり、革命軍の使者とはこういうものか、とスルールの仲間たちは半ば畏怖に近い感情を抱いていた。
「どうした、マタル? なにかあるのか」
「いや、おそらくスルールも考えていることだとは思うが、ここは多少無理をしてでも首都へ突入するべきだと思う。敵は王宮にいる。それだけわかっていれば、攻撃はできる」
「わかっている。おれもそうは考えているが、まずは偵察を出すことを考えなければならない。無謀な突入は、無駄死だ」
マタルはそれ以上なにも言わなかった。
客人という身分では発言する権利もないとでもいうように、肩をすくめ、より一層身体を丸めてうつむく。
「とにかく、だ」
スルールはテントに集まった部下を見回し、言った。
「だれを偵察に出すかは、今夜中に決めておこう。明日の朝、偵察に出して、遅くとも二、三日後には王宮へ向かう」
「それですべてが終わるんだな、スルール」
「いや――それからすべてがはじまるのさ」
*
砂漠のなかでもっとも危険なのは、まっすぐ歩いているように見えて、その実大きな円を描くように同じ場所をぐるぐると回り続けることである。
そのため、どちらへ行くにしても、細かく方角を気にしながら歩かなければならない。
大湊大輔はいまの季節から太陽の傾きを割り出し、太陽を基準にした方角を正確に把握して、ともかくまっすぐ進むことには成功していた。
かといって、あてがあるわけではない。
この方角の先には町があるとわかっていれば足取りも多少は軽くなるが、どこまで歩いても砂漠から出られないかもしれないと考えれば、自然と足は重くなり、細かな砂が手のように伸びて足首を掴んでいるようだった。
「うー、暑いー。せんせー、まだ着かないのー?」
七五三燿は両腕をだらりと下げ、前のめりになり、亡霊のようにふらふらと歩く。
その頭には、大輔の黒いジャケットがかけられている。
あまりに暑い暑いというから、日よけとして大輔がかけてやったのだ。
「さあ、もうそろそろ着いてもいいころだと思うけどな」
「でも、ぜんぜんなんにもまったく見えないよ。砂ばっかり」
「砂漠だからな、そういうもんだ」
「うー、もう砂見たくないー」
四十度を超える炎天下を歩き出して、かれこれ一時間ほど経つ。
まだ距離としてはそれほど進んでいない。
しかし砂の足元、無数にある小高い丘、突き刺すような太陽の日差し、からからに乾ききった風、見渡すかぎり変化のない砂漠と、見えるもの、感じられるものはすべて味気なくて疲労が溜まるようなものばかりだった。
「ほんと、もう砂は当分見たくないわ」
神小路紫もため息をつき、珍しく疲れたような顔で足元をじっと見ている。
「がんばれ、三人とも。大天才のぼくを見習ってな」
「先生、魔法でどうにかならないんですか?」
「それは最後の手段だ。魔法は下手をすれば体力を削る。砂漠から出られないまま体力が尽きたら、それこそ冗談抜きに死ぬぞ」
「うう……せんせー、あたしまだ死にたくない」
「奇遇だなあ、七五三。ぼくもまだ死にたくないよ」
「クリアしてないゲーム、いっぱいあるもん。積みゲー消費してから死にたい」
「……あなたらしいわね、燿」
「ゆかりんは、死ぬ前になにがしたい?」
「別になにも。とりあえず、先生を殺してから死にたい」
「おいおい物騒なこと言うなよ、ゆかりん」
「次ゆかりんって言ったらマジで殺す」
しかし本当にこの状況はまずい、と大輔は砂漠の彼方に目をこらす。
地平線は永遠に続いているようで、本当にこの世界のどこかに町があるのか疑わしいほど整然と砂の粒が並んでいた。
なんの装備もなく砂漠を歩くのは、そろそろ限界に近い。
見渡すかぎりに町がないなら、これ以上無駄に歩くのはやめて、別の手段を考えなければならない。
大輔自身は、さすがにまだ体力も残っていたが、生徒たちはどうか。
ちらりと後ろを振り返ると、紫と燿は重たい足取りながらちゃんと歩いている。
しかしそのふたりからも遅れ気味の岡久保泉は、ふらふらとしていていまにも倒れそうな歩き方だった。
大丈夫か、と思っている先から、泉がぱたりと倒れる。
「岡久保!」
砂を蹴って駆け寄ると、泉は熱された砂の上でぐったりと横たわり、返事もできないような状態だった。
とにかく仰向けにして、額に手を当てる。
まるで発熱しているように体温が高い。
顔は赤くなり、眉は苦しげにひそめられていた。
「まずいな、熱中症だ」
「泉、しっかりして。起きないと先生にいたずらされるわよ」
「失敬な起こし方だな! いや、冗談言ってる場合じゃないぞ、いまのうちになんとかしないと、悪化したらまずい――ちょっと前からつらかっただろうに」
大輔はぎゅっと唇を噛む。
泉が引っ込み思案で、体調不良を自分から言い出せるような生徒でないことは知っているはずだった。
その分、しっかり見ておかなければならなかったのだ。
――天才が、聞いて呆れる。
「よし、七五三、神小路、おまえたちはまだ大丈夫だな。魔法を使うぞ」
「ん、大丈夫――泉のためならがんばる」
「先生、なんの魔法を?」
「日陰と、涼める場所を作る。このまま炎天下にいたんじゃ、岡久保だけじゃなくておまえらまで危ない。ちょっと待ってろよ」
大輔は砂の地面に足で魔術陣を描こうとして、ふと、動きを止めた。
「先生?」
「静かに――音が聞こえないか?」
ざ、ざ、と砂を蹴るような音が、ほんのかすかに聞こえてくる。
風の音ではなかった。
もっと断続的な、ラクダか、馬の足音である。
大輔は人間の存在を確信し、大声を上げた。
言葉というよりは、叫び声である。
燿や紫が驚いた顔をしているのも構わず、乾ききった喉で叫んだ。
もともと、相手に通じる言葉もわからないのなら、原始的な叫び声のほうが通じやすい。
案の定、足音は正確に近づいてきて、大輔は道標のように声を上げ続けた。
五分もすれば、小高い砂の丘に、三頭の馬の姿が現れる。
丘をゆっくりと、すべるように下りてきた三頭の馬にはそれぞれひとりずつ男が乗っていて、シュマーグの奥からじっと大輔たちを見下ろした。
「いや、助かった。このまま砂漠で死ぬかと思ったけど、なんとかなりそうだ」
大輔は眼鏡をくいと上げ、親しげな笑顔で馬に近づいた。
すると男たちは早口でなにか言って、それを聞いて使用言語を特定した大輔は、すかさず彼らの言葉で話しかける。
「よく気づいてくれた。ぼくたちは怪しいものじゃない。砂漠で遭難していたんだ」
大輔が流暢に自分たちの言葉を話すのに驚いたらしいが、男たちは顔を見合わせ、馬から降りる。
「何者だ、おまえたちは」
「ぼくたちはあちら側の世界からやってきた人間だ。まあ、服装を見ればわかると思うけど。きみたちに敵意はない」
男たちはじろじろと大輔を眺める。
大輔は両腕を上げ、武器もなにも持っていないことを示して、あらゆる文化に共通した親しさの証明である笑顔を浮かべる。
「野盗じゃないことはわかってもらえたかな?」
「ふむ、向こう側の世界からきた人間か。こんなところでなにをしている?」
「遭難だよ。町へ行きたかったんだけど、場所もわからなくてね。それに、同行者がひとり倒れたんだ――きみたちのキャンプなりなんなりは、この近くにあるのかい?」
「近いといえば近いが――」
「それじゃあ、ぼくの頼みはわかってくれると思う――どうか、あの子の手当だけでもしてやってくれないか。ぼくたちは見てのとおりなにも持ってないんだ。水さえも。それ以上は望まない。頼む」
大輔は頭を下げた。
それは別段、大輔にとって屈辱でもなければ、自分の信念を曲げる行為でもなかった。
大輔は自分が天才であることを確信しているが、いま天才としてこなすべき仕事は意地を張ることではなく、生徒を無事もとの世界へ帰すことだと認識しているのだ。
男たちは再び顔を見合わせた。
シュマーグのせいで表情は見えないが、わざわざ馬から降りたことを考えれば、決して無情な人間ではない。
やがて、彼らは言った。
「体調が優れないものを馬に乗せるといい。ほかは歩くことになると思うが」
「大丈夫だ、ありがとう。本当に感謝する」
大輔はゆっくりと言って、倒れた泉の身体を抱き上げた。
それを馬の背に乗せ、落ちないように横からしっかりと押さえ、馬は砂の上をゆっくりと歩き出す。
馬を明け渡した分、男もひとり歩くことになって、一同はその速度に合わせて砂漠を進むことになった。
「せんせ、せんせ」
大輔の後ろをちょこちょことついてくる光が、服の裾を引っ張る。
「さっきの、なんなの?」
「なにが?」
「何語で話してたの、さっき」
「ああ、こっちの地域の言葉だ。ま、ぼくほどの天才になれば、地球の言語と合わせて二十四ヶ国語はぺらぺーらだからな」
「お、おおっ、先生すごい!」
「だろう、だろう。もっと尊敬してもいいんだぞ――神小路、大丈夫か?」
紫は顔を上げ、じっと大輔を見て、ぷいと視線を逸らす。
「大丈夫です」
「つんつんしてるなあ……」
「先生、あたし知ってる、あれ、ツンデレっていうんだよ」
「ほう、そうか、あれが噂の」
「そうそう、あれが噂の」
「そこのふたり、それ以上しゃべらないでくれる? あとわたしツンデレとかじゃないし」
「なんだ神小路、ツンデレって言葉を知ってるのか?」
「う、べ、別に、し、知ってたっていいでしょ」
「まあ、そりゃいいけど。いやあ、ちょっと意外だなあ」
「にやにやすんな!」
砂漠の男たちは、遭難していたわりにのんきそうな大輔たちを見て、不思議そうに首をかしげていた。