蒼天の下
愛犬が処分されたのを省庁の役人のせいにした人がいた。それなら、わたしは母を殺したのは例の学務係の谷岳氏であると言おう。しかるべき連絡が彼の怠慢によって遅れ、母はそのわずかな時間差のせいで、まさしくそれが原因で死ぬことになったからである。
彼に悪意があったかどうかは、さして重要ではない。彼には国家公務員として職務に忠実である義務があったはずであり、それを怠ったことで、ひとりの人間を死なせたのである。
──参るよなあ。なんだよ、いまごろ。
彼奴は薄ら笑いと嘆息を交えながら腰を上げたのだろうが、向かった先は学部長室ではなく学内の喫茶室であって、そこで誰かとゆるりとした時間を持ったのである、おそらくだが。そういった行動があるべきスケジュールを遅らせ、而して赤の他人である母の運命のピースを毀つことに繋がったのに違いない。
運命のなんたらなど、どうということはない。普通のやつが、いたるところに転がっている。
わたしの母方の従兄弟に、専門学校を出て技官として採用されたはいいが、直後から、年中霧で煙る湖水の畔に建つ半官半民の工科学院みたいなところに遣られて、そこで長年講師をしている男がいるのだが、妙齢の女人率がゼロパーセントのかの鄙の地においては、異性との出会いなどもはや叶わぬものと観念していた。ところがある暗い晩に、ほろ酔いで道を歩いていると、教え子の母親の運転する車が側道に乗り上げてきて、そのまま轢かれてしまった。その事故がきっかけで、自分を轢いた十一歳年上のその女と結婚する運びとなって、いまでは平和なのか退屈なのかは知らんが、ともかく現実に家庭を築いているのである。
ちなみにこの人とわたしの共通の祖母というのは若い時分、里芋の施肥に行った帰りに川に出て足を洗っているとき、一匹のマムシが流れてきて、そいつにふくらはぎを咬まれたのだそうだ。大騒ぎになり担ぎ込まれた医院で、ついでにこの従兄弟の母親、わたしの伯母を妊娠していることが判明したらしい。ま、運命の、というほどでもないが。
もっとも、わたしは谷岳氏に恨みを持つことも、あだ討ちを考えることもない。それは彼我を分かつ隔たりのためではない。隔たりなら、原因というよりむしろ結果と言うべきものだ。
いまわたしは、じつに多くのものに囲まれていて、という認識が確かにあり、これらの存在意義は、失うことへの恐怖と同値である。真偽が同期している。一方が真なら他方も真なり。偽もまたしかり。あのとき母の死を避けることができたとするならば、ただちに消え去るであろう──少なくとも思考の上では肯んぜざるを得ない──これらのものとの接触面のことを、ときにわたしは幸福とも呼んでいるからである。失うことへの強い恐怖心が、幸福をかたどる鋳型になっている。
わたしは過去を振り返ることは好まない。ただ、もしあのとき……と思い返したときに、のちにわたしを取り巻いたかもしれない別の風景を夢想して、静かに笑うだけである。
クワックゴーグー、ペレペレチュンチュン、プパップパップー。
「あのさ、何かおかしいの」
ごった煮のような音に包まれていた。空笑いに苛立っているのか、顔を覗き込む人がいる。それが妻だとわかり、我にかえって仰げば尊し、青く遠い十二宮。いつの間にか風がやんでいた。湿度の高さが目に見える。
エントランス広場の先の遊園地内は、すべてが霞んで見える。佇む携帯電話、日傘からもれる若い母親のしかめ面、タンタンと跳ねる子どもの生足。ガラスの反射光、のぼり旗、年齢不詳の茶髪。ピースする女の子と向き合ってしゃがみ込むデジカメの歪んだ口元。あらゆるものが動き、かつ止まっている。絶え間なく耳に流れ込んでくるのは、デキシーランドジャズ調のトロンボーンやクラリネットか。夏日となった五月の水蒸気に乗って、近くから遠くから、こんこんと降り注いでくる。
手のひらがじっとりと汗ばんでいるのに気づいた。小学三年になる息子と手をつないだままだった。驚いて振り切りそうになるのをぐっとこらえる。いや本当に、俺、我に返りきっているのかどうか。そうだ犬だった、愛犬愛犬。
「この子とはいつも一緒なのです。いままで並ばせておいて何事ですか」
「いやもうあの、ほ、法定でですね、ペットは、あのご遠慮いただくことになってますので、あの」
正面ゲートの境界手前で押し問答をしている、みっともない顔をしているチワワを抱いた金回りのよさそうな中国系の中年夫婦と遊園地のスタッフ、文字通り濃緑色の地に極太のゴチックでSTAFFと白く染め抜いた五分袖の作業着を着た男女三名、おそらく派遣されてきた契約社員のせいで、さっきからわたしたち家族から後ろの数百人が、足止めを食わされていたのだ。
目の前で立ちふさがっている亭主の方は、背丈が二メートル近くあって、百八十センチ付近にある後頭部の位置が刈り上げてあり、しかも流暢な日本語で怒鳴っている。派手なハワイアンシャツの左肩から鼻先を後ろに向けて覗かせている主役のチワワは、こちらの視線に気付くと、そちらで飼ってはくれまいかと言わんばかりに、視線を固定してきた。
中国人夫婦は、体重を支える足を入れ替えながら、園側の説得に折れる素振りは少しも見せない。腹が立ってきた。いや、スタッフにである。あとのお客様こちらからどうぞ、といった機転も利かないのか、君たちは。とくにこの作業着が似合わないのを小自慢しているかのような、照れ笑いしている中年スタッフ。この男の、あえて、臨時要員だ部外者だとにおわすような物腰が、余計に苛立たせるのだ。お客の前なんだからちゃんとやれ。
などと顔だけで怒ってみても、しかし効果はない。だいたいセキュリティー対策とやらで、ゲートが一か所に絞られているのが悪いのだ。ならばいっちょう、当事者の片方であるこの外人に文句を言おうか。趣味の悪い中間色のスラックスをうしろから蹴り上げてみるか。それが先頭にいる俺の義務なのか。そうは言っても、二メートルはちょと怖い。そもそもこの御仁、香しい瑞穂の国にてその図体で、仕事は何をしているのか。
「……そうだねえ、ちょっと止まっちゃったみたいね。もうちょっと我慢かな」
「説明も何にもないんだもんな」
「てか最初からあんまし来る気なかったし」
背後から聞こえる老若男女のざわめきに押されて合わせて、無声音で口を動かすのが関の山だ。目が合えば、ニーハオ、是好天气。左手の息子よ、もしこちらが利き手だったら別な姿かたちだったであろう息子よ、意気地のない父を許せ。愛想笑いはともかく、怒るのは苦手なのだ。昔は笑うのも苦手だった。
中屋くんはよく笑った。あの子の真似はよくしたけど、笑い真似はできなかった。息子よ、僕は、いまのお前とおなじ小学校三年生の夏に、中屋くんが持ってきた硫安と体育小屋からつかみ出してきた消石灰を混ぜたことがある。二種類の粉末を牛角の薬さじで触れ合わせるだけで、その混じりあった粉の山が湿っぽく熱を持ち始め、あたりは異様な生臭さに包まれた。これがアンモニアの臭いなのだと中屋くんは笑った。
──うはは、みんな知らないだろうけど、アンモニアというのはな、おしっこの臭いなんかじゃないんだよ。
硫安は、中屋くんが前にいた小学校の理科室から持ち出してきたものだった。あの子は他にも硫黄やら硝酸銀やら丸底フラスコやらいろいろ盗んでいて、僕には赤血塩フェリシアン化カリウムというラベルの貼られた褐色の小瓶をくれた。赤血塩はシアン化物イオンを含んでいると聞いたので、僕は家で飼っていたうさぎに葬式を出してやりたくなって、乳鉢で粉に挽いて青菜に包んでやってみたのだが死ななかった。だから何年かあとに自殺しようと思い立ったときにも、こいつを服用する案は浮かばなかった。
ただね、赤血塩はいかにも猛毒ですという色をしているので、小瓶の中蓋を取って横倒しに転がしておくと、毒色の中身が少しこぼれて、ああ、これはその脇で瓶と反対向いて腹這いになっている、十二歳の少年ととてもよく似合う。そんな自分の姿と、朝まだき、暗い子ども部屋でその光景を見つけた両親の反応を想像して、そうして作られた涙で枕を濡らしたものだったよ。僕には自己愛性人格障害という病気があったと思うけれども、見ていると、息子よ、お前も怪しいものだね。
中屋くん、どうしてるか。同窓会など、いちども出てないのでわからない。聞いた話で知っているのは、大学を出て神奈川県にある会社に就職したけれども、すぐに辞めて東大の理科三類に入りなおして……ということまでで、それなら関東で医者でもしてるのか。医者でも。医者かあ。
息子よ、妻よ。もし僕が医者などしていたらうれしいのだろうか。中屋くんは頭が良かったから、なんでもできた。IQは百五十を超えていて、あのときは小学校に新聞社から取材さんが来たほどだった。勉強は怠けていたから、学校の成績の方はただの『上』だったけど。
僕があの子に勝ったことと言ったら、覚えているのでは、中学校のトイレでおしっこしていたときのことくらいだ。中屋くんが用を足している左隣の便器が空いているのを見つけて並ぼうとしたときに、あの子はぶっと放庇をした。彼にも僕にも思いがけないハプニングだった。ほんの一瞬だけど、僕たちは凍りついて、一枚の絵の中にいるような気がしたよ。次の瞬間、彼はこちらを向いて照れ隠しに笑ったのだけど、その吹き出した拍子にまた短くぶっ。あとは、おしっこをしている間じゅう、肩を震わせての鼻息と屁の音が、くくっ、ぶっ、くくっ、ぶぶぶっ、とトイレのタイル張りに交互に響いた。
僕はつられて笑いながらも、中屋くんに勝ったと思った。中屋くんの恥部を知った気分だった。僕は、おしっこの最中のおならは出ないようにできたし、実際そのあと何度か試してみたけど、全部成功した。要は、おしっこを途中で止められるかどうかにかかっているんだ。屁だけを止めようとすると必ず失敗する。それは無様だと思った。
そんなことでしか勝てない自分を情けなくはなかったのか。いやいや子どものときには、そういう勝ち方は重要なんだ。そういう負け方をしたくないと思っていたからね。あの子は、あの瞬間、たしかに僕に負けたのだ。
──ひと降りに何をためらう花曇り。
ひとりごちて吹き出した拍子に顔の真ん中から何か出てくる。
ためしにこのキーワードで検索すると、七万五千二百件検出して完全マッチは当然なし。頼みもしないのに三つ四つの文節に区切ってのAND検索でその数では、さては語彙の食い合せだったかと思うものの、「古池や蛙飛び込む水の音」という文字列と入れ替えてみたら七万四千百件。負けてどうするんだと鼻で笑った。ためしに「Full it care car was to become meet not」でやったら二千九百七十万件。世の中、どうなっとるんぞ。
既視感があった。笑ったからなのか。
大昔。
いま五分咲きの桜も週末のエイプリルフールには見ごろを迎えまする、などと女子ニュースキャスターが浮かれていた。それを聞きながら布団の中で手淫の後始末をしていると、居間で電話が鳴るのが聞こえた。M大学の学務係からで、中年の男の声で谷岳と名乗った。
──ええと中川くんね、じつは先日あなたが受験した医学部医学科にひとり欠員が出ています。きょうになって入学を辞退してきた人がいましてね。そこで繰り上がりであなたの入学を許可しますから、もし入学を希望するのでしたら、本日正午までにまずは所定の入学料を納付してください。
入学料とは入学金のことらしかった。
思いがけない話だったのだが、すんなり耳に入った。わたしはわが耳を疑ったことなど、いちどもない。むしろ、この筋書きはすでに知っている、というような感覚に包まれていた。落ち着いて応対できたというよりも、じつにわたしは、そのとき学務係が欠員という単語を持ち出すより前に話の全容を知ってしまったように感じていたのだった。
それでも一瞬、言葉が詰まった。信じられない本当なんですか、などと電話口ではしゃいでみると、まあみんなそう言うわな、ともかく時間には遅れるなよ、と谷岳氏は念を押して話を打ち切った。おめでとうとは言ってくれなかった。掛け時計を見上げると、針が重なっていて十一時の少し前であることを示していた。
一浪して入った京都の私学に籍を残したまま、地元の国立大学に入学し直そうと思い立ち、受験準備をしてきたのであるが、その電話の二週間ほど前に、わたしはそのM大学の入試に落ちていたのである。翌月から始まる新年度は、都合三浪目に入るわけで、さすがにこれ以上自宅浪人を続けるのは無謀だと判断し、やむなく名古屋に出て予備校に通うべく手続きをしたのだが、初日にあった受講科目選択とチューターとの顔合わせに出ただけで、その日は朝から自宅にこもっていたのだった。
不自然な姿勢を続けていたからか、受話器を置くなり目がくらみ耳が塞がった。失神に近い状態だった。血の気が耳の後ろから戻ってくる感覚を待ってから腰を上げ、母を電話で呼び出した。当時母は、北東に二十キロほど離れたK市にある、資本金二百五十万円の小さな食品会社に勤務していた。仕事中に何事かと訝る母の声を聞くなり、わたしは重い受話器を両手で握り直した。何度も聞き返す母の声に苛立ちながらも、三分前から始まった急展開をまくし立てた。
それが終わると、猫を呼んで餌の缶詰を開けてやり、大急ぎでやかんでお湯を沸かすと、炊飯器から下ろしてあった冷飯でお茶漬けを作って流し込んだ。一杯ではもの足りずにお代りもした。何か手を動かし何か腹に入れないと、雰囲気負けするような気がしていた。
長短の針は半時間後の一直線の形状から折れ始め、十一時半を回るまでになっていた。
バイパスを使えば平均時速で六十キロは見込めるので、計算では母はもう近くまで来ているはずだと思った。それを待つのに電話機の前で正座しているのも意味がないのだが、ともかくまたそれが鳴るものだからあわてて取った。件の学務係だったのだが、問い詰める口調に変わっている。
──どうするの、もうすぐ受付終わっちゃうんだよ、入学する気はあるのか、それともないんですか。
ありますあります、これから出るところです、必ず午前中に着きますので。そう押し返しておきながらも、まだ半時間近くあるじゃないか、この学務係はせっかちが過ぎるのではないか、との疑いが染み出てくる一方で、母にしてもそろそろ着いてもよさそうなものだと気を揉んでいた。あれに三分これに五分と時間を見積もってみても、なかなか理屈通りにはいかない。遠ざかる人の歩みは速く、追っ付けやって来る車でも待つ時間は長い。
さらに七分が経過した。と、勝手口の方角からクラクションらしい音がやかましいので出てみると、ファミリアバンの営業車が横付けされていて、母が運転席の窓から顔を出して怒鳴っていた。後部ドアに描かれた、勤務先である佐織フーズ株式会社のイメージキャラクター「さーちゃん」の不細工かわいい笑顔が気恥ずかしいとも思ったが、かと言って他に手立てがないのだから、それで行くしかなかった。
──何してるの。家の鍵かけてきて。急いで。
勝手口側に面した路地からはすぐに大通りに出られるので、母はそこでわたしが地団駄踏んで──いらいらと足踏みをして、待っているものと思っていたようだった。腕時計を見ると、正午まであと二十分を切っていた。
二十歳の運動神経でもって、転がるように家中を施錠して回り、急でごめんね、とだけ言って助手席に転がり込むと、ほぼ同時に母は無言でローギアに入れた。国道とは反対方向へ鼻先を向け、乱暴に五百メートルほど進んだところで、海岸沿いの堤防道路へ右折れして乗り上げると、母は猛然と加速を始めた。
二速ギアのまま七十キロまで引っ張ってから三速に入れ、さらに加速しながら、輪ゴムを巻いた左手首を素早く返して、またたく間に五速までシフトアップしていった。左側の視界には、水蒸気のせいで曖昧になった水平線らしきものが横たわり、空の薄鈍色をゆるゆると返している。
車内の圧迫感を逃がすつもりで助手席の窓を開けてみたが、書類が飛ぶから開けないでと怒鳴られて素直に従った。幅六メートルほどの堤防を時速百五キロまで加速したところで、空き壜を箸で叩いているような速度超過の警告音が鳴り始めた。母はようやくひと息ついたのか、とりあえずよかったじゃない、と前だけ向いたままつぶやくように言った。
うん、と口の中で答えた。よかったには違いないのだが、採点ミスなどではなく実力で入試に落ちたことがこれで知れたのだ。とっさに素直な気持ちになれずに、わたしは母の横顔に別な言葉を返した。
──お金はどうしたの、間に合ったの。
──大丈夫、間に合うわよ。
──そうじゃなくてお金。入学金。
──ああ、OKOK、ここにある。社長に借りた。
母は助手席のダッシュボードを指差した。開けてみると、奥の方で使い込まれたセカンドバックが威勢良く膨らんでいた。中身はほとんどが納品書や領収書などの帳票の束なのだが、わたしはその中に社名の入っていない白封筒を見つけた。
封筒の口を菱型に開いて中を覗き込んでいると、母が続けた。
──それよか、なんでこんな時間に家にいるのよ。予備校はどうしたの。
──医進コースは、今日は午後からだから。
ふーんと母は聞いていたが、真っ赤な嘘である。予備校になど行くはずではなかったとの落胆が高じて、新しく敷かれた軌道に素直に乗りこめずに、捨て鉢になって不貞寝をしていたというのが真相なのだ。決してでかしたこととは言えないが、ともかく鉢を投げ捨てたおかげで好運を受けとめることができたのは事実である。わたしは話の向きを変えた。この僥倖を前に、つまらぬ詮索なぞ取るに足らないではないかと思った。ともかく何か喋りたくなってきたのだ。
──予備校に振り込んだお金、もったいなかったな。
──しかたないよ、滑り止めだったと思えば。次は落ちるわけにはいかないもんね。
家は貧困には中らないが、そう外れたものでもない。重電関連の工場従業員の父と、食品加工会社にパートから入った母が、二十年がかりで貯めてきた学費があるだけだ。学歴という壁の前で、何度も泣いてきた両親だった。このお金だけは進学や教育の費用としてなら自由に使えるからね、と母は言っていた。とはいえ、わたしのわずかな力不足のせいで大金が流れ出ていったのだという思いは消えなかった。そう考えているうちに、両親にすまないという気持ちが、単にもったいないという金銭欲にすり替わってきた。
──わけ言って返してもらおうか。
厚かましくも、取り返した暁には半分くらいは成功報酬として回ってこないものかなどと期待したのだ。
──ああいうところはね、いかなる理由があろうと返しません、なんだよ。
──理由とかじゃなくてさ、何かこう、温情でさ。
母は表情を変えずに車内の時計に目をやると、アクセルを踏み込んだ。耳に入るあらゆる音が緊迫感を増した。回転計の針が計器の右半分のゾーンに回り込んできた。ファミリアバンの暴走である。フライパンを片手に中途半端に微笑む一頭身半の「さーちゃん」が、うららかな湾岸沿いのコンクリートの上を横走りでぶっ飛んでいるのだ。
──それ返してもらってもさ、こっちのツキが落ちたんじゃ何にもならないしね。
──大丈夫なの。百四十キロだよ。
速度計の針が助手席から見えた。対向車が見れば仰天するようなスピードである。いや、本当に仰天していたら衝突事故は必至だ。
──ひとりの時にはこれくらい出してるわよ。朝早くとかにね。
佐織フーズも十二年目になる幹部社員の母は、たびたび朝の四時に出勤して、自動車部品工場の給食用の中華卵焼きを焼く。おもに母を使うのは、時間外手当を払わないで済むという、社長の思惑である。
自宅から大学までは直線距離で八キロほどである。ドライビング・ハイというのか、オバサンならではの暴走願望でもあるのか、こうまでしなくても間に合うだろうにと思った。もっとも、このあたりの堤防は両側が切り落としてあるので、人馬の飛び出しなどは考えられず、人や自転車さえ近くにいなければ、スピード自体はどうということはない。
子どものころには、ずいぶん遠いとの印象があったM大キャンパスだが、受験や下見で何度も行き来していると、さほどでもないことに気付く。こんなふうに堤防を車で飛ばすと、五分ほどで前方の霞の中から大学付属病院の特異な輪郭が姿を現してくるのだ。これで間に合う。建物の周辺を飾る白い塊は桜だとわかった。時期が来れば、ちゃんと根を絡め、枝を触れ合って咲くものなのだ。
タイヤからの音と振動はすさまじかった。後座を潰して作った広い荷台一面には、納品先から回収したらしい業務用のデリカバット──惣菜を入れるプラスチック製の浅い容器だ──がうず高く積まれていて、タイヤが堤防の継ぎ目を拾うたびに笑うような音を立てた。閉めきった車内には、惣菜の煮汁の香ばしい匂いと古い醤油樽のような匂いが充満している。母の作業着の匂いと同じだ。間断なく鳴り続ける例の警告音は、もう気にならなくなっていた。
これから大きな船に乗り込もうとしているのだ、という実感が押し寄せてきた。正規のチケットを手に悠然とゲートをくぐるのもいいが、こんなふうに母とふたり音と匂いにまみれて出帆の五分前に駆けつける方が自分に似合っている、とさえ思えてきた。わたしは憶えていないのだが、自家中毒で入院していた小学三年の冬、二時間かかる点滴の途中で眠ってしまい、ベッドの上で目を覚ましたわたしは、たまたま目が合った母に、「ぼく、やっぱりお医者さんになるよ」と言ったそうだ。
──何で「やっぱり」なんだろう、医者の家に生まれた夢でも見たんだろうかと笑ったりしたんだけど、あのときお前の頭の中では、それが天職だって閃いてたんだね。
わたしが大学を中退して医学部に挑戦したいと表明した時、母はそんなことをわたしに言ったあと「親ばかちゃんりん」という語をつけ足した。
左手の海側がまもなく小さな漁港にさしかかるところだった。時刻をしきりに気にしていた母も、それでもスピードは落としたのだが、実速と体感とはかなりの隔たりがあり、メーターの目測で時速九十キロを超えていた。目が高速に慣らされたせいで、視界の中のあらゆる変化が緩慢に感じられた。水飴の中で動いているかのようだった。堤防の左右には、海老や小魚を加工をする中小の作業場が現われ始め、この無法地帯と化した道路──よく堤防は正式には道路ではなく、道路交通法は適用されないと言う人もいるが、事実はそうではなかった──に接続しようとする坂道が、陸と海の両側から幾筋も寄せてくるようになった。漁港の周囲の片付けはたいてい午前中に終わってしまうので、昼前のこの時間には人や車の行き来はほとんどない。
湿った逆光気味の視界の中で、漁港側のゆるい坂の途中で、堤防に頭を向けて停車しているトラックの姿をとらえた。魚港の敷地はせまく、大型車の場合は魚介の積み込みをする場所が限られているので、ときにフォークリフトを使ってこんなところで作業をしているのだ。みるみる近づいてくる。優に十トンクラスはある巨体だ。運転席には黒く人影がある。母は右側からの進入車両がないのを確認して、再び加速を開始した。そのときわたしの口元は、あることに気づいて動いた。
──トラック、
声を発した刹那、自ら言おうとしていることがわかった。
──動いてない?
わたしにはそう見えた。次の瞬間、確かにトラックは動き出した。あるいはそのように見えただけで、じつはトラックはとっくに積み込みを終えていて、このときすでに反対側にある加工工場へと向かいつつあったのかもしれなかった。片側が開け放たれたその荷台の近くに、フォークリフトや木組みのパレットが置かれていたので、停止して作業しているように錯覚したのだ。
大型車は鈍重だ。鈍重だがいったん動き出すと圧倒的でもある。率直に言えば、そのときには、むしろ俊敏に感じた。鉄人の顎のようなフロントバンパーが堤防に乗り入れてきた。どうしてと訝るほどに他愛なく、前方の堤防上に残されていた余白が、左方向から消されてゆく。
右側を脱輪させてもいいから、トラックの鼻先をかすめてクリアできれば……、といった即席に浮かんだ目論見も、その成功のイメージとともに薄れつつあった。母もわたしも落ち着いていたはずだ。それなのに顔面の皮膚も筋肉も、まるで動かなかった。落ち着いてはいたのだがそれだけに、もはや手遅れかも知れないという感覚があった。それほどこちらの車速があり余っていたのである。
営業用のバンは加速から一転、全能力が制動につぎ込まれた。ボンネットの両脇から青白い煙が噴き出すのが見える。同時に車両全体は恐ろしい音に包まれた。身近なイメージのあるタイヤからそのような断末魔の苦しみを体現した声のような音が出るとは信じがたかった。聞いた以上は何かが起こらないはずはないとさえ思わせるものだった。それほどのブレーキングにもかかわらず、皮肉にも速度はそれほど落ちたように感じなかった。
タイヤの音を耳にしたのか、横顔を見せていた運転手がこちらを向いた。逆光で表情はわからない。黒い影が驚いているようにも怒っているようにも見えた。だがトラックは止まろうとしなかった。堤防にかけた前輪を回し、そのまま横切ろうとしている。車間距離から見て、ファミリアバンが減速すれば大丈夫だと踏んだのだろう。その判断は間違ってはいたのだが、むろん彼を責めることはできなかった。言うまでもなくわたしたちの行動は大きな問題を孕んでおり、たとえそこでトラックが停止したとしても、もう解決策にはならなかったからである。
一秒の何分の一に過ぎなかったのだろうか。わたしには、そしておそらく母にも、何もしない何もできない空白時間があった。今まで生きてきてこんな時間は持ったことはなかった。そのわずかの間に、目の前のトラックの横っ腹は、現場にいる誰の目にも切実な問題となった。どうしようもないと悟ったが、何かはできるようにも思えた。トラックの前輪と後輪の間、恐竜展で見た竜脚下目のあばら骨を思わせる巻き込み防止用のガードと燃料タンクの隙間から、これから行くはずだった世界、あるいはただのコンクリートが白く光って見えた。その隙間を通り抜けられるような気がした。あの白く光る向こう側は、M大へと続いている。学務係がしびれを切らしている。午前中に限るよとあんなに念を押したじゃないか。君ははしゃぎ過ぎたんじゃないのか。前方で甲高い音が弾け、百分の一秒後に轟音に変わった。谷岳氏が怒鳴ったのではなかった。百分の秒一は、わたしの貧弱なレトリックに過ぎない。轟音はボーリングのストライクの音を思わせる最期のぶっ放し、カタルティックなものだったが、途中から聞こえなくなった。
わたしたちは、M大学の敷地には入ったものの、担ぎ込まれたその先は、むろん学務係などではなく、医学部付属病院、通称医大の救急部だった。わたしたちは、と言ったが、担架で搬入されたのは、わたしと母の遺体だ。あの事故で母は即死だった。車内は業務用のデリカバットと細かいガラス片、血や見たこともない体液、それから未消化の吐瀉物がおじやのようにごちゃまぜになっていて、その中から母の遺体、と判断せざるを得ないもの、が出てきた。巨大なキムチの塊みたいなものが、身体を包んでいた作業服だと気づいて、実感が湧いてきたといった有様だった。
「……の会社員中川朱実さん(四六)は全身を強く打っておりまもなく死亡……」という新聞記事からは、母の死んだときの様子を知ることはできない。親子して血まみれの状態でわたしを生んでくれた母とは、二十年後にさらに悲惨な状況のもとで別れることになった。と同時にこの日は、わたしのもうひとつの人生の始まりともなった。
ずいぶん時間がたってから、わたしは生まれて初めて警察の事情聴取というものを受けた。三方を壁で囲まれた三畳間ほどの独房のような部屋で、自分の言葉が公的な文書に記録されていく様を、わたしは不思議な気持ちで眺めていた。青山という名の署員は、万年筆を使って意外に思うほど几帳面に、わたしの声を文字に変換していった。無意識のうちに、子どものころによく覗き見た医者のカルテを思い出していた。そこに書かれた文字を見て病気の治り具合を占っていたものだった。目の前の「人」や「物」に対する見方が、今の自分と、昔の自分とではたいそう違っている。わたしにも手放しで人や物を信頼する無垢な心があったのだ。その若い署員の描く文字は、意味を超える何かを保持し得ると感じさせた。楷書体で書かれた紺色の文字は、言葉の意味だけではなく、それに添えたわたしの気持ちをも乗せているように思えたのだった。
留置場に保管されていた事故車両を見る機会があったわけだが、あの白くふっくらとしたファミリアバンが、前方のバンパーから運転席の後ろ側にかけて、砲撃を食らったかのような有様になっていた。自動車のボディというものは、衝突で破壊されるというより、くたくたに折れ曲がるもののようだ。いたるところで蜘蛛の巣の形の錆が出ていた。異臭がして銀蝿がしつこかった。
車体の惨状を目の当たりにして改めて歎息した。あれではドライバーは助からないと誰が見ても思うだろう。母の死んだ確かな原因を冷酷に告げられ、冷静に受けとめられた気がした。胸中では悲しみというよりむしろ納得する部分の方が大勢を占めた。助手席の側も相当ひどい状態だったが、わたしの方は打撲や擦り傷以外は左肩を脱臼しただけで、肋骨の一本も折ることなく無事でいたのだから、何かのはずみとしか言いようがない。事故の瞬間に衝撃でバンの方が左回りに半直角ほど回転しており、そのことで助手席内部のダメージが軽減されたのではないかと聞かされたが、特に感想はない。あんなに悲鳴をあげていた前輪のタイヤは、ひしゃげたホイールに、それでもかろうじて噛み付いたままでいた。後部ドアの上にいた「さーちゃん」の方は、お顔のすり傷と凹みで人相が変わってしまったものの、どうにか笑顔は保っていた。母のいた位置とは一メートルも離れていなかった。警察の人と何か話したと思うが、内容は全然憶えていない。散り始めた桜が事故車の上にも落ちていた。
あの衝突のしばらく後、救出される前にわたしの意識は戻っていた。誰か男の声でわたしに呼びかけた──おい起きろ! 声を出せ! 名前を言え! おい! と怒鳴っていた──のも憶えているし、通報を受けて駆けつけた救急車のサイレンも耳にしている。あまり時間をおかずに失神を繰り返すのは難しいことなのだろうか。それは残酷な状況だったと、あとから人には言われたし、自分でもそうなのかなと思う。わたしを産んでくれたこの世にたったひとりの人は、血染めの着衣と生活臭に包まれたまま、何も語らずわたしとしばらくそこにいた。あんな母の姿を見なければよかったと悔んだりもしたが、いまではもう、どちらとも言えない。
親戚や友人たちからは、衝突の直前の様子を聞かれることが多かった。様子といっても、まこと直前の情報は、明るいか暗いかのどちらかだけが意味を持っていた気がする。わたしはトラックの隙間の、あの白い光を見たからこそ助かったのではないかという気がしてならない。きっとわたしの魂はいったんあそこをくぐりり抜け、そして再びどうにか無事でいた己の身体を見つけて戻ってきたのだ。希望の右隣にはいつも幸運がいるなんて能天気に考えているわけでは決してないのだが。あの光を母は見なかったのだろうか。隙間はひとり分だとでも思い込んでいたのだろうか。
些細なことで、存続してきたものが目の前から一瞬にして消えること。
実際に経験してみると、すわりの悪さというか、相当の違和感を感じる。きっかけとなる出来事が、取るに足りないもの──というのか、刹那的であればあるほど、この傾向を帯びるようだ。やはりとまさかの違いなのか。
それまでわたしの中では、人が生を営んでいることは、つねに巨大な慣性──惰性あるいは実感とでも呼べばいいのか、他に適当な言葉が思いつかない何か──に包まれているとの意識を持っていた。人というものはつねに移り香を残し、その輪郭はいくらかぼやけていて、予感と余韻を滲ませているような存在であるとする感覚が何となくあったのだ。ハードディクスやメモリーからデータが飛ぶように瞬時に消え去るものではなく、鉛筆で書いた文字を消しゴムで消すように失われてゆくものなのだと。
不慮の事故を経験して悟った。それらはすべて幻想である。つまりは、人はデジタルに死ぬ。命の断面は、その鋭利において全きをなすものであって、惰性のごときは幻影にすぎなかったのだと。
母の人生は終わった。その鋭利な断面は、わたしを含む少なからぬ数の者を傷つけ当惑もさせたが、それらの命は続いている。後遺症というほどではなかったにせよ、脱臼した左肩にはその後も不具合を覚えた。左右の腕で同じ動作をしても、角度によっては左の肩だけが、プチプチとかゴリゴリとか、こもった気味の悪い音を立てた。重いものを持てないとか腕に力が入らないということではない。普段の生活に支障はなかった。事故の記憶という意味において、わたしはその症状が消えないことを願った。音の入れ墨みたいなものだと思った。
医学を目指す意欲は消え失せた。母と対になって消えた気がする。医学への志は、母の期待に応えようとする体裁のようなものだったと思う。もとより意志もなかったが、はじめに籍を置いていた私学に復学することもできなかった。学費の滞納ですでに除籍処分を受けていたのである。
父はわたしの大学進学断念にさほど反対はしなかった。元来父は、母とペアでいるときでないと強い意思表示をすることはほとんどなかった。わたしの進路に関心があるような外見も、母の熱意に引っ張られた結果だったことがこれではっきりした。
母の死んだあとでも、父のわたしに対する態度に大きな変化はなかった。ただ、わたしが夜遅くまで居間で起きていると、「無駄に電気を使ってもったいない」と小言を垂れるようになった。それ以前にそんなことは一度もなかった。わたしが学業を放棄したあとの、それまで見たこともない父のささやかな変化だったと思う。学問なればこそ深夜に及ぶべからめという、無学な父なりの思い入れがあったのだろう。
気がつけば二十一の手前だった。身体はどこも悪くないのになかなか就職活動をしようとしないわたしに、父は自分の勤務するG電機でのアルバイトを持ちかけてきた。父によるとG電機K工場では、折からの旺盛な自販機需要に応えるべく増産体制を敷いており、西日本各地から農漁業の閑散期に合わせて、季節工として人手を頻繁にスカウトしているという。わたしはそれを好条件だと思い、G電機で雇ってもらうことに決めた。QC係の一員として製造現場のラインの末端で、流れてくる仕上がり品の動作チェックなどを受け持つことになり、その七か月後には他の若いアルバイトとともに適性試験を受け、正規の雇用を得ることができた。朝の八時から午後四時四十五分までの九時間弱、頭の先から踝まで、父と同じスカイブルーの作業服を身につけることになったのである。
ただ、わたしは母の死がきっかけとなって、法律、ことに私法の分野に興味が移っており、さらにはそれの延長にある不動産関連の仕事に就きたいという気持ちが強く出るようになった。その過程で司法書士という職業を知り、ゆくゆくは自分で事務所を構え独立開業も可能という、その資格を取りたいと願った。
ところが当時合格率の高かった行政書士の資格試験はまだしも、次に挑んだ司法書士試験には落ちてしまった。リーガルマインドも実務経験もない身の上に加え、付け焼刃でしかない法律知識と、残業と家事の合間に独学で習得した程度の法務スキルではいかにも覚束なく、事前の予測どおり、合格点まで到達することはなかったのである。
では、わたしは実務家としての司法書士を本気で目指していたのかというと、本当はそれも怪しい。勉学なり試験なり何かしらを自分に課すことで、当然に人が為すべきことを避けようとしてきた節がある。G電機K工場での作業そのものは苦行ではなかったが、いつまで続くかわからない平穏さが不愉快だった。自分は九死に一生を得た特別な人間だという、一種の思い上がりのようなものがあった。幼いころによく見舞われた自家中毒症を契機とする自己愛的な性格も災いしたようだ。わたしは気が短いのに、社会の尺度では数年のタイムスパンは取るに足らないものらしい。正社員になって四カ月目を迎えていた。
アルバイトから正社員に昇格したはずなのに手取は下がった、試作品試験の部署だと聞いていたのに現場のラインだった、などという理由をつけて、いったん退職するので期限付きのアルバイトに戻してはもらえまいかと、何度も昼休みの残り時間を潰して工場の職制と交渉した。渋面を作る相手に前例はないのかと畳みかけると、そんな前例があるか、と一喝された。父の面目は丸潰れということらしい。職制の人事担当者たちから、あんた本当にあの中川さんの息子さんなのか、という意味の言葉を何度も受け取った。そのとき父は四十九歳、心身ともに強壮強健にして病知らずの皆勤もの。その前々年に勤続三十年の表彰状と副賞の金一封ならびに豪華掛け時計一式を、わが家の居間に持ち帰っていたのだった。
わたしは退職し、のちに希望どおりアルバイトとして再雇用された。正社員最後の日、工場の建屋と変わらないほど天井の高い総務課の部屋で、作業服にネームプレートを着用した担当のお姉さんから退職金三千円也の入った封筒を受け取り、安全靴と作業服上下と作業帽をごみ箱に投げ入れた。工場からの帰り道に立ち寄った書店で『岩波/統計物理学』を買ったら、所持金は二百円も残らず、K駅のホームの立ち食いうどんを食べることもできなかった。
そして半年後、期限満了によりわたしは解雇された。同じ持ち場の鳥羽の船乗りも、熊本の元歯科技工士も、季節工のほとんどは解雇された。
そのころわたしは、すでに生活にメリハリがなくなっており、司法書士になるための勉強も滞っていた。学力は以前よりも劣るほどで、受験しても受かる見込みはなかった。わたしは所属する製造ラインの作業主任の自宅まで押しかけ、雇用延長を掛け合ったのだが、一蹴されるにも似た、けんもほろろの応対だった。
父は人生の全部が徒手体操の繰り返しであると認識しているかのように、規則正しい生活を続け、交代で家事をこなし、賢明にも、わたしの将来に関心を持つことはひとつもなかった。母の急死により、人が変わったように荒れ狂うのか、それとも堰を切ったように悪行に手を染めるのか、意外にも女遊びに現をぬかすのかと、あらぬ想像をしたこともあったのだが、父はそれらすべてを虚しくし、淡々と義務的な営みを消化するのみで、呆気ないほど何も変わらなかった。G電を首になったわたしのことを大馬鹿者だと叱り飛ばすこともなかった。
二十四の年男を翌年に控え、わたしは職安で市内の土地家屋調査士事務所の求人を見つけ、応募してみた。雇ってはもらえたのは幸いだったが、来る日も来る日も、雑用だけで二十四時間の半分が消えた。司法書士や調査士が先生と呼ばれていることを初めて知った。
陰鬱な事務所の中で、専用ペンを使って法務局の公図のコピーを模写し、所有権保存登記の申請書を和文タイプで打ち込み、あるいは不動産会社から来た使者の前で、毎度毎度の米搗き飛蝗よろしく、へこへこと頭を下げているノーネクタイの地味目な中年男たちも、皆が皆、資格取得者なのであり、先生なのである。
かくして自分が着こうと足掻いてきたスタート地点が、ちっぽけなものに見えてきた。法解釈がどうの判例がどうのよりも、それまで自分が等閑にしてきた、人と人との付き合いや慣習、商道徳、敬語の使い方が、重要な地位を占めていることを痛感した。それらは自分が夢想した風景には描かれていなかったものだった。法というものに硬質で論理的な性質を認めていたからこそ、わたしはそれに仕える仕事に憧れも抱いていたのに。
雑用の合間に暇さえあれば、わたしは通説と学説の分かれる事案について先生に質問をし、さまざまな民事法の欠陥を口にし、登記実務の法的根拠を問いただした。法務局では職員と口争いを繰り返した。
事務所の所長である調査士の先生は、ふた月目の半ば過ぎまでわたしを雇用したが、一級建築士の資格を持つ新入りの登場をもって、わたしの職を解いた。最後の十五分間の面談により、わたしは自分を、解雇することに何らの頓着も持たれない人間であると知った。
人生とは濃淡のまだらな如何物が浮遊する毒スープには違いないのだが、心構えによっては別なものも、あるいは別なものとしても見えるようだ。わたしは調査士の事務所から二回目の給料が出るまでの十日ほどの間に、自動車関連の期間工として採用してもらい、車体製造二課合成樹脂係でダッシュボードの組立作業員として八か月間働いた。
本格的なライン作業はこたえた。しかし、別な安堵感もあった。この身体を酷使する作業の繰り返しにより、生活のリズムの輪郭線が濃くなり、休みの続く日でも規則正しい生活をできるようになったのだ。そうして他人の喜怒哀楽を実感できることの喜びや、他人を手放しで信頼できる心など、当然に他の人びとが味わってきたと思われる果実に、わたしもひとつ歯形を立てたような気がしたのである。わずか一年足らずの間に、自分の中から何かが揮発し、入れ替わるように浸潤してくるものがあった。
その工場の期間延長を断って退職したあと、健康保険の任意継続が切れる寸前に、職安で見つけた教職員団体の求人ちらしがきっかけとなって、ある保険会社を知り、ふた月後には生命保険の営業を始めることとなった。母は私的な保険には、ひとつも入っていなかった。その体験は、他人に保険の必要性を説くモチベーションには充分だと営業支部の皆から言われた。
保障とは、買っても買わなくても満足感に満たされることのない商品の代表格であり、その販売の難しさは、聞きしに勝るものだった。営業現場である公立学校の職員室では、文字通り孤立するしかなく、途方に暮れた。役者になりきって全身全霊で臨まなければ売れるものではなかった。わたしは運がよかったのだと何度も口にした。特に落ち度もなしに、成績不足で査定が通らず、消えてゆく新人が多かったからだ。
しばらくして訪れたバブル期の寵児「ザ・セイホ」とその衰退、それに続く超低金利時代といくつかの生命保険会社の破綻、外資の参入など、浮沈の激しい業界ではあるが、何とかしがみついて生きてきた。
初めての自力契約は忘れられない。先輩の営業部員たちから、領収証を書くときペンが震えるよ、などと言われていたが、そのとおりになった。訪問先の玄関口から車に駆け戻ると、客の書いた申込書を両手でつかんで声に出して泣いた。聞いたこともない声だった。
それから六年、実家の近くの荒地に小さなプレハブ住宅を持った。人伝に縁あって、ささやかな宴を持ち、二年後には、わが子を抱くこともできた。それまでの自分の人生に何ひとつ不要なものはなかったのだと、過去を全肯定してくれる存在が、抱いた両腕の中で小さく上下する様子を、飽くことなく見つめていた。その息子もこの春、大学進学が間近に迫る高校三年に進級する。会社では、近々勤続二十五年の表彰が──。
ぶっ、ぐぶっ、ぐふふふーっ。奇妙な音の合間に、すすり泣くような短い鼻息が挟まる。
──貴様はパーか、それとも詐欺師なのか。
──え、何。中屋くん?
──パーか詐欺師か。あるいは作話症、ウェルニッケ・コルサコフ症候群。
中屋くん……。中屋くんが笑っている。声でわかる。
──君は事故に巻き込まれたんじゃないだろう。いい加減なことを言いなさんな。それに俺はいま都内の私立大学で金属加工について教えている。それでいいのかい。いろいろ言ってくれるじゃないか。俺は東大には行ってないし医者にもなってない。君も知ってるはずだ。それと君は同窓会には出てたじゃないか。いやいや出てたよ。よく出られるもんだとみんな呆れてたからね。ほとんど聞こえよがしに言ってたのに耳に入らなかったのかね。君はけっこう潰れてたしな。喋ってることは支離滅裂だった。本当の話だって。俺は車で引き取りに来た奥さんとふたりで、ベロンベロンの君を担いで君んちのワゴン車まで運んだんだもの。
──会ったのか、家内に。子どもは? ワゴン車……。
──会ったさ。だから会っただろうがよ、奥さんに。その話、してないの? 毎度のことみたいだったけど、君は、おれはひとり者だこんなやつは知らん、とか何とかわめいてたよ。
──子どもは? あのう……。
──だから君がしっかりしてればさ、あんなことにはならなかったんだって。地元の子らは、みんな言ってるよ。
中屋くんが、ゆっくりと梟のような顔に変わっていく。フホッフハッフー、プパップパップー。違う。梟はそんな声じゃない。違うよ中屋くん。中屋くん。そうじゃない、息子があんな風ってどういうことだ。事故はあったじゃないか。
──結局貴様がしたことだろう。みんな貴様のせいだろう。
梟の顔が人間の顔に戻ってきた。半透明でフォトコラージュしたような醜い顔だ。いや戻ってない。中屋くんの顔ではない気がする。丸い腐った目でこちらを見ている。そしてそいつが口を開き、ゆっくりと話し出した。僕の口真似をしていた。
──そうなんだ。もしあの事故に遭わなかったら、どんな人生になっていただろうかと考えることはある。何かひとつでも欠けていたら、たとえば、あのトラックが止まってさえいたなら……。
生臭い口臭がした。しかし他者のそれではなかった。
……有限会社海住運輸のトラック運転手勝田正己(仮名・三十九歳)は結局、その日も運転席で早めの昼食を取ることにした。四日続けての「ほか弁」である。午後一番で、仕分けしたイカナゴの稚魚──当地では小女子とよぶ──を、総重量十一トン半の保冷庫に詰めて、南に小一時間の所にある中央卸売市場まで走ることになっている。食事もおおかた終わりかけのころ、一台の車がはるか右方向から猛烈なスピードで近づいてくるのを見て、彼は舌打ちした。その堤防道路は一般車両の通行も許されてはいるが、魚介類を市場や加工場に運ぶための大型車が、つまりは勝田らのような者が、優先であるという意識を、彼は何となく持っていたからだ。
──年度末に、どこぞのバカ営業が焦っとるな。素人は国道を行け国道を。
緑茶のボトルに口をつけて横目で見ながら、ふん、と腹の中でせせら笑った。背広を着た人間は嫌いだった。営業などという仕事はなおさらだった。それにしても尋常ではない速度だ。彼の胸には、目下のこの違法を咎めたいという気持ちが沸々と湧き起こってきた。こやつは百キロは出している。公共の場所だというのに太いやつだ。このような無体を許しておいては後々よろしくない。
そう考える自己を意識するとき、自分には正義感があると思えてきた。名前の字義だけでなく、何か行動で表したいと思った。このまま見過ごすわけにはいかない。だがスピードがスピードなだけに、下手をすれば事故につながるかも知れない。よしそれなら警告を発するというのはどうだ。自慢のエアホーンを一発お見舞いしてやろう。これならかりに何かあっても言い訳が立つ。
白い営業用のバンは三十メートルの距離まで来た。一秒後には目の前を通り過ぎるのだろう。そうはいくか、うまうまと。意外にも運転しているのは中年の女だった。彼の嫌いな年恰好だ。助手席に若い男が乗っている。なんたらフーズというロゴと人形さんの絵から察するに、どこかの食品会社か。どうでもいい。非常識な連中だ。ババアめ、目に物見せてくれるわ。
勝田は割り箸を持ったまま、ハンドル中央のクラクションを右の掌で力強く押下した。ドイツ製コンプレッサーで十二バールまで加圧したエアホーンが、コンマ何秒かのタイムラグのあと、比類のない甲高い音で周囲の空気を震わせた。営業車がトラックの正面にかかる直前だった。
営業車が驚く様子を見た瞬間、彼は子どもの時分に通っていた銭湯の風景を思い出した。並んで体を洗っている老人たちの背中に忍び寄り、桶で冷や水をかけるいたずらだった。もそもそ手足を動かしていた裸の老体が、突然ひゃっと動くのが面白くて、何度怒られようがやめなかった。
営業用のバンも、それと似たせわしない動きを見せた。音に驚いて急ブレーキをかけたかと思うと、全輪をフルロックさせ、照れ笑いが出るほど大仰なスキッド音をたてた。さらにハンドルを切ったままブレーキを緩めてタイヤロックを解除させたものだから、いきなりグリップが戻り、コントロール不全になっている。車体は狭い堤防を蛇行し続けた。四輪ロックのままの方が確実に止まるものを藤四郎が、と彼は嘲った。眼の下には、突然の雷鳴に逃げ惑う羊の滑稽さがあった。彼は、ひゃっひゃっひゃっと声を立てて笑った。これでやつらも懲りるだろう。肝心の、中年女の慌てふためく表情はよく見えず、その点は不満だった。若い男の方は、辛うじて横顔がうかがえた。前方を凝視しているようだった。あいつは何を見ているのだろうと彼は思った。
営業車は結局、十秒足らず乱れただけで、堤防を脱輪することもなく南に去った。こともなげに再び加速を始めたらしいバンを見て、勝田は再び小さく舌打ちした。
いきなり耳をつんざく大音声に、反射的に母は急ブレーキをかけた。タイヤから悲鳴が上がり、積荷のバットは総崩れになったが、トラックを見て減速しかけていたので、車体そのものは事なきを得た。ルームミラーが振動するほどのその音が、トラックのクラクションだとわかったのは数秒たってからだった。母はうろたえることもなく、制御が戻ってからのハンドルさばきは巧みだった。冷や汗をかいたのは、何もすることのない助手席のわたしの方だったのかも知れない。あまりに急激に緊張すると動けないものだと実感した。
錯覚だったのだが、クラクションを聞いた途端、まさかトラックは動いていたのでは、と背筋が凍った。これで事故にでも遭っていたら話にならない。これも好事魔多しの見本なのかと思った。こうず? こうじ? 運命。塞翁が馬。前方を凝視するより詮のないわたしの目の前で、短時間にいろいろな言葉が小さく飛び交った。それまであまり経験のない圧迫感の中で、秒単位で時間は過ぎていった。人騒がせなトラックは左のフェンダーミラーの中で小さく睨んでいた。あいつら何なんだろうね、と母はつぶやいた。
──そう言えばお前さ、小学生のときにお医者さんの前で、ぼくも医者になるって言ったんだったね、注射針を腕に指したまま。憶えてる?
何を考えていたのか、しばらく黙っていると思ったら、唐突に母は切り出した。そんなことがあったんだろうか。憶えているかと聞かれても、昔に母がそんな話をしたことを憶えているだけで、肝心の場面の方は浮かんでこない。ただわたしは、小さいころは自家中毒という病気で点滴を受ける機会が何度もあったし、省みるに普段でもそのような芝居がかった物言いをすることが多かったので、よくやる母の作り話とは思わなかった。おそらく母は何かの奇遇を得たつもりになり、やはりわたしは医者になる宿命だったとかなんとか、適当に都合のいい解釈をしているのだろうが、本来この人は神にも仏にも、へっと舌を出すような無神論者──そもそも無神に論など要るかい、というタイプなのだ──であって、目の前にある現物しか信じない堅物人間なのである。
わたしたちと所定の入学料を乗せた佐織フーズ株式会社のファミリアバンは、堤防を降りてから、路地を縫って南周りに大学の周囲を四分の一周し、車内の時計で正午のきっかり五分前に南通用門の守衛室の前を通過した。目指す医学部学務課のある建物はすぐに見つけたつもりだったが、時間で見ると貴重な二分間を費消していた。正面玄関脇の路肩付近で、あそこはどう、いやそっちはまずい、などと小揉めした挙句、結局いちばん適当でなかろう場所に車を止めてしまい、御影石の階段を一段飛ばしで駆け上がって、大ぶりのガラス戸を押したのが一分前。急患を告げる看護師のように、あっちこっちと親子でころころと廊下を走り、やっと見つけた学務係と白抜きで書かれたプレートがぶら下がる、その真下のカウンターに四本の腕をついて、あのうすみません、お電話いただいた中川です、谷岳さんはいらっしゃいますか、と叫んだちょうどそのとき、駆け寄ってきた職員が谷岳と聞いて振り返る視線を受けて、いったい何事かと奥のディスプレーから銀縁のフレームを浮かせた初老の男性の、頭上にかかる電波時計の針は、再び重なろうとしていた。
月は替わって四月上旬、花曇りを濾し取ったかのような晴天のもと、わたしは他の百名の──なぜか総員は百名ではなく百一名だった──および他学部の、二週間ほど先輩の新入生とともに、濃紺の背広で入学式に出席した。それからオリエンテーションがあり、学生証を受け取り、履修キット一式と生協や自治会やらの白地の申込書を手渡され、いろいろなサークルや運動部──医学部テニスとか医学部ワンダーフォーゲルのように、履修スケジュールが特異な医学部のために、クラブが別編成になっていた──の勧誘を受け、しかしながらセレモニーが終わると、沈鬱な心地で最寄のバス停まで歩いた。
気落ちしているとまでは思いたくなかった。だがわたしは我慢していたのだ。自分の気持ちに素直に従うならば、とんでもない言動をやらかしそうだった。二十歳前の惚けた顔が、自分の顔と同じ高さで延々と居並ぶ光景を、あれほど不気味なものだとは、それまで想像できなかった。知らぬどうしが出身地や共通一次試験の結果を教え合って小刻みに飛び跳ねている。握手までしている者もいる。うす気味の悪い連中だと思った。
希望に満ちた大学生活の第一日目として日記に認めるのは、まったく気が進まなかった。その第一日目から嘘を書くことになり、おそらくそれ以降も単なる作業でしかなくなる。これから飛び込む世界を、耳目を傾けるべき対象を、知りもしないでどうしてこれほど心が沈むのか。原因はただひとつで、高校の卒業間近から始まった二年数か月に及ぶ蟄居生活の間に、わたしは度を超えたなまくらな人間に仕上がっていたからである。人の笑顔やそれに応じることを煩わしく思い、人に話したり話しかけられたり、ましてや自分の行動を縛ることになるスケジュールを計画して提出することが億劫でしかたがなかった。
授業や実習にひとつも出なかったということではない。わたしは選択したカリキュラムの一覧表をながめながら、興を覚えた科目を、まだら禿のように選んで出席してみた。体育の授業だけは、理由なしに二回欠席すると即留年決定という、わかりやすい障害物があったので、噂の域を出ないとはいえゲーム感覚で欠席を回避した。明治や大正の時代に、東大へ入ったものの授業に出たのは三日だけで不忍池で釣りばかりしていた人の話が記憶に残っていた。当時そういった人物列伝を読む機会がよくあり、豪胆だと思っていた節があった。
自分でも、こうなることにある程度の予想はあった。わたしが大学に足を運ばなくなったのは、補欠で入学したことに対する劣等感ではもちろんなくて、先にも書いたが、二年間続いた自宅浪人中に身についただらしない生活習慣が、ひとつも改善できなかったからだ。補欠合格という事実から来る劣等感が原因ではなかった。もしわたしが劣等感などという言葉を使ったとしたら、それは単なる怠惰を何か深遠な事情が背景としてあるかのように装うための小細工に過ぎない。
教養課程一年目の出席日数が大幅に不足しており、さらに定期試験は二回とも病欠したことなどから、むろんそのまま進級とはいかなかった。例の学務係の谷岳氏とは何度かやり取りがあった。学務係には、町医者の書いた「二週間の加療安静を要す」との診断書を、定期試験の病欠届に添付して提出あったのだが、それを受け取って照査したあとでも仮病を疑っている様子は、見ていて愉快を覚えた。むべなるかな、追試を拒否した教授がいた。
結局、翌春からも、二年目のカリキュラムは取らずに、新年度の入学生と一から繰り返す──と言ってもたいてい初めてのことばかりなのだが──ことにしたのだが、決意を新たにした二年目も状況はたいして変わらなかった。
授業はまったく興に乗れず、気晴らしに好きな数学やドイツ語に出るだけだった。金属検出や未知検体とかのチーム実習でも、白衣を着たヒトラーユーゲントみたいな連中の恰好と、そんなものを着せられて淡然としているチームメートに対する嫌悪から、唖然とする三人を残したまま途中で退室したりすることもあった。
学年では二年目に入っているので、翌年度から始まる専門課程に向けての足慣らしのつもりなのか、小規模のゼミが始まったのだが、二十ほどに小分けされた講座のどれにも興味が持てなかった。産婦人科学とか精神神経科学などは人気があったのだが、抽選の結果わたしが引いたのは、希望投票数では下から二番目の分子病態学などという地味なテーマだった。そのゼミも、命ずるままに買わされた大部の専門書の、いったい何物なのか見当もつかない写真や図説の合間に埋められた灰汁の強いセリフ文字の英文を、抽選負けして不貞腐れる四人の学生に和訳させたうえで持ち寄らせ朗読させるという、テーマよりさらに地味な内容で、担当教員と手を取り合ってお互いやめとこうじゃないかと合意できそうなほどの退屈さだった。二度目のゼミ終了後、教授の部屋を出て廊下を歩く他の三人のゼミメートもそんな感想を述べ合っていたが、無言で歩いたわたしだけが三回目以降を放擲したようだった。
このままでは放校もやむなしかと観念したわたしは、時間稼ぎのつもりで工学部への編入希望を学務係に口頭で出しておいた。それ以降は、わたしは以前にもまして出席を渋り、級友の顔名前すらお互い判然としない、幽霊学生のような身持ちの悪さをまといつつあった。
大学当局、すなわちM大学医学部学務課学務係は、それでも何も言ってこなかった。大学というところは、幽霊学生をこれほどまでの長きにわたり放置しておくものかと、なかば呆れなかば面白がっていた矢先、自宅に電話が入った。
M大学では、県立大学時代からの名残なのかは知らないが、医学部だけは、この学務係が学生課に相当する事務を執っている。声の主は若い男である。入学直後から感じているのだが、ここの事務当局はいったいに学生に対する態度が尊大で不愉快に感じていた。この職員も例にもれない。──そんなことでは君ねえ……、などと人を見下げたような口調だ。
そもそも出席日数や試験の結果が当局の定める基準に達していないだけであって、こちらとしては、だめならだめで無理を通そうとするつもりはない。違法なことをしているわけではないし、何をへりくだる事情があるものかとする頭がある。
──今のままじゃ、面倒なことになるんだよ。きちんとアクションを起こしてもらわないと、宙ぶらりんのままじゃ、こっちも迷惑なんだよ。あ、次長の谷岳と代わりますので少々お待ちを……。
若い職員はため口も敬語もチャンポンにして、途中で割り入ったらしい谷岳次長へ受話器を譲った。谷岳氏が何も言わないうちにわたしの方から切り出した。
──あー医学部医学科二年六十七番中川です。あのう前に言いました工学部への編入の話はどうなりました。
谷岳氏がそんな話をするために電話を代わらせたのでないことはわかっていた。わたしだって、本気で工学部へ替わりたいと念願したわけではない。相手にいくらかでも課題を与えることで、自分の窮地を紛らわそうとしていただけだったのだ。
──君ねえ、編入編入と言うがそう簡単にはいかないんだよ。もし希望先の学部で欠員が出ておれば、許可を得て編入させることは理屈の上では、それはあり得る。がしかし、君がまずしなければならないのは、課せられていることを全うすることじゃなかったのかな。あんまり人を食ったことを言うものじゃないよ。それで君に話なんだが……。
谷岳氏はそこで、学務係と学年担任や学部教授たちとの間でわたしの処遇について話し合いを持ったことを述べた。
──君の履修状況を見ていると、こののち学業を遂行させる上で重大な懸念を抱かざるを得ない、とする意見が専らだ。要するに君は教授たちから匙を投げられている恰好なんだな。ただ、君の方にも何か言い分があるかも知れないから、処分はそれを聞いてからにしようということになった。あくまで特例中の特例と理解してほしい。われわれとしては、相当の猶予期間を与えたつもりだし、君を大学に置いておく義務はないのだが、条件次第では、もういちどチャンスを与えようか、というわけだ。そこで、ひとつ場を設けて学年担任のI先生と学部教授にご出席いただいて、君に釈明の機会を与えることにする。君への審問みたいな形になるがやむを得ん。自分で撒いた種なんだからな。それから君だけじゃなくて、親御さんも一緒に来るようにとのことだ。どうしてか? どうしてかは知らん。聞きたいことでもあるんだろう。ご両親のどちらか……お父上がいいかな、お父さんに一緒に来てもらって、ともかく今の君の現状を皆の前で詳らかにしようじゃないか。君の進退を決める教授たちの前できちんと説明できるように、立派な言い訳を準備しておくんだな。お忙しい中を集まってもらうのだから、日時の方はこちらで決めさせてもらった。六月三日の午後二時に、親御さんとこちらに出向くように。それで場所なんだが、この学務課の建屋の北隣に離れみたいなのがあるのを知ってるか、知ってるな。そこの一階に小会議室があるから、そこに十分前に着いていなさい。玄関を開けといてやるから。私もそのころに行く。万一これに出なかったら、君には処分が下る方向だと覚悟してくれ。欠席の事由はいっさい聞かない。理由なしに所定の単位取得ができない者、という除籍条項があるので、怠学による除籍ということもあり得る。編入がどうのというのは教授たちが納得してからの話だ。当日はその話は出ないと思いたまえ。ついでに誤解のないように言っておくが、これは君を大学に残すためのセレモニーではないからな。君への沙汰を整える前にやっておく免責のための形式だと思ってもらって結構だ。以上、このことをご両親にちゃんと伝えるように。わかったね。時間には遅れるなよ、あとがないぞ。
それだけを言い終わると、谷岳氏は余韻を許さずに電話を切った。通話の間中、わたしはほとんど相槌を打っているだけに終わった。話を聞きながら、じつは彼の狙いはわたしにではなく、学務係の部屋にいる他の誰かに漏れ聞かせることなのではないかという気がしていた。けだし、その年頃の人は、そういう効果を狙うものなのだ。
六月三日はすぐにやってきた。父の五十一歳の誕生日の九日前にあたる。六月の晴れ間は力強く、蝉の声が聞こえてもおかしくないほど蒸し暑い日になった。わたしは父に有給を取ってもらい、ふたりで最寄りの駅から徒歩で大学に向かった。道中何か話したという記憶はない。いったいに我慢強い父だが、架橋のアスファルトに逃げ水が出るほどの陽気に加えて上着まで着込んでいるため、湿気には閉口している様子だ。薄手の綿パンにTシャツ一枚を垂らしているわたしの出で立ちとはえらく違う。日差しに顔をしかめ、刈り上げたこめかみに玉の汗を蓄えながらわたしの隣を恨めしげに歩く。
生後六か月で実父を結核で失い、十七歳のときに近所の伝で電機メーカーへもぐり込んで以来、製造現場一本で通してきた父は、興味の持てない物事にはあまりこだわらない性分になった。そして父にとって、わたしの進路は興味の持てない分野のひとつなのだ。わたしがどういう方向に進もうが反対することはないし、貯めてきた学資の使い道にも口を挟んだことはない。それは息子本人の自主性を尊重しているからだと思っていたのだが、どうやら関心がないというのが本音のようだ。学問はないが典型的な技術系の人間で、母は器用貧乏という表現をした。よく言えば淡泊であり協力的。他方、特筆するほどの短所はないが、それらしきものは各方面に広く薄く、黒黴のように分布している。わたしに言わせれば、哲学や文学からの蠱惑には一向に動じることのない人々の一群に属している。母に言わせれば、第三者が納得するような離婚の理由を挙げにくい相手だとのことだ。デリカシーとは無縁の人間だと付け加えることも多い。焼けた砂を踏む父の足音をすぐ後ろに聞きながら、わたしは無言で歩いた。
約束の一時五十分までには、半時間ほど時間が余ってしまいそうだった。わたしは目的の場所に直行せずにキャンパス内を案内でもしようかとも思ったのだが、それには逆に時間が足りないし、何より父がそんなことを望んでいないことに気づいてやめることにした。
国道から分岐して付属病院の駐車場へ向かうアクセス道路が出ている。その脇の歩道から構内に入り、おおまかな見当をつけて足を向けたのだが、結果的に駅から学務係までの最短距離を結んだことになった。
谷岳氏の言っていた建物はすぐにわかった。構内の他の建築物と比べると小ぢんまりした地味な二階建てで、あまり使われていない様子だった。上から見ると変形のL字型をしているのだろう。玄関口の小さな庇の陰で十五分ほど涼んでいると、三十代くらいの痩せた大柄の男が現れてわたしたちを確かめると、職名と苗字を名乗り、軽く頭を下げた。
──お話は伺っております。次長はいま手が離せないものでして、代わりに私が。
父は、相手は大学の関係者なら誰でもいいらしく、聞き終わらないうちに、あ、どうもどうもこのたびは、などとしきりに頭を下げている。大市と名乗ったその職員は、それを適度にあしらい、持ってきた鍵で玄関を開けて中に入ると、どうぞとわたしたちを促して、自ら暗い廊下の先頭に立った。靴を脱ぎかけていた父は、土足のままで奥へ進むわたしたちを見て、ああそうだったかとつぶやき、遅れてついてきた。廃屋から立ち上るような、淡いが独特の臭気が大股で前を行く大市から漂ってくるようだった。わたしたちは狭い角を折れ、さるドアの前に立つと、大市の鍵で中に入った。
直前に何の用途で使用したのか判然としない、雑然としてレイアウトだった。造作には意外にお金がかかっているとの印象を持った。照明は全体的に暗いが、事前に清掃でも入れたのか、廊下で感じたような黴臭いイメージはない。見たところ正規のドアは一か所だけで、一方向にだけにある窓に近い側にある。立派な奥の壁の近くには、扇型にごくゆるくカーブした巨大な長机が、やや高みにしつらえてあり、それから距離を置いて、それと対面する向きに事務用椅子が十脚ばかり配置されていた。わたしたち父子は、大市の指示で席の中ほどに腰をおろし、他の出席者を待った。エアコンは音ばかりでなかなか効いてこなかった。
さらに二十分ほど待ち、二時を少し回ったところで、谷岳氏と学年担任のI先生が揃って現れた。I先生はわたしを見るなり、おう、と口先で言ったものの言葉が続かず、わたしの右隣りにいる父に向って何やら口を動かして会釈した。父も誰それ構うことなく、半分腰を浮かせて手短に応じている。このI先生もよくわからん男で、それは今更もういいのだが、初めのうちは大学という場所に、こうしたつかみ所のない二重人格的なパーソナリティーが多く跳梁する魔界のようなイメージを持ったものである。それはさておき──。
谷岳氏は腕時計に目をやり、大市に何か告げると、大市は承知したようにすぐに出て行った。まもなく三名の中老年の面々が相次いで入室して席に着いたが、遅刻しているもうひとりを待とうということになって、谷岳氏のいう事情聴取は、十五分遅れで始まった。
学部からは教授が四名が出席し、I先生、それに谷岳氏を加えた都合六名が長机の向こう側に陣取った。冒頭、各教授らにA四サイズの用紙が数枚ずつ配布され、谷岳氏が簡単な挨拶を行った。その後、出席者の名前を順に読み上げるのだが、これら学部教授たちは、まったく聞き覚えのない名前と顔ぶれである上に──それがそもそも問題なのだが──老人特有の咳きの合間にぼそぼそとやるものだから、結局、誰が何様なのかひとりもわからなかった。ゆえに初対面であるところの彼らのパーソナリティーは、想像に頼るより他はなかった。
まずはエジソン。おそらくはその風貌と、奸策により政敵を貶める手法から、周囲ではそうささやかれているのは確実である。頭髪、眉毛ともは完全な白色で、わたしの死ぬ前の祖母にも似ているのだが、隣の父にとっては、母親の面影は別のところにあるようだ。推定年齢六十五歳の、やや小柄な一見穏健派風。その実くせ者。手持ち無沙汰にまかせて手元のペーパーを繰っているが、知らぬ間に誤植や誤用を探す癖が出ている。養子縁組によりこの地を踏んでより三十有余年、M大学に骨を埋める覚悟はできている。
そのエジソンよりも身体も態度もでかいが、意外に閑職かとの疑いを抱かせる、地黒のこわもてがエジソンとI先生の間にいち早く居場所を決める。猛悪な目つきをもたらす粘着気質は半世紀以上の筋金入り。その容貌につり合った言葉遣いが肝要であると常に考えている。愚身を賭してお諫め致し申す、とかつて詰め寄られた数名の上司あり。上昇志向は強いが、最近糖尿病の進行で気弱になり始めている。マフィアと呼ぶことにする。
エジソンの向かって左隣で背筋を伸ばし腕を組んで目をつむるのは、黒染めオールバックのやや脂ぎった小太り。胸にペンの並んだ白衣を着ている。学部内のあらゆることに長けているとおぼしき還暦手前は、谷岳氏と同じ年齢層か。広い額と色白の外見は駅前の中華料理屋天竺の謝さんタイプ。己の知性を自認し、エジソンの後釜を狙うナルシスト。見かけとは裏腹に小心かつ細心。気遣いと助平心が同居。日ごろから暴走気味のマフィアには手を焼いている。
それから、遅れてやってきた老教授が中華の謝さんからやや離れていちばん奥に陣取る。この方は雑誌によく挟み込んである、模写して送付すれば採点しますというイラスト教室の広告ハガキに、手本として乗せてあるパイプをくわえた老人、あのモデルに違いない。普段はたいてい何も見ていないが、見るときには眼鏡をずり落とすのでそうと知れる。敵に回すと意外と手強い。パネルディスカッションではこの手合いが最後まで折れないが、少数意見として尊ばれて名を残すのみに終わることが多い。
さて居並ぶ積学の面々、むろん何ら押し黙る義理のあるはずもなく、六メートルほど離れて対面するわたしたち親子を、新種の実験動物でも見るように、やや高みに位置する長机から見下ろしながら、頬を近づけて言葉を交わしている。わたしは任意の中老年六名が参集して、このように全員が頭頂部に頭髪を持つ確率はいったいどのくらいなのかとぼんやり考えていた。この方たちとわたしとの間に共有する点を描こうにも、社会通念上の用語を用いる限りにおいて不可能であることは予想がついていた。両者をとり結ぶ適当な言葉が見つからない。わたしは相当な落ちこぼれなのである。意欲や責任や後悔といった語の意味が、わが肉に浸透してこない。それは学者先生たちも察している。するとこの集まりは、万一、社会性の欠缺がわたしの生活習慣以外に起因するとなれば、この場を借りて、博覧強記をもって鳴る彼らの博識に乞丐するのも一考ではないかとの、谷岳氏の親心によるものでもあるのだろうか。
教授たちの紹介が終わると、次にわたしに関する赤面もののデータが谷岳氏によって読み上げられた。ときおりI先生に確認などする様子が念押しのようでわざとらしい。あるいは苦笑するI先生の立場を演出する狙いでもあるのか。うつむき加減でちらりと父の方に目をやると、進行役の谷岳氏を見据え、ときおり感心したように頷いている様子である。
谷岳側が父の出席を求めた意図ははっきりしないが、おそらくは、父から何かを聞きたいというよりも、わたしの大学生活の現状について伝聞という形ではなく直接に知る機会を持たせ、その上で、仮にこの会合の結論としてわたしに義務を課すことがあれば、人的保証というのか連帯責任的なもので担保しようと考えたのだろう。あるいは未知の相手に効果のほどが明らかならぬとしても、父親からの叱責など、わたしに対する懲罰的な措置としてなら意味があろうと踏んだものと思われるが、この企てが徒労に終わったと彼らが知るのは、まもなくのことに違いない。父は、彼らが目論むように行動することは決してないだろう。
だいたいにおいて、教授らは工場従業員というものの実態を知らない。工員は人の話など聞かない。というより言葉に依拠する部分が少ない。彼らを支配しているのは、目の前の「モノ」なのである。「はじめにモノありき」の民なのである。彼らを納得させるには、モノを目の前において指差し呼称で「これがこうだから、ここをこんなふうに」と、防音用の耳栓を貫く大声でわめかなければ埒があくものではない。ひらがなが主体となり、聴き言葉で意味が通るようにする必要がある。同音異義語を持つ語の使用は、製造現場ではご法度である。命に関わる。仕様書の行間など絶対に読まない。命に関わる。
したがって彼らがそんな目論見を持っているようでは、挫折するのは時間の問題なのだが、確かに時間も問題なので、わたしは特に異を唱えず、成り行きを見守ることにした。
──というわけでして、率直に言いまして、われわれとしても大変きつい。すでに結論が出ていると申し上げねばなりません。早い話が進級拒否、近々退学していただく方向です。
谷岳氏は、父とわたしをかわるがわる見ながら言った。父は何も発言しない。質問をされていないのだから当然である。わたしは父の方を向き目を合わせてみた。父はこちらを見て、困ったことになったなあ、というような表情をしているだけである。
ちょっと待て。即退学とはどういうことか。いやいや即も近々も同じことじゃ。言葉のあやでごまかすな。息子はな、一生懸命勉強して実力で大学に入って、それはちょっとばかし疲れているだけなのだ。入学金は入れた。授業料も払った。全部ではないが、授業にも出ている。ものを習う学生だから当然だ。お金は払う一方で、誰からも一銭の銭とて受け取ったことはない。手が後ろに回ることをしでかしたわけでなし、ましてやどこぞの先生みたいに女子学生に手を出したこともない。いったいどういう理由があって、犯罪を犯した被告みたいに、高台に並ぶ高給取りの国家公務員からこんな風に詰問されなければならんのか、まるで合点がいかん。
そのような反応を示す父親像だってありうるのだろうが、わたしの父に限れば、単に困っているのである。教授たちの居並ぶ長机から、わたしたち親子の心内を探る風が伝わり下りている。その斥候たちは決して彼らを満足させる報告をすることはなかろう。それが証拠に、教授たちは次第に谷岳氏やI先生の方に視線を移すようになっている。
──われわれとしても残念なのですが、特段の理由でもない限り、現状では止むを得んのです。……お父さんの方で、何か心当たりになるようなことはありませんか。
集まった視線の束をどこかに移そうとするばかりに、しかし谷岳氏はわたしにではなく、父への質問という形で振り向けた。今般の集会の狙いが父へのいたぶりを兼ねていることが、いよいよ濃厚になってきた。
──ええ、まあ、高校を卒業するまではそうでもなかったんですが。
父は語り出した。いったい何を言うつもりなのか。わたしの何を知っているのか。
──まあ、寝坊というのか、きちんと起きられない習慣がついてしまったようなんですな。宅浪というのが……よくなかったんですかね。もちろん本人に責任があるのですが、親としても目が足りなかったという点はあるのかもしれません。
それは心当たりとは呼ばない。だが質問するほうが無茶であり、いじめに近かった。
「たとえば──」と中華の謝さんが両手の指を目の前で組みなおして初めて口を開いた。意外に軽々しく響く声だった。
──朝どうしても起きられないとか、知らず知らずのうちに昼と夜とが逆転した生活になってしまうといった人の中には、単なる怠け癖だけが原因とは言い切れないケースがあります。もしかすると脳内の疾患によるものかも知れないし、睡眠障害が原因でそうなる人もいる。あるいは他の精神生理学上の手当てを必要とする症例なのかもしれません。近年そういったケースの若者が増えているようで、重症化した例も聞いています。じつは本学に、その分野に造詣のある本橋という教授がおりますので、これを機会にご相談なさるのも一考に値すると思いますね。
本橋という名前が出るや、エジソンもマフィアも、得心がゆくという表情で頷いている。 さて、この人たちの魂胆はわかっている。怠け癖などという素人判断を医学者という立場から喝破し、わたしの精神疾患をにおわすことで父に衝撃を与える腹積もりなのだ。父に学のないことを見抜き、先ほどから侮った態度を続けている。
だが、父は動じない。父は言葉では動揺しないのである。少なくとも傍目にはそう見える。そんな父に試練を与えるつもりの博学たちの試みが、これよりことごとく挫折するであろうさまをわたしは思い描き、この集会の今後の密かな楽しみとした。
──ところで君は工学部への編入願いが出ているそうなのだが本当なのか。
われら親子と教授たちとの間でいくらかやり取りがあったあと、I先生が唐突に話しかけてきた。じつはわたしがそのことを初めて谷岳氏に口にするまでには、学務係との間で、売り言葉に買い言葉といった、いわば事故的な経緯があったのだ。やはりここはI先生に最初に耳に入れておくべきだったと、I先生の立場のなさそうな顔を見て一瞬そう思ったのだが、いやまて。おそらく学務係から聞いていたのだろう、以前にもI先生から同じ質問をされて、そのときにちゃんと答えておいたではなかったのかと思い出し、改めてI先生の狡猾さを再確認した。まだ文書による正式なものではないとの谷岳氏のとりなしも、I先生を擁護するために使われているようだった。
──ああ、そのことですが。
マフィアは、わたしが返事をする前にI先生から言葉を引き継ぐと、途中からわたしたち親子の方に向き直った。
──きのう臼井先生らと一緒に電子工学科の主任教授と、ちょっと話す機会がありましてね、(と話しながら中華の謝さんに顔を向けた)聞いてみたんですよ。うちにこれこれこういう学生がいるんだけど、あんたの方ではどうするねって。
マフィアはよく聞けとばかりに、上半身を前かがみにした。
──先方はね、お話にならないと、こう言うんですな。つまりね……。
──結論から言うと。
中華の謝さんこと臼井教授が、横から口を出した。助け舟ではなさそうだ。
──電子工学科ではいまのところ欠員は出ていないし、途中からの編入を受け入れる予定はないという話だった。正式な申請でないなら、正式な回答でもないんだが、実情はこの通りだ。編入うんぬんの話は、ないと思った方がいいな。
話の腰を折られたマフィアは憤然としていた。そんな対応では、この突飛な申請に対する返事という意味しか持たないではないかと、考えたに違いない。少し空気をはさんでから、駄目押しのように、わざとらしく無表情で続けた。
──教授は笑ってましたよ。よりによって何でうちなんだとね。わかるかい。つまりあれだ、君みたいな人はいらんと、はっきりとそう言っているわけだ。
言葉によるパフォーマンスに近い。この学生は傲慢な勘違いをしておる、ならばわかりやすく説明してくれよう、といった職業上の習慣から口をついて出たというよりも、教授側の心情の吐露を装いながらそのじつ、わたしたち父子が聞いたこともないような衝撃的な言葉を浴びせてみて、反応を見てみたいと思っているのだ。
勘違い──。医学部から工学部への編入は入試ふた月前の志望学部変更のように安易にできるものと、わたしが高をくくっているとでもマフィアは案じたのだろう。この教授との間で、共有可能な認識がひとつあることを知った思いだった。
このような認識の共有を、それまで父との間で持ったことは記憶にない。父は感情をほとんど出すことはなく、ドラマなどでは疑似体験のできる父と子の心の交流──わたしの側から言えば、父が考えていることを想像し、そういうわたしの感情に父も気づいているといったふうな──といったものを、わたしの物心つくころから思春期以後も、父との間で持ったことはなかったのだ。
その日、マフィアとの間にそれを持った。おそらくマフィアが人として固有で持っているところの、彼の名札の付く父性のインスタンスを、わたしは感じ取ったように思った。それは「ああ、彼も人の父親だなあ」と思うのではなく、あるときに相手を自分の父親であるかのように錯覚してしまっていることに気づくことである。特段調べてはいないが、心理学上での適当な現象名が付けられていると思う。
このような感覚はそれが初めてではなく、じつは、わたしは中学生のときにひとり、あるいはもうひとりの同級生に対して同様の感情を抱いたことがある。父親にこそ向けるべき意識、感情、欲望を、クラスメートに向けて抱え込んでいた。奇妙ではあるが、単純である。ある日あるとき(あ、俺、田中のことを、父親のように振舞うように求めていた。田中にたいして、父親を相手にするような態度を取っていた)と気づくのである。他にも数人の大人の男もこの対象になったように覚えているが、この意識は高校在学中に薄まり、二十歳を超えて体験することはなかったのだ。
──君は、ほとんど授業には出席してないということだが、その間いったい何をしていたのかね。
他のことに興味はないが、そのことだけは確かめておこうという風の老教授が尋ねてきた。パイプのイラストのモデルの老人である。鼻眼鏡の上から、幾重も皺に囲まれた小振りのどんぐり眼が覗いてこちらを見据えている。母の勤める食品会社でアルバイトをしておりましたと即答すると、他の理由を想定していたらしい他の教授たちからは、ただちに怒りの雰囲気、聞こえよがしのため息や舌打ちが返ってきた。
自己防衛の本能によるものなのか、見栄のためなのか、そこでわたしは咄嗟に「すみません、じつはそれだけではないのです」と言ってしまった。口から出まかせとはいえ、言葉にしてしまった上は、先方の「ほう、それは何かね」と聞き逃してはくれなかった重い空気の中で、それをどこかに軟着陸させる必要に迫られたのだった。
はい、確かにバイトも忙しかったのですが、じつは僕、近々「醤油から水を取り出す」というタイトルの本を出版することになっていまして、その執筆のために時間を費やしていたのです。タイトルは「不不動産」でも「焚きつけにはなる原油」でも何でもよかったんですが、世の中には順番というものがあるので、いちおうアスキー順で。
僕は小説を書くなどというのは初めての経験で、それどころか、小論文すらまともに書いたことがないので、自分で文章を生み出す行為、つまりモチベーションを高め、万年筆を握り、原稿用紙の升目にインクを垂らして文字を並べていく行為を、見よう見まねで続けたところで、とてもぎこちなく感じたものです。僕も人並みに、ひらがな、カタカナ、漢字、アラビア数字、それから獣のような声を出して表現する外国の言葉などは、程度の差こそあれ、ひと通りは習ってきました。ただ、真名と仮名を合わせて二千ばかり、それにいくつかの数字やアルファベットを準備して、さあ書くぞという段になって、ペンが動かないのです。これは他の方も多く経験なさっていることかもしれませんが、ひとつひとつの文字を個別に扱っていては、どう吟味してつないだところで、意味の通る文章にならないのです。いや、本当は努力すればできるのかも知れませんが、それは畢竟、単語を創作する行為にも類似しており、本を書きたいという一事のために、すべからく課される試練とは思えないのです。
しかたがないので、僕は妥協して、単語と成句を用いることにしました。もとより文字を使おうという初めの決意も、いうなればページに文字を綴ったところの書籍という形式に背馳しないための妥協なのでありまして、元来物語創作の本意は語り聞かせることにあり、口唇や口腔内の音によって聞き手とともに満足を得るものではないかと思っています。文学とは文字という頸木があってこそ美しく咲いた花ということなのでしょうか。それはともかく、僕はそれらを用いると自分で決めたのですから文句は言いません。覚悟はできています。文字を組み合わせてまずまずの意味を持たせた、少なく見積もっても数十万にものぼる語彙というものと正対することになったのです。単語の部分集合というのか、ライブラリーというのか、ともかく人任せで提供してもらうとこれほどまでの数になるものかと、広辞苑第二版二千三百ページの任意の部分で割って開くたびに、ため息をついていたのでした。
ところがそれ、もともとが部分集合ならば、その一部から選り抜いたものを集めたものもやはり部分集合であり、蛙の子は蛙、親の因果が子に報い、自己相似的な言葉のマンデルブロ集合ならば、部分は全部を装うことが可能なのであり、それはもうすぐ二十二歳になる僕の手による抽出によるものでも同様です。知っていることと知らないことの区分けを意識することで、それは僕の生活や読書歴を色濃く残すサブセットとなったわけです。この部分集合には僕の名前をつけてもいいはずです。これからさらに部分を選んで重複を許した組み替えを行えば文章の叩き台となるものは出来上がるはずだと思いました。これはいわば工房のラインから出てきたばかりの、荒削りで重く余熱のこもる半製品ですから、のちに磨かれるのか、それとも鞭で割られるのかは、その後の推敲によって決まります。その判定は、工場出荷の一秒前まで続けられるでしょう。文章を作るというのは、こうしたフローの繰り返しのことであろうと想像できたのです。
ところが、うまくいきませんでした。うまくいかないときにも時間はかかってしまいます。もちろん文章は書けたのですが、誰も褒めません。ためしに友人に読んでもらったのですが、反応はひどいものでした。三人三様のはずがまさに三人三様、身体が痒くなるだの、誤読をしそうで読み辛いだの、同じような文章を書いてしまいそうで迷惑だのと、気味の悪い感想ばかりを並べ立てるのです。そして一様に、「もっと本を読め。読まずに書こうとするな。ていうか、読んでも書くな」との助言を寄越しました。僕も馬鹿ではありませんから、彼女たちの言っていることはわかります。おそらく彼女らは、自分たちがこれまで読んだことのあるような、ないしは読んだかも知れないと思えるような、そんなフレーズが含まれていない文章は読みにくいと感じるのです。読者は文字を目で追いながら、直前に目にした句が放つ雰囲気を、数十分の一秒というごく短い間にせよ保持しているため、次の語には、あまりに空気の違うものを持ってこられては戸惑うのでしょう。早い話がこういうことです。端折るべきところは端折れ。メタファーや比喩は彼我で合意済みのものを使え。「独断と偏見」も「氷山の一角」も「国民不在」も「ふれあい」も「(?)」も、使用に躊躇するなかれ。他、と。
友人たちは僕の書いたものを読んでくれなくなりました。というのは、草稿を渡した数日後にどうだったと聞いても、トンチンカンな感想しか返ってこなくなり、まともに読んではいないことがわかるのです。読んだけど内容を忘れた、などと言う者まで出て、そうなると僕も面白くなく、やはり方針を間違えたかもう少しインパクトのある方がよかったのかもと真剣に反省し、人生の再出発のごとき気概をもって新たに認めた原稿を、さりげなく彼女らの学食のプレートの下に敷いたり、バッグに詰め込んだり、無理やり小脇に抱えさせたり──持参した菓子折りなどを形式的に押し返してくる相手に大人たちはよくそうしていた──してみるものの、もらった側はその中身を知るや、まるで僕が砂糖と食塩を渡し間違えたかのような、もはや文物に対する扱いには似つかわしからぬ大仰な振る舞い、その被害者然たるはきはきした物言いが、作者の気持ちをさらに沈ませたのでした。
今回の経験から、作文においては「決まり文句」というものが想像以上に重宝されていることを知りました。パソコンの黎明期から続いているアプリケーションソフトのひとつに、代筆を標榜するものがあります。決まり文句のサンプルを多数搭載しており、それらを組み合わせることで、ビジネスや冠婚葬祭、時節の挨拶などの用途に向けた最適な文章を出力するというものです。用途の絞込みや組み合わせの方法は、ソフトとの対話形式で行います。他人に読ませたくない文章を作るには重宝するでしょうが、僕には無縁のものでした。
僕は副詞が苦手です、というより嫌いです。現在完了進行形で嫌いです。有害ですらあると思っています。副詞の有害性は、「文章にとって副詞はときに有害である」といった、再帰的な一文からも容易に体感できるものです。一切の使用を避けるとまではいきませんが、お行儀のよくない品詞として冷ややかに見ているのです。思うに副詞や慣用句は、作文を料理になぞらえてみれば、市販の醤油のようなものではないでしょうか。醤油であれ秘伝のたれであれ、過去の自分を含めた他人というものが作り置きをしておいたものであって、塩と胡椒だけを両脇において素材に挑もうとする料理人なら、手を伸ばすべきものではないと思っています。それらを使うと、以後その味に隷属するような気がしてならないのです。醤油が必要なら自分で作る。既製品に依存するのを嫌がる気持ちからです。清明な水と食塩と、それから自分で挽いた胡椒で、ともかく自分の味付けというものをしてみたい。僕は副詞を多用した濁ったスープを見てきました。おいしかったとしても、それに憧れることはできないのです。
僕は自分のやりたいようにすることに決めました。醤油は水分を含みますので、そこから真水を取り出すことには意義があることです。とても時間のかかる作業でした。そうやって僕は文章を作る過程で成句や副詞が頭に浮かぶごとに、プチプチと潰れるものは潰しながら、別の文字に置き換えていきました。友人たちは僕の顔を見るなり逃げ回るようになりましたが、もうどうでもよくなりました。先に申しましたアルバイトをしている時間の他は、専らこの作業に費やしていたのでした。
そこまで言ってからわたしは黙り込んだ。話が終わったことを示したのだが、軟着陸だったかどうかは怪しかった。出版の経緯や本の内容を尋ねられたら、守秘義務が課せられていて話せないと答えるつもりだったのだが、杞憂に終わった。
室内が静まりかえったあとも、老教授は眼鏡をずり下げてこちらを見つめたままだったが、もしやこの人、目を開けたまま眠り込んでいるのではあるまいかと、思い始めた矢先のこと、皺だらけの頬が動いて、年寄りにしては甲高いしわがれ声が伝わってきた。
──では聞くが、その彼女ら、というのは具体的に誰のことなのかな。
ちゃんと聞いていやがった。わたしの不得手な分野に振ってきたのでまずいとは思ったが、むろんそんな素振りは見せない。話を請け負うつもりをしたのだが、例によってマフィアがしゃしゃり出た。
──まあ、しかしまあ、どちらにしてもわれわれを納得させる理由にはならないわな。お父さん。お父さんは、どう思われますか。
老教授の質問を遮ってくれたのはいいがこのマフィア、この期に及んで目の前の五十男の実態が理解できないのか、それとも居眠り半分だと勘違いして咎めるつもりだったのか、父の方に話を向けてしまった。
──ううん、まあ、そうですなあ。
父は、過去の経験からすれば、わたしの話のこの長さだと、後半の三割ぐらいしか頭に残っていないだろうと想像できた。半世紀を生きてきて、スピーチでも、文章でも、人生においてでも、後半の何割かにこそ意味があると信じているのだ。
──皆さんにご迷惑をかけているのは事実ですが、ま、息子なりに苦手な分野を避けようとするんではなく、正面を向いて取り組んでいると。まあ学業に遅れがあるのもそれが原因であるなら、親としては徒に突き放すのではなく、見守る方向でと……。
父の声を聞きながら、狭い額に横たわる濃い眉をさらにひそめ、言葉を重ねようとするマフィアをまさに制する形で、中華の謝さんが割って入った。
──ねえ中川さん。じつは我々の腹はすでに決まっているんですよ。もう理由がどうのこうのという段階じゃない。きょうのこの集まりがこのまま散会という形になれば、冒頭で谷岳君が言った処分は避けられません。息子さんは大学にはいられなくなります。ですからね……。
臼井教授は、白衣を揺らして何度も大きく咳くと、しばらくして言葉を続けた。
──……で、もしそれを避けたいとお思いなら、あなたがたの方から積極的に申し出てほしいんですよ。我々は、別段それを期待しているわけではありませんが、例外的にどうしてもと仰るなら、息子さんが今後学生の本分を全うするという意欲と覚悟があるなら、この場でその誓いを立てられるなら、息子さんの放校処分について、教授会で反対意見を一本入れることに躊躇するばかりとは限りませんよと、こういうことです。
──あ、そういうことでしたらそれはもう、わかりましたです、はい。
いったいに父はこういう場合、聞いた内容を理解したことと、内容について合意したということの違いをわかっていないようにも見える態度なのだ。ふたつ返事で請け負う様子を軽々しいと思ったのか、教授たちの席からは膿のような溜息が伝わってきた。が、この聴取を終わらせたいという意思に勝るものは、もはやなさそうだった。
このときマフィアがわたしに視線を合わせた。マフィアの目が何かを語っている気がした。この人には、わたしと同い年くらいの息子がいるのではないかとの思いがよぎった。二年前のあの入学辞退者、あれがそうだったのか。いやいや、現実というやつは生半可ではない。じつはこのマフィアは医学科の教授を装ってはいるが、その正体は教授につきまとう患者であるのだが、事情があって重症化を避けるために周囲から好きにさせてもらっているのだ、としても別段おかしくはない。などと遊んでいるうちに、わたしの方にお鉢が回ってきた。裁判においては、被告はすなわち主役なのである。
──それで君自身はどうなんだ。皆さんの前で約束できるのかね。本来なら君がここまで来てひざまずいて誓うべきほどの事態なんだよ。今後きちんと授業には出る、試験は受ける、もちろん受けるだけじゃだめだ、及第点がいる。そして授業料はきちんと納付する。あたりまえのことばかりだがね。どうなんだ。
マフィアの言葉に、放心したようにわたしは頷いた。と見られていたのだろうか。自分に都合の悪いこのあたりの事情は記憶に薄い。何かを言葉にしたのかも知れないが、それも定かではない。
──じゃあ、そういうことで。詳しい指示は追って連絡する。きょうはこれでお開きとしよう。先生方よろしゅうございますか、どうもお疲れ様でございました。
まだ何か言い足りない様子のマフィアにかぶせて仕切ったあと、谷岳氏は父に向かってどうもご足労でしたとポツンと言った。記憶のうちでは、エジソンは最後までひとことも発言しなかった。
いっぺんに空気が入れ替わったように、室内の人間の表情や仕草が青青としてきた。父の方に目を向けると、何の意味があるのか、深刻そうな様子で頷き返してきた。
──中川くんよ、教授がたに頭なんか下げてみたらどうなんだろうねえ。
谷岳氏がそばに来て耳打ちした。ペーパーをチャッチャッと揃え、音を立てて椅子から立ち上がろうとしていた四名の教授たちの前に進み出ると、わたしは深々と頭を下げ、ありがとうございましたと声を添えた。そんな行動は平気でできた。体を曲げながら右脇の下から後ろを覗くと、やはり膝に手をあてて腰を折っている父がいた。初めて申しわけないという気持ちになった。と同時に、父に対する彼らのサディスティックな志向を改めて感じずにはいられなかった。
教授たちがほのぼのと部屋を出たあと、ドアの前で、わざとらしくI先生が手を差し出してきた。手を揺らさずに左手を添えて握りながら、頑張れよ、と小声で言ってくれた。先生の右手は熱かった。はい、と力なく答えたあとで廊下に出たわたしは、右手のひらを鼻の前にかざした。握手のあとでは、においを探す癖がついていたのだが、それはなかった。
エピソード記憶があったあとの時間の進行は速く感じるものだ。してみると先の会合も、わたしには衰えにくい鮮明なイベントだったと言うべきものなのだろうか。
さて、あの場で確約がなされたと考えることもできるのだが、その言葉はわたしの心には、父が勝手に書いた誓約文のようにプリントされており、血肉を穿つものではなかった。要するに、わたしはひとつも直っていなかったのだ。
相も変わらず、自室の机で味噌を絞って水を取り出していると、居間の電話が鳴った。案の定、谷岳氏だった。
──おい、君な、中川くん。あれから全然授業に出てないそうじゃないか。どういうつもりか。教授と約束したんだろうが。怒ってるよ教授。
怒っているのは臼井教授やマフィアではなく、電話してきた谷岳氏本人だろう。しかしこの時点でも、まだわたしは曖昧な態度を取り続けるつもりだった。
──理由を言いたまえ。授業に出なかった理由は何だ。
だが追い詰められて逃げ場がなくなると、使う言葉も剥かれて地金が現れてくる。
──大学に戻る気がないからです。
──なんだそりゃ。……はん、それならそれでこっちはいいんだよ。ただ手続きというものがあるからね、世の中には。そんな勝手なことじゃいかんだろう。
戻ると戻らないに関係なく教授との約束は守るべきだったんじゃないかとか、これまで学務係の方としてもこの件でいろいろと段取りを整えてきたのだ、などと語ったあとに、谷岳氏は聞いてきた。
──留年じゃなくて辞める方なんだな。それしかないわな。どうするんだこれから。
──答える必要があるんですか。
ドラマで何度も聞いた台詞だった。吸引器に吸い出される膿疱のように、ほろっと出た。
──そういう態度な。そうか、それはいかんなあ。そういう態度は君のためにならんよ。
──どのみち、今後大学とはかかわりを持ちませんので。
──だからそういうときの態度を言ってるんじゃないか。辞めるとなったら何を言ってもいいなんてことじゃないんだよ、世の中は。
──あの日。ほら、初めて谷岳さんから補欠合格のお電話をもらったとき……。
──何が、ほら、だ。君の態度は全般によろしくない。そんな態度でこれから世間に関わっていけると思っているのか。大間違いだ。
──電話があったのは三月の二十八日の午前十一時。よく覚えています。でも学務係のあなた方が欠員が出ることを知ったのは、遅くともその前日、二十七日の午前のはずです。なぜなら……。
──あくまで今後の君のためを思って言ってるつもりなんだがな。
──なぜなら、三月二十日、入学手続きを済ませた入学予定者のひとりが交通事故で死亡したからです。
話している前後で、口の中にどくどくと唾液が溜まってきて、そのたびに飲み下さなければならなかった。
──交通……死んだ? 何を言っとるんだ。それから君な、授業料を滞納してるな。前期も後期もだ。知らないだろうから言っといてやるが、このままじゃ退学にはならんよ。除籍になる。半期分だけでも授業料を入れてもらわないと、こちらとしては退学届を受理できないんだよ。
──僕が言っているのは増村教授の息子さんのことです。
わたしはマフィアの名前を出した。舌の裏側に唾が充満してくる。
──だから増村がどうしたというんだ。何をわけのわからないことを言ってるんだ、さっきから。
──あなた方は欠員の穴埋めに正規の方法を採らなかった。学部ぐるみで画策し、あの年の医学部入試に落選した増村教授の息子さんを繰り上げ合格させようとした。しかし、彼の得点は合格最低点の次点ではなく、少なくとも僕よりは下だった。増村教授はそのことを知って息子の補欠合格を辞退、というより正規の方法でいくべきだと主張したのです。翌年息子は実力で堂々と入学してきます。僕の同級、つまり僕より一年後に入学した学生に、増村明生というのがいるでしょう。彼が当人です。そしてこのごたごたで僕の側への連絡が正規の手続きによる場合よりも半日以上遅れ、そのせいで……。
下顎に溜まった唾のせいで話しづらいのに加えて、涙まで出て止まらない。最後は嗚咽で言葉にならなくなった。
──そのせいで僕の母は死んだのです。
静寂のうちに嗚咽だけが流れた。電話の相手はしばらく無言でいたが、やがてどちらがともなく発音をしはじめ、会話は再開したが、谷岳氏は当然ながら電話を切りたがっていた。
──何を言っているのかよくわからんが、まあ、ともあれ、君の側でそういう方向ならこちらとしてもその腹積もりでいるから。是の非のは言わんが、退学するつもりなら、半期分の授業料をすみやかに納入したまえ。それから教授たちに謝りには来るもんだよ。
谷岳氏は回線を切る直前に、ひとこと言い残した。
──やけになるんじゃないぞ。
けっ、言いやがった。
光が溢れ、空が青い。
いまを幸福だと思うことは、過去を全肯定することが必要条件となるのだろう。その認識がある限り、何かひとつでも欠けていたらと思うことは、その対偶であり、不幸の実感なのか。
ゲートが再開し、人が固まってできたエントランス広場の三角形が鋭角になってゆく。
「ねえ、ちょっと早いけど、先に何か食べてようか。入りそう?」
昼の混雑を避けようとしてなのか、ゲートを通過するとすぐに妻はそう告げた。ん? ん? とこちらを軽く振り向いただけで、妻と息子はとくに返事も確かめることなく、園内のレストランに早足で向かっている。トロンボーンの音がひときわ大きくなった。
「ああ、いいよ」
うしろから、声を出さずにそう合図した。もう決めていることなら、同意するにやぶさかではない。自分のひと言が、ひと言でさえが、運命を変える力をもっている。自分だけでない、この世のすべての人が、森羅万象が。
家族の背中を見ながら、自分は幸せなのかともういちど問うている。そして将来から見た『いまこのとき』は、全肯定の対象となりうるのだろうかと。
「あのさ、俺」
「なに……全然聞こえない」
なんとなく出た声にも妻はとりあわず、息子とふたりでレストランの大きな扉を引こうとしている。自分はそれに手を添えようと駆け寄った。
青く遠い十二宮の真下である。
了
9月30日、いくつかの間違いを訂正しました。