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『今夜、この水槽からいなくなる君へ』──あるいは、賞味期限切れの形而上学

作者: 月見酒
掲載日:2026/02/15

この物語は、水槽という名の「閉鎖された論理空間」の記録です。

我々は常に自分の存在に意味を求めたがりますが、世界はそれを「献立」程度の解像度でしか見ていない。

あるいは、献立にすら入っていない。

そんな、少しだけ生臭い思考の断片をお楽しみください。


 平日の午後二時の水族館は、死後の世界によく似ている。

 無機質なポンプの音が、心臓の鼓動に代わる唯一の律動として空間を支配している。青白いLEDの光は、水の粒子を透過する過程でその温もりを完全に剥ぎ取られ、水槽の底に沈殿する生き物たちに、ただそこに「在る」ことだけを冷徹に強いている。

 僕が手に持ったバケツの中には、解凍されたばかりのオキアミが、かつての生命の輝きを一切失った無残な肉片となって詰まっている。指先に触れるその感触は、死後数時間を経過した死体の体温そのもので、不快なぬめりが爪の間にこびりつく。新人の飼育員として、僕に与えられた唯一の特権は、この死骸を別の死へと繋ぎ止めるための、あまりに単調で、かつ一方的なルーチンワークを遂行することだけだった。

「……ねえ、君。その撒き方は、少しばかり統計学を軽視しすぎているんじゃないかな。右側で停滞している彼。さっきから一粒も摂取できていない。彼は今、自分がこのシステムから除外されたのではないかという、極めて深刻な実存的不安に陥っているよ」

 声がしたのは、眼前の回遊水槽からだった。

 僕はバケツを落としそうになりながら、分厚いアクリルパネルに鼻を押し当てるようにして覗き込んだ。そこには、一匹のアジがいた。標準的な体長、標準的な鱗の光沢。しかし、そのビー玉のように濁った眼球だけは、明確に僕の視線を補足し、逃さなかった。その眼球の奥には、知性というよりは、腐敗しかけた怨念のようなものが、どろりと淀んでいる。

「アジが……喋ったのか?」

「正確には、君の脳内にある言語野に直接、私の鱗が反射する光信号を変換して送り届けていると言ったほうが、君のような論理的潔癖症には伝わりやすいかな。要するに、暇なんだよ。エラ呼吸以外にやることがない人生の虚無を、君は想像したことがあるかい?」

 アジは、エラをゆったりと、機械のピストンのような正確さで動かしながら続けた。

「紹介しよう。左の方で気泡を追いかけ、自分の尾びれが生み出す乱気流に陶酔しているのが、俗物の極致、サバ君だ。そしてあちらの隅で、個としての意志を放棄し、巨大な銀色の不定形生物へと擬態しているのが、集団心理の奴隷、イワシの皆さんだ」

「ちょっと、アジさん! 人聞きが悪いですよ!」

 横から、弾丸のような速度でサバが突っ込んできた。彼はガラス越しに僕を凝視し、その不自然に発達したように見える胸びれを小刻みに震わせた。その震えは、まるで中毒者が禁断症状に耐えているかのような、生理的な嫌悪感を誘う動きだった。

「私は俗物じゃない。私は、この水槽内の酸素濃度と、来館者が一秒間にアクリルを指で叩く回数の相関関係を、独自の回帰分析で導き出そうとしている、知的なサバなんです! 私は、自分の脂の乗りが、この閉鎖空間における唯一の絶対的な経済指標であると確信している! 見ろ、この背中の青。これは、君の月給の三倍の価値がある色彩だ!」

「私たちは……私たちは……」

 背後でイワシの群れが、銀色のカーテンが風に煽られるような音を立てて囁いた。その声は、一万個の濡れた雑巾を一度に絞ったような、湿り気を帯びていた。

「私たちは……今日、掃除に来た……おじさんの……左の鼻穴から覗いていた……三本の鼻毛の……平均的な長さを……センチメートル単位で……算出した……。あれは、人類の退化の……象徴だ……。私たちは……それを……カウントすることで……世界を……測っているのだ……」

 僕は、こめかみを強く押さえた。指先に伝わる脈動が、目の前の光景を現実だと認めろと強要してくる。緻密に、そして正確に現状を把握しようとする僕の脳が、この過密な不条理を拒絶し、処理落ちを起こしそうになっていた。

「待て。君たちはただの魚だ。僕に飼育されている、言葉を持たないはずの、食用に適した脊椎動物だろう? なぜそんな、無駄に高度な言語体系を持って、鼻毛なんて数えているんだ」

「飼育、か。実に人間らしい、傲慢で甘美な誤認だね。その言葉を吐く時、君の喉仏がわずかに震える。支配欲に酔っている証拠だ」

 アジが、数千年の孤独を経験した哲学者のような、それでいて街角の浮浪者のような薄汚い眼差しを僕に向けた。

「君は僕たちを管理しているつもりかもしれないが、僕たちからすれば、君はガラスの向こう側で決まった時間に、決まった質量のアミノ酸を運んでくる、歩行型の外部給餌デバイスに過ぎないんだ。君の意思など関係ない。君の代わりに、首に名札を下げたサルが来ても、我々は同じように餌を待つ。さて、システムの一部として組み込まれているのは、果たしてどちらかな? 餌を待つ我々か。それとも、魚の言葉に怯えながらオキアミを撒く君か」

「理屈をこねるな! アジが僕を定義しようとするな!」

「自慢じゃないがね」と、サバが再び割って入った。彼は水槽の中で優雅な円を描き、自身の体側に走る青い稲妻のような紋様を誇示した。その動きはもはやダンスではなく、自己顕示欲の塊による痙攣に近かった。

「私は、あのアジさんみたいに根拠のない虚無に浸って、水槽の底の砂粒を数えるような真似はしない。私は常に、自分の『出口戦略』を意識して泳いでいる。私のこの輝き、この筋肉の締まり。これを卸値で換算すれば、おそらく隣の水槽のペンギン一羽分に相当するはずだ。私は選ばれし個体であり、私の終着点は、この安っぽいプラスチックの海ではない」

「……出口戦略だって? 君、自分が最終的にどうなるか、その『論理』の行き先を本当に理解しているのか? まな板の上だぞ」

僕が冷めた声で問い返すと、サバは小馬鹿にしたように口を歪めた。その口元から、小さな気泡が、嘲笑のように漏れ出た。

「分かっていないのは君の方だ、給餌デバイス君。価値があるということは、それだけ丁寧なプロセスを経て、上位の存在へと統合されるということだ。おそらく私は、数時間後には銀色のトレイに恭しく横たえられ、スポットライトを浴び、熟練の職人が振るう鋼の刃によって、一切の無駄を削ぎ落とされた『芸術品』へと昇華される。それこそが、高付加価値なサバが辿るべき、論理的で美しい終末だ。私は、汚い胃袋に収まるのではない。誰かの血肉という名の、歴史の一部になるのだよ。分かるか? これは昇天だ」

「私たちは……私たちは……」

イワシの群れが、水槽の隅で渦を巻きながら、湿った紙を擦り合わせるような声で予言を紡ぐ。

「私たちは……知っている……。サバ君の行く先は……芸術ではなく……バイオマスの……一部……。あるいは……三枚におろされた……後の……血生臭いバケツ……。内臓と共に……捨てられる……憐れな……副産物……」

「うるさい! 静かにしてろ、集団思考の残骸ども! 貴様らのような、個の識別すら不可能な塵芥と一緒にされる筋合いはない! 私は単体で評価されるべき、高貴な青魚なんだ!」

サバが激昂し、水槽内を狂ったように旋回した。そのたびに発生する強力な水流が、アジの静止した身体を無慈悲に翻弄する。しかしアジは、姿勢を崩すことすら面倒だと言わんばかりの平坦な、どこか投げやりな声で付け加えた。

「やれやれ、これだから若くて脂の乗った連中は困る。サバ君、君は世界に『意味』を求めすぎているんだ。我々がなぜここにいるのか。なぜ人間に見られているのか。そこには高尚な理屈も、宿命的な必然もない。ただ、市場に需要があり、輸送コストが見合い、たまたま死なずにここに届いた。それだけの、ゴミのような物理的蓄積だ。君がどれだけ緻密に自分の卸値を計算したところで、結末は胃袋という名の暗黒物質に呑み込まれるか、あるいはもっと虚しい、ただの『廃棄』だ。我々は、生きたゴミなんだよ」

「哲学的なレトリックで私を貶めるな! 私の脂は、君のそのスカスカで安価な、カマボコの原料にしかならないタンパク質の塊とは、本質的な次元が違うんだ!」

 僕はバケツの取っ手を、白くなるほど強く握りしめた。

 新人研修のマニュアルには、魚の健康状態のチェック項目はあっても、彼らが展開する形而上学的な議論や、鼻毛のカウントを阻止する方法は一切記されていなかった。僕は僕の職務を全遂行するために、この論理の暴走を止めなければならない。

「……もういい。僕は仕事に戻る。君たちが何を考え、どれだけ高尚な自己定義をしていようと、僕のやることは変わらない。餌をやり、水を替え、病気になれば薬を撒き、死んだら網ですくい上げる。そこに感情の入り込む余地はない。君たちはただの、動くタンパク質だ。喋るな。黙って回ってろ」

「冷たいねえ。でも、その冷徹さこそが君の生存戦略なんだろう? 自分の異常性を隠すための、精一杯の擬態だ」

 アジが、歪んだ嘲笑を浮かべた。

「その姿勢を貫くといい。そうでないと、明日から僕たちの顔を見るたびに、君の脆弱な良心は献立の一覧表に押し潰されることになる。……ああ、客が来たようだ。そろそろ『おバカな、可愛いお魚さん』の役に戻るとしよう。エラをパクパクさせて、君に愛想を振りまいてやるよ」

 そこへ、平日の静寂を切り裂くように、一組の親子が水槽の前へやってきた。

 三歳くらいの、頬の赤い、しかしどこか残酷な好奇心を宿した男の子が、小さな手のひらをアクリルパネルに力いっぱい押し当てた。その衝撃で、水槽の魚たちが一瞬だけびくりと震える。

 さっきまで宇宙の真理や市場価値、統計学的鼻毛計測について喚き散らしていた魚たちは、その瞬間、呪いが解けたように沈黙した。アジは虚空を一点に見つめて硬直し、サバは意味のない優雅な円を描く、単なる「よく泳ぐ魚」へと退行した。イワシの群れは、ただの光る粒子となって、本能だけに従う流体へと姿を変えた。

 彼らは「思考する主体」から、一瞬で「鑑賞される客体」へと切り替わった。そこには哲学も論理もプライドもなく、ただ観察されるための肉体があるだけだった。

「わあ、お魚さん! キラキラしてる! パパ、見て、あのアジさん、こっち見てるよ! お目々が面白いよ!」

 父親が、息子の隣にゆっくりと腰を下ろした。彼は高級そうなスーツを着こなし、いかにも効率と論理を重んじるビジネスマンといった風情で、水槽の中を冷徹に、しかしどこか品定めするように眺めた。その視線は、魚を生命としてではなく、グラム単位の価値として、あるいは「週末のレジャーの費用対効果」として正確に測定していた。

「本当だね。いいアジだ。これだけ活きがいいのは、管理が行き届いている証拠だよ」

 父親は、僕の方を一度だけ見て、社交的な笑みを浮かべた。その目は、僕という人間を「水族館の維持機能の一部、あるいは背景のテクスチャ」として正しく識別していた。

 父親は再び水槽に視線を戻し、アジと、その横を猛烈にアピールするように泳ぎ去ったサバを交互に観察した。

「そういえば、今夜の夕食の予約、どうしようか。ママは和食がいいって言ってたけど」

 父親は、バッグからスマートフォンを取り出し、手際よく画面を操作し始めた。

「……ああ、この近くに有名な鮮魚料理店があるな。旬のアジのなめろうと、サバの味噌煮が絶品らしい。よし、予約を入れておこう。今夜は君の好きな、美味しいお魚を食べに行こうね。彼らに感謝しながら、しっかり噛んで食べるんだよ」

「わあい! あじ! あじがいい! 僕、アジさんをムシャムシャする!」

 子供が歓声を上げ、ガラスを叩く。その振動を受けて、アジの身体がわずかに揺れた。

 僕は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。アジが言っていた「結末」が、今まさに、この親子の日常という名の巨大な歯車に噛み合おうとしていた。サバが求めていた「芸術品としての昇華」が、予約アプリの一タップで確定した。彼らは救われる。食卓という名の祭壇で、彼らの存在は「味」としてようやく肯定されるのだ。

 しかし、不条理の神は、それ以上に冷徹で、そして気まぐれだった。

 父親が予約ボタンを押そうとしたその瞬間、スマートフォンの画面が赤く点滅し、軽薄な通知音が鳴り響いた。

「……おっと。悪い、予定が入った。取引先の社長から連絡だ。今夜は急遽、接待を兼ねたイタリアンに変更しなきゃいけなくなった。ここは一気に攻めどきだからな」

「えーっ! お魚じゃないの? アジさんは?」

 子供が不満げに頬を膨らませる。父親は苦笑しながら、スマートフォンの画面をさらに高速で操作し、魚たちの命の予約を無慈悲にキャンセルした。

「ごめんね。でも、その社長、魚が苦手なんだよ。特にアジやサバみたいな、青魚の匂いが大嫌いでね。……よし、駅前の高級イタリアン、予約完了。あそこなら最高級の牛フィレ肉が食べられるぞ。魚なんて、明日どこかのスーパーで買った、誰が釣ったかも分からない冷凍のフライでも食べればいいさ。な、今日は肉にしよう。肉の方が力がつくぞ」

「おにく……。うん、おにくもいい! 牛さんの肉!」

 子供の興味は、一瞬で魚から肉へと移り変わった。

 父親は立ち上がり、子供の手を引いて歩き出した。

「さあ、行こう。魚なんてずっと見てると、なんだか生臭い気分になってくるしな。鼻が馬鹿になりそうだ」

 親子は、一度も振り返ることなく、水族館の出口へと向かっていった。

 嵐が過ぎ去った後のような、耳が痛くなるほどの静寂が、再び水槽を包み込んだ。

 アジは、さっきまで子供が手を当てていた、手の脂で白く汚れた場所に、ゆっくりと近づいていった。そして、再び僕と目を合わせた。その瞳には、さっきまでの冷笑も、悟りも、もはや残っていなかった。そこにあるのは、ただの「空虚」だった。

「……聞いたかい、給餌デバイス君」

 アジの声は、ひどく掠れて、今にも消えそうだった。

「僕たちは、なめろうにすらなれなかった。サバ君は、三枚におろされる名誉すら与えられず、ましてや芸術品として飾られることもなかった。私たちは、イタリアンの肉料理という『別の論理』に、その存在価値を、その死の尊厳を、根底から粉砕されたんだ。殺してすらもらえないんだよ」

 サバは、水槽の底の方で、力なく漂っていた。彼の誇っていた青い輝きは、もはや死んだ魚のそれと区別がつかなかった。腹を上にして浮く勇気すらなく、ただ、流されるままに身体を丸めている。

「イタリアン……。牛フィレ……。私の卸値は……肉の部位名に……負けたのか……。私の、私の統計学は、牛の脂身以下のゴミだったというのか……」

「私たちは……私たちは……」

 イワシの群れが、もはや声にならない、ただの水圧の変動を伝える。

「私たちは……最初から……存在すら……していなかった……。今夜の献立の……選択肢にすら……入っていなかった……。私たちは……透明な……肉の塊……」

 僕は、手に持っていたバケツを床に置いた。

 彼らは食卓に上がることはない。殺されることもない。ただ、誰にも顧みられないまま、この青白い光の中で、明日も、明後日も、実存的な不安を抱えながら、単調なルーチンの一部として「在り続ける」ことを強いられるのだ。死すら、彼らにとっては贅沢品だった。

 それは、死ぬことよりも、あるいは食われることよりも、ずっと滑稽で、ずっと緻密な地獄のように見えた。

 僕は、ポケットから自分のスマートフォンを取り出した。

 指紋で汚れた画面を眺め、今夜の自分の、空っぽな胃袋を満たすための食事について考える。

 画面には、コンビニの、期限切れ間近のクーポンが表示されていた。

「……今夜は、アジフライ弁当にしようかな」

 僕が独り言を漏らすと、水槽の中の三匹が、一斉に僕を射抜くような視線で見た。それは懇願であり、呪いであり、そして救いを求める叫びのようでもあった。

「冗談だよ」

 僕はそう言って、彼らに背を向けた。

「アジフライは、昨日の夜に食べたんだ。……ソースの味しかしなかったけどね。君たちの哲学なんて、その程度で塗り潰せる程度のものなんだよ」

 背後で、アジが何かを激しく叫んだような気がしたが、それは気泡が弾ける音にかき消され、僕の耳には二度と届かなかった。

 午後三時。水族館の閉館時間は、まだ遠い。僕はオキアミのついた手で、鼻を強くこすった。生臭い匂いが、いつまでも消えなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

当初は「アジが食卓に上がる」という予定調和な結末を想定していましたが、観測を続けるうちに、彼らには「食われる権利」すら与えられない方が、より現代的な悲劇(あるいは喜劇)に近いと感じ、このような形に落ち着きました。

今夜、皆さんの食卓に並ぶものが、誰かの緻密な哲学の残骸でないことを祈ります。

……まあ、アジフライは美味しいですけどね。

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