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いつもと違う朝にはいつもと違うことを

掲載日:2026/01/30

 七時二十分、母親によって前輪の泥除けにでかでかと成田大輝と書かれた自転車に乗って家を出る。本来ならあと五分早く家を出るべきだった。七時十分には準備が出来ていたのにまだ余裕がある、と気を緩めたせいだ。一つの私鉄しか通っていないこの地域では通勤通学のラッシュ時である七時台でも電車は三本しか来ない。高校一年生、何の部活にも所属していない俺が朝の会が始まる八時十五分までに学校に着くには七時六分か七時三十三分の電車に乗るという二つの選択肢がある。学校へは電車で二十分、その後徒歩で十五分程掛かる。もちろん七時三十三分に乗る。無駄に早起きなどしたくはないし、学校に早く行くという無駄もしたくないからだ。俺は脚が限界に達するほど速くペダルを漕いで、漕いで、漕いだ。木見田駅に着き自転車置き場にいつもより乱雑に自転車を停める。鍵を掛けて前籠にある鞄を掴んで改札へ走る。ポケットから定期入れを出した。カンカンカンカン、警報が鳴る。遮断機が下り始める。俺が乗る上りは向こう側のホームへ渡らなければならない。駅員室から顔を出したおじさんに「残念」と声を掛けられた。もうどうすることも出来ない。立ち尽くし自分の乗るはずだった電車を見送るしかなかった。警報が止み、遮断機が上がる。一つしかない自動改札機に定期券をタッチし、肩を落として向こう側へ渡る。ベンチに座って七時台最後、七時五十七分の電車を待つ。あと二十四分もあるのか。ため息をついて空を見上げる。十月の空は心地が良い。夏のうだるような暑さをもたらす入道雲も消え、まっさらな青い色をしている。ああ、空は綺麗だってのに、俺は遅刻するのか。そういえば遅刻をするのは生まれて初めてだ。休んだことはあるけれど遅れて教室に入るってどんな気分なのだろうか。こんなことを考えたのも初めてだ。取り敢えず遅刻する旨誰かに伝えたほうが良いだろうと俺はポケットからスマホを取り出す。同じクラスの戸川が良いだろう。戸川は高校に入り一番に友達になった。俺の前の席に座り、いつも振り向いては俺にどうでもいい話をするので俺もどうでもいい話をするようになった。戸川に「普通の人間は一本電車に乗り遅れたら遅刻するしかないみたいだ」とどうでもいい話を混ぜてメッセージを送る。すぐに「お前が空を飛べたら遅刻なんてしないのにな。了解。」と戸川から返信がきた。戸川もまたどうでもいい話を混ぜていた。恐らく朝の会で担任に伝えてくれるだろう。スマホをポケットにしまい、今頃七時三十三分発の電車内はどうなっているだろうかとこれまたどうでもいいことに考えを巡らせる。いつもとにかくぎゅうぎゅうで滅多に座れない。けれど稀にチャンスに恵まれる時がある。たまたま掴まった吊り革の前の席に座っているのが自分より前の駅で降りる人だった場合だ。大体の人が大きな駅やその前後の駅で降りる為、そうではない人のことはみんな覚えているのだ。今日も誰かがそのチャンスを掴み取りほっと一息ついているだろう。そんな状態の電車の一本後はどうだろうか?会社や学校の場所、始まる時間によっては一本後でも間に合う人もいるだろう。この駅にはどれくらい人がいるだろうか?俺は周りを見回す。いつもの時間より少ないが人はいる。だったら一本後でも多少は人が減っても混んでいるのではないか?けれどいつもここから乗る人がそんなにいないので参考にはならない気もする。混んでいるか、空いているか、賭けよう。俺が負ければ戸川にジュースを奢る。カンカンカンカン、警報が鳴り、遮断機が下りる。もうすぐ電車が来る。さあ、どうする。束の間、頭の中をごちゃごちゃと考えが走り回る。よし、決めた。俺は混んでいるほうを選んだ。目を閉じる。風が流れていく。プシューッとドアが開く音がして目を開けた。

「なるほど」

 俺は足を踏み出す。

 三両編成の真ん中の車内には三人しか乗っていない。前と後ろの車内に目を向けるが同じような状況だった。嘘みたいな光景だ。一本後というだけでこんなにも違うのか。別の世界みたいだ。電車が発車して体が揺れる。俺は誰も座っていないシートの端っこに腰を下ろした。空いている右側に鞄が置ける。心も体も息苦しくない。静かだ。窓から入ってくる柔らかな日差しをぼんやりと眺める。今日は本当に火曜日か?日曜日の昼過ぎじゃないか?あまりにも平穏だ。ずるずると姿勢が悪くなっていく。思考が停止しかけてプシューッというドアが開く音で意識を取り戻す。駅の看板には梅川と書かれている。木見田駅から二つ目の駅だ。一つ前の駅に着いた記憶がない。目を瞑った覚えはないのに、タイムスリップしたのだろうか。いつでももう一度タイムスリップ出来そうだ。

 一人だけ乗って来た男が向かいの席に座る。見たことのある制服、いや、俺と同じ制服だ。目が覚める。姿勢を直し、顔を見る。二組の宮下颯介だ。二週間程前に行われた体育祭のクラス対抗リレーで転けて他の走者に踏まれないよう頭を抱えてコースの内側にゴロゴロと転がり足音がしなくなるまで待っていた為、クラス全員から「何してんだ!」と突っ込まれていた。それからというもの宮下は学校のあらゆる人から「何してんだ宮下」と声を掛けられていた。けれど俺は宮下と話したことがない。話し掛けようとはしたが出来なかった。俺は自分から話し掛けるのが苦手なのだ。

 俺はいつもならしないことをしてみることにした。今日はいつもとは違う。だったら俺も違う人間になってみたかった。俺は鞄を持って立ち上がりまっすぐ歩いて宮下の隣に座った。多分、いや、絶対にぎこちない動きだった。

「何してんだ宮下」

 俺は前を見たまま言う。

 宮下はゆっくりと俺を見た。

「平気、その意気、大輝」

 宮下はグサリと言葉で俺を刺す。

 宮下と同じく体育祭でのことだった。借り物競争で好きな人と書かれた紙を引いた俺は違う紙を取り直せば良かったもののパニックになってそのまま同じクラス、一年一組の小池さんの手を取ってゴールまで走り「小池さんはあなたの好きな人ですか?」なんて体育祭実行委員にニヤニヤしながらマイクを向けられてしまったのだ。追い詰められた俺は諦めて告白し、見事に振られた。それから俺はみんなに同情され「平気、その意気、大輝」というスローガンまで作られてしまった。

クラス対抗リレーで失態を演じた宮下と、全校生徒の前で玉砕した俺は学校内の有名人になった。それから俺は勝手に宮下に親近感を抱いていた。

 目を細め、ほんの少し口角を上げて宮下を見る。宮下も同じ顔をして俺を見ていた。哀れみ、という言葉がぴったりだった。

「俺なんてさ、先生達にまで何してんだ宮下って言われたんだぜ。授業中シャーペン落としただけで。学食のおばちゃんにも言われたし。うどんをこぼしてさ。それに一番嫌だったのは中学生の妹にまで言われたことだよ。家の鍵開けようとして手間取ってたら後ろからあいつが来てさ。最悪」

 宮下が吐き出す。

「俺はさ、全校朝礼で校長が長々と話した後に平気、その意気、大輝とか叫んで、みんなも何故かそれに続いてめちゃくちゃ恥ずかしかったよ。部活のランニングの掛け声にも使われたりしてさ。悔しいよ俺は」

 俺もまた吐き出す。

 体育祭の後に起きた出来事は俺達には今まで味わったことのないものだった。

「でもさ、俺達もう有名じゃなくなったな」

 宮下が窓の外をどんよりとした目で見つめる。

「ああ、そうだな」

 俺も窓の外を見る。

 三日前、三組のイケメン沢渡が雑誌に載ったことで俺達は忘れ去られた。みんな俺達に見向きもしなくなった。まるで何もなかったかのように。俺達に起きた出来事は一時の流行りであり、そんなものが終わるのは突然なんだと俺達は実感したのだ。

「「はあ」」

 俺達は大きなため息を吐く。嫌という程俺達に向けられた視線はもう俺達を捉えることはない。あまりにも自分勝手だ。

 ガタッと前の車両との間のドアが開き、俺達は目を向ける。赤く長い髪をウニみたいに固めた細身の男がやって来た。電子タバコを吸っている。ちらりと俺達を見た。そして俺達に向かってフーッと煙を吐いた。咳き込む俺達を尻目に赤ウニ男は去って行く。この車両にいるみんなが赤ウニ男を目で追っていた。ジャジャーンというけたたましい音が鳴り出しみんなの肩がビクッと揺れる。赤ウニ男がズボンのポケットからスマホを取り出した。

「もしもしぃ」

 赤ウニ男は平然と電話に出た。鼠みたいな声だった。

 なんて奴なんだ。災害に合ったような気分だ。

「もう一度、今度は俺達の意志で有名になるか」

 宮下がニヤリと笑う。

「そうだな」

 俺はやってやろうじゃないかという気になった。俺達は赤ウニ男になる。そしてみんなを今の俺達のようにしてやるのだ。

「俺達にもっと悲惨なことが起こればみんなドン引きしてまた注目するだろう」

 宮下は腕を組み、目を見開く。

「へっへっへっへっ」

 俺は怪しく笑う。

 俺達はまるで悪魔だ。自分達に災いを起こす悪魔だ。

「雲雀の森、雲雀の森、お出口左側です」

 車内にアナウンスが流れる。学校の最寄り駅に着いた。

 改札を出て学校までの道を歩く。俺達はこれから十五分程で策を練らねばならない。

「どんなことがこの道で起きて、どんな姿で教室のドアを開けるか考えよう」

 宮下が重要なことを口にする。いつだって登場シーンは重要だ。

「早弁をして満腹状態で教室のドアを開ける」

「全然変化がないだろ」

「強風で制服が全て飛ばされて全裸で教室のドアを開ける」

「捕まるだろ」

 俺はインパクトのある登場シーンについて考えたがどれもこれも浅はかなものだった。俺の頭の中にはこんなものしか入っていない。こういう時の為に勉強したり本を読んだりするべきだったのか。それとももっと人と話すべきだったのか。自分の愚かさについてはいくらでも考えられた。

「俺を殴れ」

 宮下が立ち止まる。

「なにっ?」

 俺はどういうことかと宮下に視線を向ける。

「野犬の群れに襲われたことにするんだ」

 宮下の目はどこか一点を見つめていた。宮下には何かが完全に視えている。

 宮下の考えた台本はこうだ。背後から唸る声が聞こえ俺達は振り向く。人に捨てられ野生化した野犬の群れが俺達を睨んでいた。怯む俺達に大きな黒い群れが一斉に飛び掛かる。もう自分達の力に気付いているのだ。人間に出来るのはどうにか逃げのびることのみ。しかし鋭い牙で俺達はケツを噛まれ、足は縺れ、転び、膝や肘を擦り剥く。そこへ更に野犬の群れは襲い掛かり、俺達は防御するものの腕は血塗れ。なんとか立ち上がり走り出すが倒され、顔面に傷を負う。最後の力を振り絞ってもう一度立ち上がり、全速力で走った。野犬の群れを校門で食い止め、やっとの思いで教室のドアを開けた俺達はボロボロの姿だった。相当な悲惨さにみんな引くだろう。俺達の話で持ち切りになるはずだ。そして俺達は俺達の意志で有名人になるのだ。

「顔を殴って殴られて、ケツを噛んで噛まれて、忙しいな」

 宮下が顎に手を当て自分達が今からすべきことを語る。

 実際にはここに野犬の群れはいない。つまりは俺達が野犬となり、お互いの身体に傷を作らなければならないということだ。

「嫌だ……」

 俺は思わず本音が出る。前半部分は百歩譲ってまだ良いとして、ケツを噛んだり噛まれたりしなければならないなんて。しかし有名になる為の代償が大きいことを俺は知っている。

 俺は震えながら手を差し出す。宮下はグッと俺の手を握った。

「顔とケツ、どっちからやる?」

 俺は鋭い視線を宮下に向ける。

「より嫌なほうからだ」

 宮下は鋭い視線を返す。

「ケツだ」

 決まっているだろうと俺は即答する。

「噛むのと噛まれるのどっちが嫌だ?」

 きっと答えは同じだろうと宮下が聞く。

「噛むほうだ」

 またしても俺は決まっているだろうと即答した。

「じゃんけん!」

 宮下が叫ぶ。

 勝負が始まる。俺達は拳を振り上げる。

「「ぽい!!」」

 振り下ろされた拳は俺がパー、宮下がグーだった。

「クソーッ!!!」

 宮下が絶叫する。

 俺は静かにケツを差し出した。勝負は決まったのだ。すぐさま実行に移すべきだ。宮下が荒い呼吸を整える為、深呼吸をする。そして俺から少し離れた。俺に向かって中腰で走る宮下。俺はさあ来いとケツに力を入れる。しかし、宮下は俺のケツに噛み付けず顔面からケツにタックルした。俺は押された勢いで顔面から地面に突っ込み、宮下もまたそのまま地面に突っ込んだ。

「「グワッ」」

 俺達は顔面のザリザリとした痛みに叫んだ。

 一瞬だったのか、三十秒だったのか、一分だったのかわからないが俺達は動けなかった。

 俺達はぷるぷると震えながらゆっくりと体を起こす。俺は自分の顔を両手で触る。両手にべったりと血が付くだろう。恐る恐る顔から手を離し確認するが手には何も付いていない。ちらりと宮下の顔を見る。

「いや、お前の顔は無傷だよ」

 なんてことないじゃないか、と俺は呆れる。

「お前こそ無傷だよ」

 ムッとして宮下は返した。

 あれだけ痛かったのに、そういえばもう痛くない。そうか、無傷か。俺達は無性に恥ずかしくなってそそくさと立ち上がった。何も言わず俺達は歩き始める。左前方に高校のグラウンドが見えてくる。一時間目から体育のクラスがあるらしく声が聞こえてきた。

「ほんと、情けなさ過ぎるな俺達」

 宮下が呟く。

 赤ウニ男になろうとしたことだとか、自分達の意志で有名人になろうとしたことだとか、その方法が野犬に襲われた振りをすることだとか、ケツを噛もうとして失敗したことだとか、大怪我をしたと思いきや無傷だったことだとか、全てが俺達の頭の中を駆け巡った。

「ンッフフフフフフ」

「クックククククク」

 とめどなく情けない笑いが俺達の脇腹を刺激した。


 下駄箱で上履きに履き替え、廊下を歩く。静かだ。まるでいつもの一本後の電車みたいだ。階段を上る。足音が響いた。一年五組は現国だ。教室の後ろのドアの小さな窓から現国担当の小林が見えた。四組は英語、三組は移動教室なのだろう。がらんとしている。宮下が二組の教室のドアに手を伸ばす。

「なあ、今度遊ぼうぜ」

 俺は自然と声を掛けていた。

 宮下はニイッと笑ってすぐ真顔に戻った。

 ガラガラとドアを開け、宮下が教室へ入って行く。

「すみません、電車に乗り遅れました」

「明日から気を付けなさい」

 宮下と数学の斉藤の会話が小さく聞こえる。

 これから一日が始まるなんて嘘みたいだ。夢でも見ていたのだろうか。でもわりと楽しい夢だった気がする。俺は一組の教室のドアを開けた。



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