表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

婚約破棄された伯爵令嬢は、皇帝の溺愛に戸惑っています

作者: 藍沢 理

 王宮の庭園で告げられたその声は、春のそよ風とは似ても似つかない、硝子のような冷たさを帯びていた。


「ロザリンド・エヴァンス、本日をもって貴様との婚約を解消する」


 王太子フレデリック。かつて愛を囁いた唇が、今は氷の刃を紡ぎ出す。彼の青い瞳は、磨き上げられたサファイアのように硬質で、そこに憐憫の色は一欠片も浮かんでいない。


 隣には、私の幼馴染であったはずのソフィアが、勝ち誇った笑みを浮かべて寄り添っていた。その光景は、一枚の完璧な絵画を思わせた。ただし、その絵は私の心を無残に引き裂くために描かれたものだ。


「醜いお前と結婚するなど、王国の恥だ。魔法の才もなく、会話も退屈極まりない。ソフィアのような優れた女性こそ王妃に相応しい」


 言葉が意味をなさなくなる。思考が白く塗りつぶされていく。醜い。才能がない。退屈。ひとつひとつが呪いのように私に突き刺さり、縫い付けられていく。ああ、そうか。私は、そういう存在だったのか。


「フレデリック様、どうして……」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。


「何も言い訳はないのか? まあ、それがお前らしいな。いつも黙って従うだけの人形だ」

「王太子殿下が必要となさっているのは、わたくしのような、殿下を心から理解し、支えることのできる女性ですわ。あなたのような平凡な女には、その重責は務まりませんのよ」


 ソフィアの声が、追い打ちをかける。

 周囲に集まった貴族たちのひそやかな失笑が、肌を粟立たせる。屈辱。その一言では足りない何かが、私の全身を焼いていく。けれど、涙だけは見せてはならない。エヴァンス伯爵家の誇りを、私自身の最後の尊厳を、ここで手放すわけにはいかない。


 私は、ただ深く、深く頭を下げた。


「お心遣い、痛み入ります」


 踵を返し、背筋を伸ばして歩き出す。一歩、また一歩。背中に突き刺さる無数の視線が、物理的な重みを伴ってのしかかる。それでも、私は歩みを止めなかった。


 王宮の長い回廊を抜け、誰の視線も届かない小さな中庭に辿り着いたとき、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。膝から力が抜け、石のベンチに崩れ落ちる。その瞬間、せきを切ったように涙が溢れ出した。止まらない。止める術を知らない。


 悲しみが脳を揺さぶり、視界がぐらりと傾いだ。鋭い痛みが頭蓋を貫き、私はベンチから転がり落ちる。額を打ち付けた石畳の冷たさが妙に現実的だった。


 その痛みと共に知らない記憶が、いえ、知りすぎていた記憶が、濁流となって私の中に流れ込んできた。


 そうだ。私は、日本人だった。


 通勤電車に揺られ、恋愛小説を読むのがささやかな楽しみだった、どこにでもいるOL。そして、今この状況は、私が読んでいた小説『運命の螺旋』のワンシーンそのものではないか。


 高慢な伯爵令嬢が王太子から婚約破棄され、奈落の底へ落ちていく物語。


 転生して十八年。


 今まで断片的に見ていた夢は、封印されていた前世の記憶だった。

 婚約破棄という強烈な衝撃が、記憶のパンドラの箱を開けてしまった。


 私は悟る。私はあの物語の悪役令嬢、ロザリンド・エヴァンス。その末路は、社会的追放と孤独な死。このままでは、私も同じ道を辿る。


 空を見上げると、この王国の魔法の源である二つの月が、昼間だというのにぼんやりと浮かんでいた。血のように赤い月と、氷のように青い月。その双つの瞳が、私のちっぽけな運命を嘲笑っていた。


「どしよう……」

「なぜ泣いている?」


 私のつぶやきと同時に、不意に投げかけられた声。心臓が跳ね上がった。振り返ると、そこに立っていたのは、月光を溶かし込んだような銀髪の男性だった。その存在感だけで、周囲の空気が張り詰める。


 知っている。彼は、隣国マルディア帝国の若き支配者、ユリウス・フォン・ローゼンベルク。この王国を訪問中だという噂は、耳にしていた。


 慌てて立ち上がり、震える膝でどうにか淑女の礼をとる。


「申し訳ございません、陛下。お見苦しいところを」

「答えになっていない。なぜ泣いている?」


 夜の湖を思わせる紫紺の瞳が、私を射抜く。嘘も誤魔化しも許さない、絶対者の眼差し。


「……王太子殿下より、婚約を破棄されました。たった今」

「王太子から……。なるほど、貴様がロザリンド・エヴァンスか」


 私の名を知っている。その事実に、背筋が凍る。


「愚かな王太子だ。真の宝石を見抜けぬとは」


 皇帝が歩み寄り、その指が私の顎を捉える。予想に反して、その手つきは驚くほど優しかった。


「奴らにはお前の内に眠る力が見えぬらしい。その目で見てみろ」


 皇帝の指が私の額に触れる。その瞬間、今まで感じたことのない膨大な魔力が、奔流となって体内を駆け巡った。それは、ずっとそこにあったのに、私が気づかなかっただけの温かく力強い波動。


「陛下、これは……」

「水と風の二重属性。しかも、完全に調和している。王族ですら稀な才能だ」


 皇帝の薄い唇が、かすかに弧を描く。


「なぜ隠していた?」

「隠してなど……おりません。ただ、この力を表に出すべきではないと、そう感じていただけです」


 嘘ではなかった。けれど、幼い頃からこの感覚はあった。夢の中で見た光景、直感的な理解。それらが魔法の才能だとは気づいていた。同時に本能が警鐘を鳴らしていた。「目立つな」と。今思えば、それは破滅の筋書きを知る前世の魂からの、最後の抵抗だったのかもしれない。


「面白い」


 皇帝の視線が、私という存在を値踏みするように、ゆっくりと舐める。それは不快なはずなのに、なぜか、心の奥がざわめいた。


「ロザリンド・エヴァンス、私の国へ来い。お前の真の力を、私が引き出してやろう」

「え……?」

「いや、それだけではつまらんな」


 皇帝は、その場に膝をつくと、私の手を取った。その紫紺の瞳が、真剣な光を宿して私を見上げる。


「私の妃になれ」


 呼吸が、止まった。

 時が、凍りついた。

 遠くで聞こえる噴水の音も、風に揺れる葉擦れの音も、すべてが意味を失う。


「……は?」

「聞こえなかったか?」

「いえ、聞こえましたが……ご冗談でしょう?」

「私は冗談を言わん」


 その声には、一片の戯れも含まれていなかった。


「ですが、私はたった今、婚約を破棄されたばかりの身で……それに、陛下のような方が、なぜ私などを……」

「何を迷う必要がある。愚かな王太子に捨てられたことを、まだ悲しんでいるのか?」

「いいえ、そうでは……ただ、あまりに突然で……」

「答えは今すぐに欲しい」


 皇帝の瞳の奥で、紫紺の炎が揺らめいた。なぜ。どうして。前世の記憶では、皇帝ユリウスは冷酷無比な暴君のはず。なのに、なぜこんなにも優しい眼差しで、私を見るのか。

混乱する頭で答えを探していると、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。


「皇帝陛下! 皇帝陛下、いずこにおわしますか!」


 皇帝はわずかに眉をひそめ、立ち上がった。


「時間切れか。ならば一週間後だ。それまでに考えておけ」


 そう言うと、皇帝は小さく、本当に小さく微笑み、回廊の影へと姿を消した。残されたのは、侍従たちの慌ただしい足音と、私の手にかすかに残る彼の温もり、そして、心臓の激しい鼓動だけだった。


 運命の分岐点。破滅か、それとも未知の道か。

 小説の筋書きは、もう役に立たない。目の前の現実は、私の知らない物語を紡ぎ始めている。


 春の風が、涙で濡れた頬を撫でた。散り始めた桜の花びらが、祝福のように、あるいは呪いのように、私の髪に絡みついていた。



 エヴァンス伯爵邸の書斎に響き渡る父の怒声に、私の体は氷のように凍りついた。


「なんということだ! 王家との婚約が反故にされるとは! エヴァンス家の名誉に泥を塗りおって!」


 エイドリアン・エヴァンス伯爵。普段は温厚な父が、家の名誉が絡むと、こうして嵐と化すことを私は知っている。


「申し訳、ございません……父上」

「お前に非があったのか、ロザリンド」

「いいえ。ただ、王太子殿下のお心が変わられた、としか……」


 言葉を濁すと、父は重々しく息を吐き、革張りの椅子に深く身を沈めた。書斎に満ちる古い革とインクの匂いが、やけに息苦しい。


「聞いているぞ。ソフィア・レイモンド嬢が新たな婚約者だと。レイモンド侯爵家は王室に近い名門だ。我々ではもはや抗えん」


 父の呟きは、諦念に染まっていた。

 エヴァンス家の未来はどうなるのだ、と。そ

 の絶望的な響きに、皇帝の申し出を告げるべきか一瞬迷う。だが、まだ私自身の心が定まっていない。あれは現実だったのか、それとも悲しみの果てに見た幻だったのか。


「父上、一週間だけお時間をくださいませ。必ず解決の道を」

「解決だと? 婚約破棄を覆すというのか」

「いいえ。それとは、別の道が……あるやもしれません」


 父は訝しげな目を私に向けたが、それ以上は何も問わなかった。その沈黙が、父の失望の深さを物語っていた。


「……一週間だ。それ以上は待てん。もうよい、下がりなさい」


 書斎を出ると、廊下の薄闇の中で兄のダニエルが待っていた。彼の心配そうな顔を見ると、張り詰めていたものが少しだけ緩む。


「大丈夫か、ロザ」

「兄様……」


 兄の前では、強がる必要はない。私はただ、小さく首を横に振った。


「辛かっただろう、今日のことは。ソフィア嬢が裏切るとはな。お前たちはずっと、本当の姉妹のようだったというのに」

「……ええ。でも、彼女は王妃になりたかった。ただ、それだけのことなのだと思うわ」


 自分に言い聞かせるような言葉。それはひどく空虚に響いた。


「今夜はゆっくり休め。明日からは、新しい縁談を探さねばな」


 兄の優しさが、今はかえって胸に痛い。

 自室に戻り、窓辺に立つ。高台にあるエヴァンス家の館からは、王宮の灯りが遠くに見えた。あの場所に、皇帝ユリウスがいる。


 皇帝の妃。


 その言葉を舌の上で転がしてみる。前世の記憶が囁く。彼は冷徹な暴君だ、と。けれど、今日私が見たあの瞳は、確かに温かな光を宿していた。


 小説と現実の乖離。


 この世界は、私が知る物語の写し鏡などではない。独自の時を刻む、もうひとつの現実なのだ。


 一週間後、彼は本当に私を迎えに来るのだろうか。

 窓の外では、赤と青の二つの月が、運命の両輪そのものとして、静かに夜空を巡っていた。



 翌朝、予期せぬ来訪者がエヴァンス家を揺るがした。


「王太子殿下がお見えです」


 メイドの報告に、私は凍りついた。何の用だというのか。

 応接間で私を待っていたフレデリック王太子は、昨日とは別人のように落ち着かない様子で立っていた。その青い瞳には、焦燥の色が浮かんでいる。


「ロザリンド、話がある」

「どのようなご用件でしょうか、殿下」


 私は椅子に腰を下ろし、静かに彼を見上げた。もう、彼に媚びる必要も、怯える必要もない。


「ユリウス皇帝と会ったそうだな」


 背筋を冷たいものが走る。どこから情報が漏れたのか。


「ええ。昨日、偶然お話しする機会がございました」

「何を話した」


 詰問するような声。昨日、私を「人形」と罵った男とは思えない。


「それは……私的なことでございます」

「ロザリンド、正直に話してくれ。皇帝が何を言った?」

「なぜ、殿下がそれをお知りになりたいのですか? 昨日までのあなたは、私のことを『醜い』『無能』と、そうおっしゃっていたはずですが」

「あれは……本心ではない。勢いで言ってしまっただけだ」

「まあ。随分とご都合のよろしいことで」


 私の皮肉に、彼の顔が歪む。


「聞け、ロザリンド。ユリウス皇帝は危険な男だ。彼の言葉を信じてはならん」

「昨日まで私を見下しておいでだった方が、今日になってご心配くださるとは。感激の至りですわ」


 言葉に詰まる王太子を、私は冷ややかに見つめた。日本のOLとして培った処世術は、伊達ではない。


「皇帝が何かを約束したのなら、それは全て偽りだ。彼は政略のためなら、平気で人を利用する」

「鏡をご覧になってはいかがです? ご自身の姿がよくお分かりになるかと」


 彼の顔が青ざめる。こんな反撃を予想していなかったのだろう。


「ロザリンド、頼む。私との婚約を元に戻そう。あの皇帝から、距離を置いてくれ」


 驚きで言葉を失った。この男は一体何を言っているのか。


「……正気で、おっしゃって? 昨日、公衆の面前で婚約を破棄なさいました。そして今日、何事もなかったかのように、元に戻そうと?」

「状況が変わったのだ。理由は言えんが――」

「理由など、興味ございません。お引き取りくださいませ」


 私が立ち上がってドアに向かうと、背後から彼の焦った声が飛んだ。


「ロザリンド!」


 振り返ると、彼の表情は怒りと焦燥で醜く歪んでいた。


「皇帝に何を言われた! 答えろ!」

「失礼ながら、それは私とユリウス陛下、ふたりだけの問題でございます」

「貴様……!」


 彼が立ち上がったその時、ドアが開き、兄のダニエルが入ってきた。


「王太子殿下。妹が不快に思っております。お引き取りを」


 兄の氷のような声に、王太子は悔しげに歯噛みした。


「……わかった。だがロザリンド、考えが変わったら、いつでも言うがいい。待っている」


 捨て台詞を残して彼が去った後、兄が私に向き直った。


「何があった」

「……長い話になるわ」


 ソファに戻り、私は兄にすべてを打ち明けた。皇帝との出会い、魔力の覚醒、そして、信じがたい求婚について。話し終えると、兄は呆然としていた。


「皇帝の……妃、だと?」

「ええ。私にも、まだ信じられないけれど」

「しかし、なぜ王太子が急に態度を変えたのだ?」

「おそらく、皇帝が私に関心をお持ちだと知ったからよ。私が帝国に嫁げば、この国にとって不利益になると考えたのでしょう。どこまでも政治的な計算……」

「気をつけろ、ロザ。王族の争いに巻き込まれるのは危険すぎる」


 兄の忠告に、私はゆっくりと頷いた。


「でも、もう後戻りはできないわ。一週間後、皇帝は迎えに来るとおっしゃった。その時、私は答えなければならない」

「お前の気持ちは、どうなんだ」

「……わからないわ」


 嘘。本当は、もう心の奥で答えは決まっていた。

 このまま惨めな悪役令嬢として終わるつもりはない。

 破滅の運命を、この手で書き換えてみせる。

 皇帝の妃になる。それが、私の選ぶべき、唯一の道。

 窓の外では、春の風が、新しい始まりを告げるように、桜の花びらを高く舞い上げていた。



 約束の一週間後。エヴァンス家の館の前に、金と銀の豪奢な装飾が施された帝国の馬車が十台も並ぶ光景は、現実とは思えないほど壮観だった。白銀に輝くマルディア帝国の紋章が、朝の光を浴びて眩しい。


 屋敷の中は、しっちゃかめっちゃかの混乱に満ちていた。父は書斎を行ったり来たりし、兄は客間で厳しい表情を崩さない。メイドたちは落ち着かない様子で準備に走り回っていた。


 私は自室の窓から、階下の光景を見下ろしていた。馬車から降り立った彼の銀髪が、風に美しくなびく。帝国の正装に身を包み、腰に剣を下げたその姿は、まさしく伝説上の王そのものだった。


「お嬢様、皇帝陛下がお見えでございます」


 メイドのノックに、私は振り返る。


「ええ、すぐに行くわ」


 鏡の前に立ち、最後の確認をする。淡い青のドレスは、私の瞳の色によく合っていた。この一週間、毎晩考え続けた。この選択は正しいのか、と。皇帝の求婚を受け入れることは、本当に私のためになるのか、と。


 客間に入る。皇帝は窓際に立っていた。振り返った彼の紫紺の瞳が、まっすぐに私を捉えた。


「ロザリンド・エヴァンス」


 低く、けれど心地よく響く声に、心臓が大きく鳴った。


「お待たせいたしました、陛下」


 父と兄が見守る中、私は深く、丁寧に礼をした。


「答えは?」


 彼の問いは、どこまでも単刀直入だ。私は深呼吸をひとつして、顔を上げた。


「お受けいたします。陛下の妃となることを」


 その言葉に、皇帝の唇が微かに、本当に微かに持ち上がった。


「よろしい」


 その一言で、私の運命は決まった。父は安堵と驚きに言葉を失い、兄は複雑な表情で私を見つめている。


「では、今日からお前はマルディア帝国の皇妃だ。帝国へ戻り、式の準備を整える」

「本日……でございますか?」

「遅らせる理由があるか?」


 確かに、ない。王太子が再び現れる前に、この国を去るのが賢明だろう。


「ございません。すぐに荷物を……」

「必要なものは、全て帝国で揃える。お前は、その身ひとつで来ればいい」


 皇帝が、手を差し出した。その手を取れば、新しい人生が始まる。一瞬の迷いを振り払い、私はその大きな手を、強く握り返した。



 馬車に乗り込む、まさにその時だった。王宮からの使者が、息を切らして駆けつけてきた。


「ロザリンド様! 王太子殿下からの緊急のご伝言にございます!」


 皇帝の冷ややかな視線を感じながら、私は使者に向き直った。


「何かしら?」

「殿下が、先の婚約破棄は無効であると宣言されました! 今すぐ王宮へお越しいただきたい、と!」


 周囲から、どよめきが起こる。同時に、皇帝の纏う空気が冷たく変わった。


「遅すぎる決断だな」


 私は使者に向かって微笑む。彼は悪くない。


「お伝えください。わたくしは既に、ユリウス皇帝陛下の妃となる身。もう、戻ることはございません、と」

「しかし、殿下は、もしお断りになるのであれば、力ずくでも連れ戻すと……」


 その言葉に、皇帝の瞳が危険な光を放った。


「我が妃に対する脅しと受け取るが、よろしいか? それは、このマルディア帝国に対する宣戦布告と見なすが」


 地を這うような低い声に、使者は蒼白になった。


「陛下、彼は悪くありません。お許しを。一言だけ、わたくしからお伝えいたします」


 皇帝は、渋々といった体で頷いた。私は震える使者に、はっきりと告げる。


「王太子殿下にお伝えくださいませ。価値が分からなかったものを、失ってからその輝きに気づいても、もう遅すぎます、と」


 使者は深く頭を下げ、慌てて去っていった。それを見届けた皇帝の唇が、満足げな笑みの形に歪んだ。


「見事な返答だ」

「お褒めに預かり、光栄ですわ、陛下」


 馬車に乗り込み、私は生まれ育ったエヴァンス家の館を、そしてこの国の街並みを見渡した。寂しさがないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に、新しい世界への期待が胸を満たしていた。

 馬車がゆっくりと動き出す。


「陛下、ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「何でも聞くがいい」

「なぜ、わたくしを? 婚約を破棄されたばかりの、ただの伯爵令嬢に、なぜ求婚を?」


 皇帝はしばらく黙っていたが、やがて、その紫紺の瞳を私に向け、静かに語り始めた。


「私の母は、この国の王家の血を引く姫だった。そして、お前と同じ、水と風の二重属性を持つ稀有な存在でもあった」


 予期せぬ告白に、私は息を呑んだ。


「政略結婚で帝国に嫁いだ母は、故郷への想いを断ち切れず、一度だけこの国に戻った。そして……『事故』で命を落とした」


 彼の声に、凍てつくような怒りが混じる。


「当然、事故などではない。暗殺だ。その強大な魔力を恐れた当時の王が、母を消したのだ」

「……まさか」

「その証拠を掴むため、私は長年、密かに調査を続けてきた。そして、今回の訪問でようやく全ての駒が揃った」


 皇帝の瞳の奥で、復讐の炎が燃え盛っていた。


「本来の目的は、この王国への報復。母の仇を討つこと、ただそれだけだった」


 馬車の中の空気が、凍てついた。


「だが、すべてが変わった。お前を見つけたあの瞬間に」


 彼の視線が、ふと和らぐ。彼の手がそっと私の頬に触れた。


「お前の魔力の波動は、確かに母のものと酷似していた。だが、それだけではない。王太子に捨てられても、誇りを失わぬその気高さ。家族を思う優しさ。そして何より、その穢れを知らぬ魂……」


 彼の声が、低く震える。


「復讐だけをよすがとしてきた私の魂に、お前は新たな火を灯した。憎しみの闇に閉ざされていた私の心に、光をもたらした」


 彼の紫紺の瞳に、今まで見たことのない熱情が宿っていた。


「お前と出会った瞬間、私の本当の人生が始まったのだと、そう気づかされた」

「陛下……」

「もはや復讐に意味はない。私が望むのは、ただひとつ。お前と共に新しい時代を築くことだ」


 皇帝の声には、揺るぎない決意が満ちていた。


「かつての憎しみを超え、二つの国の間に真の平和をもたらす。それが今の私の願いだ」


 思わず涙が滲んだ。単なる魔力の類似ではない。彼は私自身を見てくれていた。そして、私が彼の心を変えた。


「これからの人生、私と共に歩んでくれるか、ロザリンド」


 初めて彼は私の名を呼んだ。その響きはどんな音楽よりも甘く、私の心に染み渡った。


「はい、喜んで」


 馬車は国境へと向かって進んでいく。雲間から見える太陽が私たちの未来を照らし出す。小説の中の悪役令嬢は、悲惨な最期を迎えるはずだった。でも、今の私は自分の手で運命を書き換えている。

 きっと幸せになれる。この皇帝と共に。


「ユリウス陛下」

「なんだ?」

「これからも、よろしくお願いいたします。私の、皇帝陛下」


 皇帝の顔に、初めて見る柔らかな、心からの笑顔が広がった。運命は変えられる。私はそれを証明するために、新しい人生を、いま歩み始めたのだ。




(了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ロザリンドとユリウスの成長に感動!二人の絆が深まって、最後まで心温まった。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ