婚約破棄された伯爵令嬢は、皇帝の溺愛に戸惑っています
王宮の庭園で告げられたその声は、春のそよ風とは似ても似つかない、硝子のような冷たさを帯びていた。
「ロザリンド・エヴァンス、本日をもって貴様との婚約を解消する」
王太子フレデリック。かつて愛を囁いた唇が、今は氷の刃を紡ぎ出す。彼の青い瞳は、磨き上げられたサファイアのように硬質で、そこに憐憫の色は一欠片も浮かんでいない。
隣には、私の幼馴染であったはずのソフィアが、勝ち誇った笑みを浮かべて寄り添っていた。その光景は、一枚の完璧な絵画を思わせた。ただし、その絵は私の心を無残に引き裂くために描かれたものだ。
「醜いお前と結婚するなど、王国の恥だ。魔法の才もなく、会話も退屈極まりない。ソフィアのような優れた女性こそ王妃に相応しい」
言葉が意味をなさなくなる。思考が白く塗りつぶされていく。醜い。才能がない。退屈。ひとつひとつが呪いのように私に突き刺さり、縫い付けられていく。ああ、そうか。私は、そういう存在だったのか。
「フレデリック様、どうして……」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
「何も言い訳はないのか? まあ、それがお前らしいな。いつも黙って従うだけの人形だ」
「王太子殿下が必要となさっているのは、わたくしのような、殿下を心から理解し、支えることのできる女性ですわ。あなたのような平凡な女には、その重責は務まりませんのよ」
ソフィアの声が、追い打ちをかける。
周囲に集まった貴族たちのひそやかな失笑が、肌を粟立たせる。屈辱。その一言では足りない何かが、私の全身を焼いていく。けれど、涙だけは見せてはならない。エヴァンス伯爵家の誇りを、私自身の最後の尊厳を、ここで手放すわけにはいかない。
私は、ただ深く、深く頭を下げた。
「お心遣い、痛み入ります」
踵を返し、背筋を伸ばして歩き出す。一歩、また一歩。背中に突き刺さる無数の視線が、物理的な重みを伴ってのしかかる。それでも、私は歩みを止めなかった。
王宮の長い回廊を抜け、誰の視線も届かない小さな中庭に辿り着いたとき、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。膝から力が抜け、石のベンチに崩れ落ちる。その瞬間、せきを切ったように涙が溢れ出した。止まらない。止める術を知らない。
悲しみが脳を揺さぶり、視界がぐらりと傾いだ。鋭い痛みが頭蓋を貫き、私はベンチから転がり落ちる。額を打ち付けた石畳の冷たさが妙に現実的だった。
その痛みと共に知らない記憶が、いえ、知りすぎていた記憶が、濁流となって私の中に流れ込んできた。
そうだ。私は、日本人だった。
通勤電車に揺られ、恋愛小説を読むのがささやかな楽しみだった、どこにでもいるOL。そして、今この状況は、私が読んでいた小説『運命の螺旋』のワンシーンそのものではないか。
高慢な伯爵令嬢が王太子から婚約破棄され、奈落の底へ落ちていく物語。
転生して十八年。
今まで断片的に見ていた夢は、封印されていた前世の記憶だった。
婚約破棄という強烈な衝撃が、記憶のパンドラの箱を開けてしまった。
私は悟る。私はあの物語の悪役令嬢、ロザリンド・エヴァンス。その末路は、社会的追放と孤独な死。このままでは、私も同じ道を辿る。
空を見上げると、この王国の魔法の源である二つの月が、昼間だというのにぼんやりと浮かんでいた。血のように赤い月と、氷のように青い月。その双つの瞳が、私のちっぽけな運命を嘲笑っていた。
「どしよう……」
「なぜ泣いている?」
私のつぶやきと同時に、不意に投げかけられた声。心臓が跳ね上がった。振り返ると、そこに立っていたのは、月光を溶かし込んだような銀髪の男性だった。その存在感だけで、周囲の空気が張り詰める。
知っている。彼は、隣国マルディア帝国の若き支配者、ユリウス・フォン・ローゼンベルク。この王国を訪問中だという噂は、耳にしていた。
慌てて立ち上がり、震える膝でどうにか淑女の礼をとる。
「申し訳ございません、陛下。お見苦しいところを」
「答えになっていない。なぜ泣いている?」
夜の湖を思わせる紫紺の瞳が、私を射抜く。嘘も誤魔化しも許さない、絶対者の眼差し。
「……王太子殿下より、婚約を破棄されました。たった今」
「王太子から……。なるほど、貴様がロザリンド・エヴァンスか」
私の名を知っている。その事実に、背筋が凍る。
「愚かな王太子だ。真の宝石を見抜けぬとは」
皇帝が歩み寄り、その指が私の顎を捉える。予想に反して、その手つきは驚くほど優しかった。
「奴らにはお前の内に眠る力が見えぬらしい。その目で見てみろ」
皇帝の指が私の額に触れる。その瞬間、今まで感じたことのない膨大な魔力が、奔流となって体内を駆け巡った。それは、ずっとそこにあったのに、私が気づかなかっただけの温かく力強い波動。
「陛下、これは……」
「水と風の二重属性。しかも、完全に調和している。王族ですら稀な才能だ」
皇帝の薄い唇が、かすかに弧を描く。
「なぜ隠していた?」
「隠してなど……おりません。ただ、この力を表に出すべきではないと、そう感じていただけです」
嘘ではなかった。けれど、幼い頃からこの感覚はあった。夢の中で見た光景、直感的な理解。それらが魔法の才能だとは気づいていた。同時に本能が警鐘を鳴らしていた。「目立つな」と。今思えば、それは破滅の筋書きを知る前世の魂からの、最後の抵抗だったのかもしれない。
「面白い」
皇帝の視線が、私という存在を値踏みするように、ゆっくりと舐める。それは不快なはずなのに、なぜか、心の奥がざわめいた。
「ロザリンド・エヴァンス、私の国へ来い。お前の真の力を、私が引き出してやろう」
「え……?」
「いや、それだけではつまらんな」
皇帝は、その場に膝をつくと、私の手を取った。その紫紺の瞳が、真剣な光を宿して私を見上げる。
「私の妃になれ」
呼吸が、止まった。
時が、凍りついた。
遠くで聞こえる噴水の音も、風に揺れる葉擦れの音も、すべてが意味を失う。
「……は?」
「聞こえなかったか?」
「いえ、聞こえましたが……ご冗談でしょう?」
「私は冗談を言わん」
その声には、一片の戯れも含まれていなかった。
「ですが、私はたった今、婚約を破棄されたばかりの身で……それに、陛下のような方が、なぜ私などを……」
「何を迷う必要がある。愚かな王太子に捨てられたことを、まだ悲しんでいるのか?」
「いいえ、そうでは……ただ、あまりに突然で……」
「答えは今すぐに欲しい」
皇帝の瞳の奥で、紫紺の炎が揺らめいた。なぜ。どうして。前世の記憶では、皇帝ユリウスは冷酷無比な暴君のはず。なのに、なぜこんなにも優しい眼差しで、私を見るのか。
混乱する頭で答えを探していると、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。
「皇帝陛下! 皇帝陛下、いずこにおわしますか!」
皇帝はわずかに眉をひそめ、立ち上がった。
「時間切れか。ならば一週間後だ。それまでに考えておけ」
そう言うと、皇帝は小さく、本当に小さく微笑み、回廊の影へと姿を消した。残されたのは、侍従たちの慌ただしい足音と、私の手にかすかに残る彼の温もり、そして、心臓の激しい鼓動だけだった。
運命の分岐点。破滅か、それとも未知の道か。
小説の筋書きは、もう役に立たない。目の前の現実は、私の知らない物語を紡ぎ始めている。
春の風が、涙で濡れた頬を撫でた。散り始めた桜の花びらが、祝福のように、あるいは呪いのように、私の髪に絡みついていた。
*
エヴァンス伯爵邸の書斎に響き渡る父の怒声に、私の体は氷のように凍りついた。
「なんということだ! 王家との婚約が反故にされるとは! エヴァンス家の名誉に泥を塗りおって!」
エイドリアン・エヴァンス伯爵。普段は温厚な父が、家の名誉が絡むと、こうして嵐と化すことを私は知っている。
「申し訳、ございません……父上」
「お前に非があったのか、ロザリンド」
「いいえ。ただ、王太子殿下のお心が変わられた、としか……」
言葉を濁すと、父は重々しく息を吐き、革張りの椅子に深く身を沈めた。書斎に満ちる古い革とインクの匂いが、やけに息苦しい。
「聞いているぞ。ソフィア・レイモンド嬢が新たな婚約者だと。レイモンド侯爵家は王室に近い名門だ。我々ではもはや抗えん」
父の呟きは、諦念に染まっていた。
エヴァンス家の未来はどうなるのだ、と。そ
の絶望的な響きに、皇帝の申し出を告げるべきか一瞬迷う。だが、まだ私自身の心が定まっていない。あれは現実だったのか、それとも悲しみの果てに見た幻だったのか。
「父上、一週間だけお時間をくださいませ。必ず解決の道を」
「解決だと? 婚約破棄を覆すというのか」
「いいえ。それとは、別の道が……あるやもしれません」
父は訝しげな目を私に向けたが、それ以上は何も問わなかった。その沈黙が、父の失望の深さを物語っていた。
「……一週間だ。それ以上は待てん。もうよい、下がりなさい」
書斎を出ると、廊下の薄闇の中で兄のダニエルが待っていた。彼の心配そうな顔を見ると、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
「大丈夫か、ロザ」
「兄様……」
兄の前では、強がる必要はない。私はただ、小さく首を横に振った。
「辛かっただろう、今日のことは。ソフィア嬢が裏切るとはな。お前たちはずっと、本当の姉妹のようだったというのに」
「……ええ。でも、彼女は王妃になりたかった。ただ、それだけのことなのだと思うわ」
自分に言い聞かせるような言葉。それはひどく空虚に響いた。
「今夜はゆっくり休め。明日からは、新しい縁談を探さねばな」
兄の優しさが、今はかえって胸に痛い。
自室に戻り、窓辺に立つ。高台にあるエヴァンス家の館からは、王宮の灯りが遠くに見えた。あの場所に、皇帝ユリウスがいる。
皇帝の妃。
その言葉を舌の上で転がしてみる。前世の記憶が囁く。彼は冷徹な暴君だ、と。けれど、今日私が見たあの瞳は、確かに温かな光を宿していた。
小説と現実の乖離。
この世界は、私が知る物語の写し鏡などではない。独自の時を刻む、もうひとつの現実なのだ。
一週間後、彼は本当に私を迎えに来るのだろうか。
窓の外では、赤と青の二つの月が、運命の両輪そのものとして、静かに夜空を巡っていた。
*
翌朝、予期せぬ来訪者がエヴァンス家を揺るがした。
「王太子殿下がお見えです」
メイドの報告に、私は凍りついた。何の用だというのか。
応接間で私を待っていたフレデリック王太子は、昨日とは別人のように落ち着かない様子で立っていた。その青い瞳には、焦燥の色が浮かんでいる。
「ロザリンド、話がある」
「どのようなご用件でしょうか、殿下」
私は椅子に腰を下ろし、静かに彼を見上げた。もう、彼に媚びる必要も、怯える必要もない。
「ユリウス皇帝と会ったそうだな」
背筋を冷たいものが走る。どこから情報が漏れたのか。
「ええ。昨日、偶然お話しする機会がございました」
「何を話した」
詰問するような声。昨日、私を「人形」と罵った男とは思えない。
「それは……私的なことでございます」
「ロザリンド、正直に話してくれ。皇帝が何を言った?」
「なぜ、殿下がそれをお知りになりたいのですか? 昨日までのあなたは、私のことを『醜い』『無能』と、そうおっしゃっていたはずですが」
「あれは……本心ではない。勢いで言ってしまっただけだ」
「まあ。随分とご都合のよろしいことで」
私の皮肉に、彼の顔が歪む。
「聞け、ロザリンド。ユリウス皇帝は危険な男だ。彼の言葉を信じてはならん」
「昨日まで私を見下しておいでだった方が、今日になってご心配くださるとは。感激の至りですわ」
言葉に詰まる王太子を、私は冷ややかに見つめた。日本のOLとして培った処世術は、伊達ではない。
「皇帝が何かを約束したのなら、それは全て偽りだ。彼は政略のためなら、平気で人を利用する」
「鏡をご覧になってはいかがです? ご自身の姿がよくお分かりになるかと」
彼の顔が青ざめる。こんな反撃を予想していなかったのだろう。
「ロザリンド、頼む。私との婚約を元に戻そう。あの皇帝から、距離を置いてくれ」
驚きで言葉を失った。この男は一体何を言っているのか。
「……正気で、おっしゃって? 昨日、公衆の面前で婚約を破棄なさいました。そして今日、何事もなかったかのように、元に戻そうと?」
「状況が変わったのだ。理由は言えんが――」
「理由など、興味ございません。お引き取りくださいませ」
私が立ち上がってドアに向かうと、背後から彼の焦った声が飛んだ。
「ロザリンド!」
振り返ると、彼の表情は怒りと焦燥で醜く歪んでいた。
「皇帝に何を言われた! 答えろ!」
「失礼ながら、それは私とユリウス陛下、ふたりだけの問題でございます」
「貴様……!」
彼が立ち上がったその時、ドアが開き、兄のダニエルが入ってきた。
「王太子殿下。妹が不快に思っております。お引き取りを」
兄の氷のような声に、王太子は悔しげに歯噛みした。
「……わかった。だがロザリンド、考えが変わったら、いつでも言うがいい。待っている」
捨て台詞を残して彼が去った後、兄が私に向き直った。
「何があった」
「……長い話になるわ」
ソファに戻り、私は兄にすべてを打ち明けた。皇帝との出会い、魔力の覚醒、そして、信じがたい求婚について。話し終えると、兄は呆然としていた。
「皇帝の……妃、だと?」
「ええ。私にも、まだ信じられないけれど」
「しかし、なぜ王太子が急に態度を変えたのだ?」
「おそらく、皇帝が私に関心をお持ちだと知ったからよ。私が帝国に嫁げば、この国にとって不利益になると考えたのでしょう。どこまでも政治的な計算……」
「気をつけろ、ロザ。王族の争いに巻き込まれるのは危険すぎる」
兄の忠告に、私はゆっくりと頷いた。
「でも、もう後戻りはできないわ。一週間後、皇帝は迎えに来るとおっしゃった。その時、私は答えなければならない」
「お前の気持ちは、どうなんだ」
「……わからないわ」
嘘。本当は、もう心の奥で答えは決まっていた。
このまま惨めな悪役令嬢として終わるつもりはない。
破滅の運命を、この手で書き換えてみせる。
皇帝の妃になる。それが、私の選ぶべき、唯一の道。
窓の外では、春の風が、新しい始まりを告げるように、桜の花びらを高く舞い上げていた。
*
約束の一週間後。エヴァンス家の館の前に、金と銀の豪奢な装飾が施された帝国の馬車が十台も並ぶ光景は、現実とは思えないほど壮観だった。白銀に輝くマルディア帝国の紋章が、朝の光を浴びて眩しい。
屋敷の中は、しっちゃかめっちゃかの混乱に満ちていた。父は書斎を行ったり来たりし、兄は客間で厳しい表情を崩さない。メイドたちは落ち着かない様子で準備に走り回っていた。
私は自室の窓から、階下の光景を見下ろしていた。馬車から降り立った彼の銀髪が、風に美しくなびく。帝国の正装に身を包み、腰に剣を下げたその姿は、まさしく伝説上の王そのものだった。
「お嬢様、皇帝陛下がお見えでございます」
メイドのノックに、私は振り返る。
「ええ、すぐに行くわ」
鏡の前に立ち、最後の確認をする。淡い青のドレスは、私の瞳の色によく合っていた。この一週間、毎晩考え続けた。この選択は正しいのか、と。皇帝の求婚を受け入れることは、本当に私のためになるのか、と。
客間に入る。皇帝は窓際に立っていた。振り返った彼の紫紺の瞳が、まっすぐに私を捉えた。
「ロザリンド・エヴァンス」
低く、けれど心地よく響く声に、心臓が大きく鳴った。
「お待たせいたしました、陛下」
父と兄が見守る中、私は深く、丁寧に礼をした。
「答えは?」
彼の問いは、どこまでも単刀直入だ。私は深呼吸をひとつして、顔を上げた。
「お受けいたします。陛下の妃となることを」
その言葉に、皇帝の唇が微かに、本当に微かに持ち上がった。
「よろしい」
その一言で、私の運命は決まった。父は安堵と驚きに言葉を失い、兄は複雑な表情で私を見つめている。
「では、今日からお前はマルディア帝国の皇妃だ。帝国へ戻り、式の準備を整える」
「本日……でございますか?」
「遅らせる理由があるか?」
確かに、ない。王太子が再び現れる前に、この国を去るのが賢明だろう。
「ございません。すぐに荷物を……」
「必要なものは、全て帝国で揃える。お前は、その身ひとつで来ればいい」
皇帝が、手を差し出した。その手を取れば、新しい人生が始まる。一瞬の迷いを振り払い、私はその大きな手を、強く握り返した。
*
馬車に乗り込む、まさにその時だった。王宮からの使者が、息を切らして駆けつけてきた。
「ロザリンド様! 王太子殿下からの緊急のご伝言にございます!」
皇帝の冷ややかな視線を感じながら、私は使者に向き直った。
「何かしら?」
「殿下が、先の婚約破棄は無効であると宣言されました! 今すぐ王宮へお越しいただきたい、と!」
周囲から、どよめきが起こる。同時に、皇帝の纏う空気が冷たく変わった。
「遅すぎる決断だな」
私は使者に向かって微笑む。彼は悪くない。
「お伝えください。わたくしは既に、ユリウス皇帝陛下の妃となる身。もう、戻ることはございません、と」
「しかし、殿下は、もしお断りになるのであれば、力ずくでも連れ戻すと……」
その言葉に、皇帝の瞳が危険な光を放った。
「我が妃に対する脅しと受け取るが、よろしいか? それは、このマルディア帝国に対する宣戦布告と見なすが」
地を這うような低い声に、使者は蒼白になった。
「陛下、彼は悪くありません。お許しを。一言だけ、わたくしからお伝えいたします」
皇帝は、渋々といった体で頷いた。私は震える使者に、はっきりと告げる。
「王太子殿下にお伝えくださいませ。価値が分からなかったものを、失ってからその輝きに気づいても、もう遅すぎます、と」
使者は深く頭を下げ、慌てて去っていった。それを見届けた皇帝の唇が、満足げな笑みの形に歪んだ。
「見事な返答だ」
「お褒めに預かり、光栄ですわ、陛下」
馬車に乗り込み、私は生まれ育ったエヴァンス家の館を、そしてこの国の街並みを見渡した。寂しさがないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に、新しい世界への期待が胸を満たしていた。
馬車がゆっくりと動き出す。
「陛下、ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何でも聞くがいい」
「なぜ、わたくしを? 婚約を破棄されたばかりの、ただの伯爵令嬢に、なぜ求婚を?」
皇帝はしばらく黙っていたが、やがて、その紫紺の瞳を私に向け、静かに語り始めた。
「私の母は、この国の王家の血を引く姫だった。そして、お前と同じ、水と風の二重属性を持つ稀有な存在でもあった」
予期せぬ告白に、私は息を呑んだ。
「政略結婚で帝国に嫁いだ母は、故郷への想いを断ち切れず、一度だけこの国に戻った。そして……『事故』で命を落とした」
彼の声に、凍てつくような怒りが混じる。
「当然、事故などではない。暗殺だ。その強大な魔力を恐れた当時の王が、母を消したのだ」
「……まさか」
「その証拠を掴むため、私は長年、密かに調査を続けてきた。そして、今回の訪問でようやく全ての駒が揃った」
皇帝の瞳の奥で、復讐の炎が燃え盛っていた。
「本来の目的は、この王国への報復。母の仇を討つこと、ただそれだけだった」
馬車の中の空気が、凍てついた。
「だが、すべてが変わった。お前を見つけたあの瞬間に」
彼の視線が、ふと和らぐ。彼の手がそっと私の頬に触れた。
「お前の魔力の波動は、確かに母のものと酷似していた。だが、それだけではない。王太子に捨てられても、誇りを失わぬその気高さ。家族を思う優しさ。そして何より、その穢れを知らぬ魂……」
彼の声が、低く震える。
「復讐だけをよすがとしてきた私の魂に、お前は新たな火を灯した。憎しみの闇に閉ざされていた私の心に、光をもたらした」
彼の紫紺の瞳に、今まで見たことのない熱情が宿っていた。
「お前と出会った瞬間、私の本当の人生が始まったのだと、そう気づかされた」
「陛下……」
「もはや復讐に意味はない。私が望むのは、ただひとつ。お前と共に新しい時代を築くことだ」
皇帝の声には、揺るぎない決意が満ちていた。
「かつての憎しみを超え、二つの国の間に真の平和をもたらす。それが今の私の願いだ」
思わず涙が滲んだ。単なる魔力の類似ではない。彼は私自身を見てくれていた。そして、私が彼の心を変えた。
「これからの人生、私と共に歩んでくれるか、ロザリンド」
初めて彼は私の名を呼んだ。その響きはどんな音楽よりも甘く、私の心に染み渡った。
「はい、喜んで」
馬車は国境へと向かって進んでいく。雲間から見える太陽が私たちの未来を照らし出す。小説の中の悪役令嬢は、悲惨な最期を迎えるはずだった。でも、今の私は自分の手で運命を書き換えている。
きっと幸せになれる。この皇帝と共に。
「ユリウス陛下」
「なんだ?」
「これからも、よろしくお願いいたします。私の、皇帝陛下」
皇帝の顔に、初めて見る柔らかな、心からの笑顔が広がった。運命は変えられる。私はそれを証明するために、新しい人生を、いま歩み始めたのだ。
(了)