次回予告 4 後編
どうにもネタが見つけられなくなってしまいましたので、今、あるだけの原稿をアップします。続きは書けたらアップしますが、あまり期待しないでください。
次回予告
クモは脚が減っても生きていける。
次回「クモの脚」ヒトも同じだ。
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クモの脚
『ナショナルジオグラフィック』日本版のサイトで「クモは脚が減っても生きていける」(2011.06.07)というちょっと古い記事を見つけてしまった。
「新たな研究によれば、クモは必要な本数以上の脚を持っており、1~2本は失っても支障がないという。野生のメスグモを数千匹採集して調べたところ、10パーセント以上の個体が8本脚のうち1本以上を失っていることが分かった」のだそうだ。
なんと「数千匹」である。生物学の世界では観察例が多いほど説得力が増すのである。「数は力なり」というやつだな。〔ちょっと違うんじゃないか?〕
この論文の共著者であるフランスのナンシー第一大学のアラン・パスケ氏は、「この状況(脚が少ないこと)が何らかの障害になっているのだろうかと考えた」のだそうだ。
「研究チームは、123匹のタイリクキレアミグモ(Zygiella x-notata)を1匹ずつ個別のプラスチック箱に入れて巣を作らせた。このうち、8本の脚がそろっている個体は60匹、残りの63匹は脚が1本以上欠けていた」「そして、脚のそろったクモが作る巣と、脚が欠けたクモの作る巣はあまり差がないことが判明した。さらに、箱の中へハエを入れたところ、脚が欠けたクモでも捕食に何ら支障がないことがわかった」「パスケ氏らは観察結果に基づき、クモの持つ脚は実際に必要な本数よりも多く、例えば脚に噛みついた捕食者から逃げる時に有利になるとの考えを示した」と書かれている。
実は作者が尊敬している中平清先生も『クモのふるまい』(1983年発行)の中で脚を失ったクモについて報告しておられる。
「ある日、5本の脚を失ったハシリグモを採った。片手と両足を失った自分の姿を想像しながら子グモを見ていると、背中に寒気が走った。この子グモは、成体になるまで生きながらえることができるだろうか、と危ぶみはしたが、とにかく飼うことにした。捨てるのがかわいそうだったのである」「ところで、この子グモはなかなかの元気もので、わたしの心配や哀れみは全く無用であった。投与したイエバエが、はねをブーンと鳴らして暴れると、クモは体の平均を失ってひっくり返った。しかし、獲物は放さず、横に倒れたままの姿勢で食べてしまった。無残な姿になっても、元気に生き続けようとする子グモの姿に、わたしは感動した」のだそうだ(クモの脚には自切と、制限付きではあるものの再生する能力が備わっている)。
作者が中平先生を尊敬するのは、このように人間とクモを区別しないところである。ただ、中平先生の心はあくまでも人間のそれで、「もしも、このクモが人間だったら」という立場でクモを観察しているようだ。作者は「クモもヒトも生物であるという点では対等である」という考え方をしているので、視点の位置が90度くらいずれているかもしれない。
話を『ナショナルジオグラフィック』の記事に戻そう。
「ただし、失っても支障のない脚の本数には限界があるようだ。野生のクモでは脚が3本以上欠けた個体はわずかしか見つからず、研究室で観察したところ5本脚のクモが作る巣は粗雑だった」のだそうだ。
しかし、これはどうにも……作者が茨城県某所で観察した結果と一致しないような気がする。
第一に、作者は日本のクモしか観察していないし、ちゃんとデータを取ってきたわけでもないので否定しきれないのだが、6本脚になったナガコガネグモが造る円網は同じくらいの体長の8本脚の個体のそれに比べて小さめだったような気がする。これは捕食能力が低下しているので、それに合わせて円網を小さくしたと考えるべきなのではないかと思う。
第二に、一般的にガが円網にかかった場合、クモは素早く駆け寄って牙を打ち込む必要がある(ここでわずかでも遅れると鱗粉を残して逃げられてしまう)。さらに、オニグモやジョロウグモなどは牙を打ち込むのと同時にガの翅を脚で抱え込んで羽ばたけなくすることが多い。脚の本数が少なくなると、この段階で支障が出るのではないかという気がする。
第三に、第四脚を2本失ったジョロウグモがトンボを仕留めた時には、捕帯(幅広い糸の束)を巻きつけずにホームポジションへ運ぼうとして、トンボの翅が円網にくっついてしまったという観察例もある。この子は仕方なく、その場所でトンボを食べ始めた(これが「支障」かどうかは微妙だが)。
第四に、最近観察した体長25ミリほどの8本脚のジョロウグモは、体長10ミリほどのガを仕留めた時に2本の第一脚の爪を円網に引っかけてぶら下がり、第二脚と第三脚4本を使って獲物を保持して、第四脚2本を交互に使って捕帯を巻きつけていた。遊んでいる脚などありはしなかったのである。第二脚が1本減っても獲物を保持することはできそうにも思えるが、ジョロウグモの場合、円網の角度と獲物の大きさによっては、第二脚の片方を使って円網を押し、捕帯を巻きつけるためのスペースを作る場合があるのだ。
最後に、雌のタイリクキレアミグモの体長は最大11ミリらしいのだが、この「ハエ」の体長がわからない。実験室で一般的に使われるショウジョウバエは体長3ミリクラスだが、ヒツジバエ科には体長35ミリという大物もいる。タイリクキレアミグモが狙っている獲物も本来の捕食行動も不明だが、獲物の大きさが10倍以上に変化しても「支障がない」のだろうか? さらに厳しい見方をすれば、わざと「支障がない」サイズのハエを選んだという可能性も考えられるだろう。作者がパスケ氏の立場で、しかも用意した仮説に対して肯定的なデータが得られなかった場合は、当然そこまで考慮する。〔考えすぎだr、いくらなんでも〕
いやいや、フランスの研究事情については詳しくないのだが、日本ではそこまでしないと論文を書けないこともあり得るのだ。論文が書けなければ、スポンサーに「仕事をした」と認めてもらえない可能性も出てくる。「研究不正だ」と糾弾されない程度のトリックは使うべきだろう。
この記事はクレイグとバーナードの「隠れ帯の誘引効果説」と同じで、タイリクキレアミグモがどんなクモなのか、どんなハエを使って実験したのかがわからないことには正しいか、正しくないかという議論すらできないということだ。
こういう天動説のようなヨタ論文は日本にいるクモで追試をして、「日本でも成立する」ということを確認してから鵜呑みにするべきだと作者は思う。〔それは「鵜呑み」とは言わないんじゃないか?〕
次回予告
人間が人間になれたのは足が遅かったから。
次回「二足歩行」人間が人間になる前の人間はどんな人間だったんだろう?
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二足歩行
足首の専門家だというジェレミー・デシルヴァ氏の『直立二足歩行の人類史 人間を生き残らせた出来の悪い足』を読み終えた。
しかし……この本の帯に書かれている「人類がヒトになれたのは足が遅かったから」というのはいったい何なんだ? 人類がヒトではなかった時代があるということなのか? 念のために「人類とは」で検索してみると、そのトップにはウィキペディアの「人類(ホモ属ヒト科の種)」「人類とは、個々の人間や民族などの相違点を越える《種》としての人間のこと。この用語には、「生物種としてのヒト」という側面と、「1つの《種》として実現すべき共同性」という側面がある」が出てくる。さらに「ヒトとは」で検索してみると、「ヒト(霊長目ヒト科)」「ヒトとは、広義にはヒト亜族に属する動物の総称であり、狭義には現生の人類、ホモ・サピエンス・サピエンスを指す。人間とも言われる」などと書かれている。つまり、「人類がヒトになれた」というのは「人間が人間になれた」という意味にもなるわけだ。人間が人間になる前の人間というのはどんな人間なんだろう? わからん。
まあいいや。これは多分、文藝春秋社に「人類はヒトではない」という考え方をしている人間がいた、という程度のことなんだろう。「わかりやすい日本語を使って欲しい」などと考える方が悪いのである。
さて、この本の「第一章 人間の歩き方」には「二足歩行は並外れて足が遅く、捕食されやすいのに、なぜ人類は繁栄したのか? ダーウィンやダートの仮説は、残念ながら間違いだ」と書かれているのだが、これは残念ながら間違いだ。例えばダチョウも二足歩行なのだが、彼らの最高速度は時速70キロに達するらしい。これを「遅い」と言えるのか? それとも翻訳者が「直立」の2文字を書き忘れただけなのか?
まあいいや。先へ進もう。第一章には「研究者はよく、二足歩行を「制御された転倒」と表現する。片足を上げると、身体は重力によって前方および下方に引っ張られる。もちろん、転んで顔をぶつけるのは嫌なので、足を前に伸ばして地面に下ろすことによって身体を支える」という記述もあるのだが、これも間違いだ。やってみればわかるのだが足を上げても前方に引っ張られることはない。直立二足歩行は体の重心を少し前に移動することによって発動するのだ。この状態で体重を支えるためには片足を前に出す必要があるというだけのことでしかない。足首屋さんは物理学など必要としないのだろうな。
次は「「足が遅く、転びやすい」という特徴は、絶滅の原因になりそうに思える。われわれの祖先がライオンやヒョウやハイエナの祖先である俊足の大型肉食獣と隣り合わせに生活していたことを考えればなおさらである。だが人類は生き残り、繁栄している。だから、二足歩行には、その弱点を上回る利点が必ずあるはずだ」。これも「直立二足歩行」の間違いだと思うが、作者は利点なんかなくても生き残れると思うぞ。例えばキリンは首が長いという弱点を背負わされてしまった。つまり、地面に生えている草に口が届き難くなったわけだ。さらに森の中では木の枝に首が引っかかって思うように歩けないという状態になったかもしれない。そこでキリンはしかたなく森から草原に出た。するとそこには、ちょうどいい高さにアカシアの葉があったので、それを食べることでキリンは絶滅を免れた、というのが作者の考えるシナリオだ。利点などなくても、弱点を許容するような環境があるとか、弱点を克服する努力をすることによって絶滅を免れることは十分に可能なのだ。ちなみに作者は喘息持ちで、呼吸が止まるような大発作を起こしたこともあるのだが、医学の進歩という環境の変化のおかげで今も生き残っている。
その先ではナックルウォーク(チンパンジーやゴリラ式の四足歩行)に続いて、ドイツの千百万年前の地層から出土したダヌビウスという類人猿の話が出てくる。「ダヌビウスの化石は、ヒトと類人猿の共通祖先が木の上で二足歩行していたことを示しているのかもしれない。両手を挙げて木の枝をつかみ、熟した果実が生っているところまで二本足で枝の上を歩いていったのだろう」というわけだ。このダヌビウスがアフリカへ渡って、人類やチンパンジー、ゴリラなどの祖先になったのだろうということらしい。このダヌビウスの大きさがわからないのだが、小型の類人猿なら枝の上を歩くのもいいかもしれない。おそらくチンパンジークラスの大きさになると枝の揺れが大きくなるので、枝に前肢の指を引っかけてブラキエーション(枝渡り)をした方が有利になるのだろう。
さてさて、何度も言うようだが、作者は「股関節が直立型になってしまえば直立二足歩行するしかないだろ」という考え方をしている。足首から先がサルのような枝をつかめる形だろうが、ウマのようなつま先立ちだろうが、大後頭孔(頭蓋骨に開いている延髄が通る穴)の位置が下だろうが、後ろだろうが関係ない。股関節が直立型になってしまったら四足歩行することはできないはずだ、と。これは乱暴だが、シンプルで論理的だと思っているのだが……キリスト教徒は気に入らないだろうな。
その先では「広がるホミニン」としてホモ・エレクトスが登場する。アフリカのナリオコトメ川の土手で発見されたナリオコトメ・ボーイだ。「ナリオコトメ・ボーイの脳はすでに大人と同じサイズに達していたが、現生人類の三分の一の大きさしかなかった」のだそうだ。とは言っても、初期の猿人サヘラントロプス・チャデンシスの脳は現生人類の約四分の一だったらしいから、「もう少しで3倍です!」と言えるくらいには大きくなったわけだ。
あれれ、ちょっと待てよ。サヘラントロプスはアフリカから出ていないよな。ホモ・エレクトスはアフリカを出て、西はスペインから東は東南アジアまで進出している。そしてホモ・サピエンスはヨーロッパはもちろん、シベリア・北アメリカ経由で南アメリカの南端まで、さらに東南アジアから海を渡ってオーストラリアにまで達している。これは脳容量が大きいほど遠くまで移動しているということなんじゃないか? そこで、研究者の皆さんには嗤われそうだが、体育会系のSF者である作者はあえて言おう。「頭が重くなる事によって倒れやすくなる。その転倒モーメントの増加によって歩行の効率が向上し、遠くまで歩いて行けたのだ」と。〔長いぞ〕
またネアンデルタール人の脳が現生人類よりも大きかったのも、彼らは身長が低くてがっしりした体型だったので、十分な転倒モーメントを得るのには脳を重くする必要があったのだという説明もできるかもしれない。
この仮説に対しては、脳のような多くのエネルギーを消費する器官をただの重りとして使うのは合理的ではないという意見も出ると思う。確かに石頭恐竜のように頭蓋骨で重くするというやり方もあったわけだが、それ以前に、地上で直立二足歩行をするということ自体が合理的ではないだろう。
突然変異はランダムに発生するものだ。背負ってしまった弱点は運命として受け入れ、そのままで生き残る努力をするしかないのが生物なのである。
次回予告
二足歩行か直立二足歩行か。
次回「〇〇の人類史」それが問題だ。
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〇〇の人類史
S氏の『〇〇の人類史』を読み終えた。
この人はどうにも……「~だ」「~である」と、語尾を断定形にすれば不確かなことでも正しい情報だと思い込ませることができると考えているような印象があるので作者は嫌いなのだが、S氏は次から次へと本を出しているのである。今の日本には断定形を使われると疑うことなく信じてしまうような素直な人間が多いのだろうな。そういう生き方は楽なのだろうが、残念ながら作者は、人間は嘘をつくということを知っているのだ。
S氏が信用できないことを表す文章の1つが第八章にある。人間の歩行速度を時速4.8キロとして、「この速度で地球の端から端まで、たとえば北極から南極まで歩いたら、どのくらい時間がかかるのだろうか」「北極から南極までは2万キロメートルなので、時速4.8キロメートルで歩くと、だいたい半年かかる。何万年という時間に比べたら、あっという間である」というのがそれだ。その先には「まあ、これは北極から南極まで陸続きで、しかも山や谷のない平坦な地形だと考えた場合だ現実とは異なるけれど、それにしても半年とは短い」とも書いてある。
計算してみればわかるが、時速4.8キロで24時間歩き続ければ115.2キロになるから、このペースで歩き続ければ約174日で2万キロに達する。しかし、だ。かの有名な24時間マラソンの記録を見ると、2009年にイモトアヤコ氏が約127キロ、2008年にはエド・はるみ氏が113キロを走っているのだが、それ以外に単独走で100キロ以上走ったのは、2014年の城島茂氏(101キロ)、2015年のDAIGO氏(100キロ)、2016年の林家たい平氏(100.5キロ)しかいない。24時間で100キロ以上移動するのはかなりの重労働なのである。2万キロだと、その200倍だ。さらに、歩きながら食べるにしても、食べ物を探す時間は必要だろうし、休憩はしないとしても睡眠を取らないわけにはいくまい。また暑いのはともかく、寒い地方へ向かうなら防寒具もいるはずだ。「偉そうなことを言うのは、2万キロを174日間で歩き通してからにしたらどうですか」と作者は言いたい。
もう1つ、こちらは笑える話なのだが、「アフリカのホモ・エレクトゥスの平均身長は170センチメートルだったという研究結果もあるので、アウストラロピテクスに比べれば、かなり身長が高くなったことは確かだと考えられる」のはいいとして、「ホモ・エレクトゥスはどうして身長が高くなったのだろうか。それは、おそらく長距離を歩くために、脚が長くなったからだろう」って、それはラマルクの「用不用説」じゃないのか? この場合、科学的に正しい表現は「まず脚が長くなった。その結果、長距離を無理なく歩けるようになった」になるのではないかと作者は思う。
さらに第四章。「多くのヒヒは多夫多妻制の社会を作るが、この場合、どの雌が産んだどの子が、自分の子なのかわからない」ことを理由にして「一夫一婦制の社会ならばどうなるだろうか。この場合は、ペアになったメスが産んだ子は、ほぼ自分の子と考えてよい。したがって、直立二足歩行によって食物を運び、「生存や繁殖を有利」にしてあげた子は、自分の子だ。自分の子には直立二足歩行が遺伝するので、その子が生き残って大人になれば直立二足歩行が遺伝するので、その子が生き残って大人になれば直立二足歩行をする。だから直立二足歩行をする個体は増えていくことになる」と書かれているのだが、ここまでの文章には間違いと疑問点がいくつかある。
第一に、チンパンジーを見ればわかるように、大量の食物を運ぶのに必要なのは二足歩行であって、直立二足歩行ではない。しかも両腕が空いている時には四足歩行ができる。常に直立する理由にはならない。第二にメンデルの遺伝の法則が成立するならば、「(すべての)自分の子に直立二足歩行が遺伝する」のには父と母の両方が直立二足歩行の遺伝子を持っていることが必要であるはずだ。片親が四足歩行なら一部の子はどうしても四足歩行になるだろう。第三に雌が浮気しないという保証がどこにあるのか。さらに、一夫一婦制で二足歩行が必要になるのは大人の雄だけだ。雌にも子供たちにも二足歩行する必要がない。
その先の「他の霊長類にはない特徴」もかなり不適切だ。「疎林や草原のような危険の多い環境では、ヒヒのように集団生活をしなければ暮らしていけない。しかし、集団生活の中でペアを作ったのは、人類が初めてなのだ」。ほら「なのだ」が出た。しかもその先では「確かに思考実験においては、一夫一婦的な社会であれば食料運搬仮説は無理なく成り立ち、直立二足歩行は進化するのである」と来た。つまりS氏は、その方が都合がいいからという理由だけで無理のある仮定を導入し、その上に推論を積み重ねて、最後に「~である」と決めつけているのである。
まあいいや。作者がどうにも気になるのは第三章の「直立二足歩行に並ぶ、人類の最も基本的な特徴は、犬歯の縮小である。それではなぜ、人類の犬歯は小さくなったのだろうか」「それは犬歯を使わなくなったからだ。使わないのに、わざわざ大きな犬歯を作ったら、余分なエネルギーが掛かる。たとえば、余分にエサを食べなくてはならない。それは無駄である。そのため自然選択によって、人類の犬歯は小さくなったのだ。ここまでは、まず間違いない」。おお、新たな断定形「間違いない」が現れたぞ。「自然選択様を信じれば極楽往生できるのは間違いない」のだな。
冗談はともかく、確かに犬歯の縮小は大きな謎である。作者はその謎を解く鍵は初期人類と同じような環境で四足歩行しているヒヒにあると思う。
この本の第六章には「ヒヒの身の守り方は、4つほどあると言われている」として、第一に体を大きくすること、第二に速く走ること、第三に牙(大きな犬歯)、第四に群れ(集団)を作ることとしている。特に第三の牙については「ヒョウはヒヒの捕食者だが、日中はヒヒを襲わないという。それはヒヒに牙を使って反撃されるからだ」という説明がある。いくらヒョウでもヒヒの群れが牙を剥いて威嚇してきたら恐怖を覚えるのだろう。
また、作者がジョロウグモの狩りを観察した範囲では、彼女らは自分の体長の1.5倍以上の獲物には飛びつかない。食欲と危険度を天秤にかけて、どうしても食べたい場合には慎重に近寄って、脚先でチョンチョンとつつくなどして「安全に仕留められる」と判断してからでなくては牙を打ち込まないのだ。
そこでヒョウの立場に立ってみよう。ヒョウの眼の位置から見上げれば、直立したアウストラロピテクスの集団は巨大な怪物に見えたのではないだろうか? 怪物を演じることで捕食者を撃退することができたとしたならば、牙が小さくなっても大きな問題にはならなかったのだろう。つまり、集団を作ることが牙の代わりになったのではないかというのが作者のシナリオである。
次回予告
これは面白い。目から鱗が落ちる。
次回「すごい進化?」しかし……。
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すごい進化?
最近、リモートコントロール式の翼竜の模型を飛ばすという動画を見つけたのだが、これは何というか……鳥の飛び方じゃないなという印象だった。
鳥の翼は羽毛が存在することによって、上面の膨らみ方が下面よりも大きくなっていて(翼型断面と言う)、こういう翼は前進するだけで揚力を発生させる。
しかし、この翼竜模型の翼は前縁に1本のフレームがあるだけで、その後ろは1枚のシートでできているようだった。この構造で前縁のフレームを上下させると、その動きに遅れてシートが動く。これだと魚が尾びれを左右に振るのと同じ原理で推進力を生み出すことができるわけだ。したがって、翼の角度をやや上向きにしておけばちゃんと水平飛行出来るのである。
ただし、大型翼竜のように翼が大きく重くなると、それを動かすための筋肉が増え、その筋肉の重量を支えるためにまた翼が大きくなるというのを繰り返すことになって、ついには飛べなくなってしまう。そうならないように、アホウドリやコンドルなどの大形の鳥は飛行速度の2乗に比例して増加する揚力を利用した滑空飛行を多用する。さらに、グライダーのような細長い翼は発生する揚力に対して抵抗があまり大きくならないという特徴がある。したがって、大型翼竜も翼型断面の細長い翼で滑空飛行をしていたのだろう(飛べたとして、だが)。
また「大型の翼竜であるプテラノドンやケツァルコアトルスをアホウドリやコンドルと比較して、プテラノドンなら熱上昇気流に乗れただろうが、もっと大型で小回りが効かないケツァルコアトルスでは熱上昇気流の中に居続けることは無理だっただろう」とした論文があったと思うのだが、どんな飛び方をしていたのかわかっていない翼竜と鳥を比較するというのは乱暴過ぎるのではないかと思う。要は「巨大翼竜は飛べなかった」という結論にしたかったのだろうけど。
さて、本題に入ろう。鈴木紀之著『すごい進化』を再読したのである。
「序章にかえて――進化はどれだけすごいのか」には「……本書では、一見すると不合理な形質や生態に焦点を当て、はたして「進化はどれほどすごいのか」を吟味していきたいと思います。やや極端かもしれませんが、あくまで「自然淘汰をできる限りあきらめない」というスタンスでどこまで行けるか試してみます」と書かれている。作者はSF者なので、こういう他の研究者とは違った角度から見ることができる人が好きだし、一点だけを除いて、良いものを読んだという印象だったのだが、前回読んだ時の記憶がまったくない。もうボケが始まっているのかもしれない。〔そうだな〕
……それはそれとして、第二章「見せかけの制約」にはウラナミジャノメというチョウが姫路沖の家島諸島のわずか2キロしか離れていない2つの島で化生(読みは「かせい」。1年間に繰り返す世代の数)が異なるという話が出てくるのだが、これは「昆虫の生活史は温度で規定されている」という常識に反する。なぜそうなるかというと、幼虫の成長に好適な環境があるかどうかの問題らしい。生物を常識だけで理解しようとしてはいけないのだな。
その他にも「小さな親も大きな卵を産む必要性だとか、「孵化しない卵を産むテントウムシ」(これは孵化した幼虫が食べるように用意されるもので、オオヒメグモなども行っている)だとか、いかにも正しそうな感じのする「成虫は幼虫の成長にとって好ましい植物を選んで産卵する」という話も正しいとは言えないというのも興味深い。さらに、雄も生まれてしまう有性生殖のコストは無性生殖の2倍になるから無性生殖を好む昆虫もいるとか、遺伝子組み換えは有性生殖の目的ではなく、結果であるかもしれないとか、目から鱗が落ちるような話が次から次へと出てくるのだ。
ただ、第一章「進化の捉え方」の「湖と川を行き交うイトヨ」だけは問題があるような気がする(イトヨは主に湖沼や渓流などに生息している淡水魚の一種)。
「湖沼と渓流とでは水の流れや生息しているエサ生物も異なるので、同じ種類のイトヨといえども要求される形質が異なってきます。たとえば、湖に生息するタイプではより持続的に泳ぎ続けるのに適した細長い体型をしており、動物プランクトンをうまく食べられるように鰓の構造が発達しています。対照的に、川に生息するタイプでは瞬発力を発揮しやすいようなややずんぐりした体型を持ち、鰓の構造は川底にいる昆虫などの小さな節足動物を食べるのに適しています。これらの形質の違いは、それぞれの環境においてより適したタイプが進化していった結果であると解釈できます」
しかし、湖と川が繋がっている場合には「湖と川それぞれに生息するイトヨもたまには交流することがあり、そこで繁殖が起きれば両者の遺伝子が混ざり合うのです。このように異なる地域の個体どうしで遺伝子のシャッフルが生じることは「遺伝子流動」と呼ばれています」というわけだ。なかなか面白いが、問題はその先だ。
「カナダの名門マギル大学のアンドリュー・ヘンドリー博士らは、川と湖の「非対称な」関係に注目して、遺伝子流動がイトヨの形態に与える効果について興味深いデータを発表しています。流れに逆らって湖から川の上流へと向かうイトヨはそれほど多くないはずです。逆に湖から川の下流へと流されてしまう個体は比較的多いと考えられます。そのため、湖の下流の川に生息するイトヨは遺伝子流動の影響を一方的に受けていると予想されました」
中略
「湖よりも下流に生息しているイトヨは川と湖の中間的な形質になっていることが明らかになりました。その影響は湖に近いほど顕著で、湖から下っていくほどより純粋な川に適したタイプになっていました」
これを何も考えずに読んでいると「おお、なるほど」と思ってしまいそうなのだが、残念ながら作者は黒木登志夫氏の『研究不正』も読んでしまっているのである。
第一に、例えば、白い猫と黒い猫が交尾したとして、生まれてくるのは灰色の子猫になるんだろうか? メンデルの遺伝の法則が成り立つとしたら(これも助手がデータをねつ造していたという話があるのだが)湖タイプと川タイプが交雑すると「中間的な形質」ではなく、湖タイプと川タイプが一定の割合で生まれてくるのではあるまいか。
第二に、湖の下流の川には湖から流れ出したプランクトンも小さな節足動物もいるだろうが、中間的な形質のイトヨはどちらもうまく捕食することができないはずだ。中間的な形質のイトヨがいるとしたら、そういう形質が向いている第三の餌か獲物が存在しているということになるのではないだろうか?
名門大学の博士が書いた論文だからといって、正しいことが書かれていると思い込んではいけないだろう。
次回予告
おばあさんは娘たちの子育てを手伝いました。
次回「おばあさん仮説」おじいさんは……。
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おばあさん仮説
S氏の『〇〇の人類史』の第六章「食べられても産めばいい」では、ヒトは他の類人猿に比べて多くの子を産めるということに言及している。
「現生のチンパンジーの兄弟姉妹には、年子がいない。チンパンジーの授乳期間は4~5年と長く、その間は次の子供を作らないからだ。チンパンジーの場合、子育てをするのは母親だけである。子供が乳離れをするまで世話をするには、子供1人が限界なのだろう」
そのため、チンパンジーの出産間隔は5年から7年になり、12歳から15歳の時期に子供を作り始めて、50歳くらいで死ぬまで子供を作ることができる。「その結果、生涯で6匹ぐらい産むらしい」と書かれている。
さらにゴリラは10歳くらいから子供を産み始めて出産間隔は
4年、オランウータンは15歳くらいから産み始めて出産間隔は7年から9年とされているのらしい。
その先でヒトの話になって「一方、ヒトの授乳期間は2~3年である。しかも、授乳期間が短いだけでなく、授乳している間にも次の子を産むことができる。ヒトは類人猿とは違って、出産してから数ヶ月もすれば、また妊娠できる状態になるのだ」
「しかし、こんなに子供がたくさんいたら、母親1人で世話をするのは不可能である。しかも大型類人猿は、授乳期間が終わったら比較的早く独り立ちするが、ヒトの場合は違う。授乳期間が終わっても独り立ちするまでに長い時間がかかる。その間も世話をしなくてはならない。とても母親だけで面倒を見られるわけがない」
「そこでヒトは共同で子育てをする。父親はもちろん、祖父母やその他の親族が子育てに協力することもよくあるし、血縁関係にない個体が子育てに協力することも珍しくない。保育園のような活動は新しいものではなく、人類が大昔からやってきた当たり前のことなのだ」そうだ。
これは、ヒトの化石から「血縁関係にない個体が子育てに協力」していた証拠が見つかっているという意味なんだろうか? 残念ながら、その辺りの説明は一切ない。となると、強引に「だ」「である」という語尾を使えば何もかも正当化できるという考え方をしているんじゃないか? こういう罠が仕掛けられているからS氏の本は信用できないのだ。
さてさて、その先でいよいよ「おばあさん仮説」の説明が始まる。
「多くの霊長類のメスは、死ぬまで閉経しないで子供を産み続ける。しかしヒトだけは、閉経して子供が産めなくなってからも、長く生き続ける。これはヒトが共同で子育てをしてきたために進化した形質だというのである。母親だけでは子供のせわができないので、祖母が子育てを手伝うことにより、子供の生存率が高くなった。その結果、女性が閉経後も長く生きること(おばあさんという時期が存在すること)が進化したというわけだ」と書かれている。なるほど。しかし、その後で馬脚を現すのだ、S氏は。
「確かに、おばあさん仮説はもっともな話でスジは通っている。でも、すでに述べたように仮説というものはスジが通っているだけではダメなのだ。スジが通っていることと、事実であることは、別のことだからだ。おばあさん仮説を検証することはなかなか難しいようで、今のところ確証はされていない」「とりあえず、おばあさん仮説はわきによせておいて、先へ進むこととしよう」として、おばあさん仮説を投げ出してしまうのである。いやはや、自分の考えはスジが通っていようがいまいが「だ」「である」で押し切ってしまうくせに、都合の悪い仮説はこれである。まあ、この辺りがS氏の限界なのだろう。そこで作者は、おばあさん仮説を雌にとって有利であるかどうかという面から検討してみようと思う(作者は女性が好きなのである)。
まずは現生の霊長類であるチンパンジーとゴリラの群れを比較してみよう。チンパンジーの群れは複数の雄と複数の雌、それに子供たちで構成されていて、雄が子供たちの世話をすることはない。しかし、ゴリラは1人か、あるいは兄弟の雄ゴリラが乳離れした子供たちの世話をするのらしい。
なぜそういう差が生じるのかというと、チンパンジーは乱婚なので、ある母親の子の父親が誰なのかわからないのだ。これでは子供の世話などしないで、せっせと雌と交尾する雄の方が有利になってしまうのだろう。それに対してゴリラの場合は、母親が雄に「はい、これはあなたの子よ。あとはお願いね」と託してしまうのらしい。身に覚えのある雄としては世話しないわけにはいかないというわけだ。
そこでヒトのおばあさんにとっての孫はというと、これは確実に自分の娘の子である。この場合はゴリラの雄と同じで世話をする価値がある。また、複数の子がいる母親にとっても、おばあさんに子供たちをまかせておけるなら、安心して食べ物を探しに行けるという点で有利になるだろう。
ヒトの雄が二足歩行に進化したのは、雌と子供たちのために食料を持ち帰るためだとする「食料運搬仮説」というのもあるのだが、雌のためならともかく、確実に自分の子であるという保証がない子供たちのために、積極的に食料を持ち帰るような雄がいたかどうかは疑問だ(一夫一婦制だったとしても浮気されないという保証はあるまい)。特に雌が次々に子を産める場合は、他の雄と交尾できないように雄の目が届く範囲で食料を探してもらった方がありがたいだろう。この場合でも、浮気して子供を作ってしまう可能性を考えなくていいおばあさんが子供たちの世話をしているなら安心だろう。
作者は思うのだが、雌が次々に子を産めるようになった場合は、血の繋がった複数の雌と子供たちを中心とした群れを形成するのが合理的なのではあるまいか。成体の雄は繁殖用に1匹いればいい。つまり、ゴリラ型の群れである。ただし、これだとボスが交代した時に子供たちが皆殺しにされる可能性が出てくるわけだが、ヒトの場合は長くても数ヶ月待てば交尾できる。それなら待った方がいいかもしれない。子供たちを皆殺しにすると雌たちに嫌われる可能性もあるだろうし。
そうなると、問題になるのはおじいさんだろう。おじいさんも哺乳類の本能として幼子はかわいいと思うだろうが、それは子猫や子犬がかわいいのと同じレベルの「かわいい」だろう。何しろ、その子供が自分の血族であるという保証はないのだから。となると、食べ物を自分で確保できないほど老いた雄は、ただの無駄飯食らいということになるだろうし、食べ物が不足している場合は子供たちが食われてしまう可能性も出てくるかもしれない。
つまり、おばあさん仮説が成立するのなら、おじいさんはいない方がいいのである。なるほど、S氏がわきへ寄せたくなるのはそういうわけなのだな。
次回予告
言論の自由は日本国憲法で保障されている。
次回「嘘八百万 その1」信じる方が悪いのだ。
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嘘八百万 その1
佐藤拓己著『恐竜はすごい、鳥はもっとすごい!』を読み終えた。
この本の「プロローグ すべては低酸素から始まった」には「筆者は鳥と獣脚類に特別な興味を寄せている。鳥と獣脚類は「1つの主題」をもとに、遺伝子、細胞、臓器、そして全身骨格まですべてつくり変えたからだ「1つの主題」とは、「低酸素への適応」だ。空気中での酸素濃度が下がっても持続的にに運動できる能力のことである」中略。「脊椎動物の中で、獣脚類は独自の道を歩んだ。獣脚類は低酸素に適応するため、遺伝子のレベルから肉体まで徹底的に改造した。彼らの戦略の出発点は、ゲノムを半分近く切り捨てることだ。こんな無茶な戦略で、約2億5千万年前には完成形の初期獣脚類であるコエロフィシスを登場させた」
「現在の鳥は、約2億年前の初期獣脚類が獲得した運動能力を受け継いで、空を飛んでいる。驚異的としかいいようがない。この間、哺乳類の先祖である獣弓類はあまり姿を変えていない。体がかなり小型になったくらいだ。鳥の運動能力は、この初期獣脚類の運動能力があってこそ可能になった。初期獣脚類が完成させた、この大変革の過程を、「低酸素への適応」というキーワードで見ていきたい」と書かれている。
要するに、鳥の祖先である獣脚類恐竜は、古生代ペルム紀末から中生代三畳紀にかけての低酸素の時代に、気嚢システムとセットになった空気が一定方向に流れる肺や酸素を無駄なく使えるスーパーミトコンドリアなどを獲得し、同時にインスリン感受性に関与する遺伝子の多くを切り捨てるなどして低い酸素濃度でも活発に活動できるようになったのだということらしい。さらに、中生代ジュラ紀後期に酸素濃度が高くなると、その運動能力を活かして飛行能力を獲得したのが鳥であるというわけだ。
これは素晴らしい。きわめて論理的で説得力がある。しかし、残念ながら他の資料を使ってチェックしていくと多数の嘘やデタラメが見えてくるのだ。
まずは5ページ。エベレスト登頂の歴史が語られている部分には「エベレストの登頂は、山の険しさのために困難を極めたのではない。スイスのマッターホルンの方がはるかに険しい。ただ、酸素濃度が低すぎた。酸素濃度が7%しかなかったからだ」と書かれている。
はい、これは間違い。「酸素濃度」で検索するとわかるのだが、現代の酸素濃度は海面高度だろうが、エベレストの頂上だろうが約21パーセントなのだ。ヒトが高い山に登ると呼吸が苦しくなるのは気圧の低下によって酸素欠乏になるためなのである。まあ、佐藤氏の専門は神経科学、抗老化学らしいから、酸素濃度と気圧の違いを知らないのも当たり前だが。しかし、そうであっても、明らかに間違ったことが書いてある本を出版していいということにはなるまい。
次は6ページ。佐藤氏は鳥の運動能力を説明するためにアネハヅルを持ち出しているのだが、細部に知識不足や思い違いがある。
「アネハヅルはチベットからインドへ向かうために、このエベレストの上空を越える」
渡り鳥であるアネハヅルが越えるのはヒマラヤ山脈であってエベレストではない。もっと低い鞍部があるのにわざわざエベレストを越える動物など人間くらいのものだろう。
「酸素濃度7%、気温マイナス30度C。そして風速30メートルの風が常に吹いているエベレスト山頂付近を越える、アネハヅルの整然とした群れ、初めて見た人はさぞかし驚いたことだろう」
「ツル 飛行速度」で検索してみたら、ナベヅルの飛行速度は時速40キロというデータが見つかった。ツルのような体型の鳥が時速100キロを超える風に逆らって飛ぶことができるとは思えない。これは読者の心理を誘導するトリックだな。
そして、こんな強風が「常に吹いている」ということはおそらくない。それはエベレスト登山の画像をいくつか見てみればわかるだろう。つまり、佐藤氏はその程度の裏取りもせずに解説書を書いてしまったということだ。
さらに、もしも作者がアネハヅルだったならば、その強風を利用する。
エベレストの山頂付近で強い風が吹くのは西から東へ向かって流れるジェット気流が山体に衝突するからだと思う。風でも水流でも、その途中に障害物を置くと、その下流側に渦が生じる。風が強ければそれだけ強い渦が生じるだろう。その中には、チベット側からネパール側へ向かう気流も逆向きの気流もあるはずだ。追い風に乗ることができれば時速40キロの飛行能力でもヒマラヤ越えは可能だろう。佐藤氏はおそらく、流体力学やアネハヅルの飛行能力についての知識がまったくないのか、あるいは読者にそこまでの知識はないと考えたんだろうな。「鳥はすごい」と言う印象を与えるためなら嘘も方便、だまされる方が悪いというわけだ。
次は13ページの「酸素濃度の変遷」というグラフ。
そのキャプションには「ペルム紀の前の石炭紀末期には、大気中の酸素濃度が35%程度に達し、空前の高酸素濃度を記録した。続くペルム紀の終わりまで、酸素濃度は徐々に減少していたが、30%程度を維持していた」中略。「PT境界(ペルム紀と三畳紀の境界)の後、三畳紀に酸素濃度は3分の1に低下した。これがジュラ紀中期まで約数千万年続いたとされる」中略。「読者に概略をつかんでいただくために、酸素濃度の推移については論文の内容を大幅に簡略化したものである」と書かれていて、グラフもそれを表している。
しかし、「酸素濃度の変化の歴史」で検索してもこんなグラフは1枚も出てこない。ピーター・D・ウォード著『恐竜はなぜ鳥に進化したのか』に載っているグラフでも、デボン紀の大量絶滅の時期から上昇し続けた酸素濃度のピークはペルム紀にある。その後、酸素濃度は急激に低下していくのだが、三畳紀に15パーセントくらいまで低した後、いったん18パーセント程度まで回復してから、ジュラ紀の始め頃に少し低下しただけで、現代の約21パーセントまでゆっくり上昇していくのだ。
ただし、『恐竜はなぜ鳥に進化したのか』のグラフには誤差の範囲も描き込まれているから、その誤差の範囲内で自分にとって都合のいいグラフを描いたということなのかもしれない。誤差の範囲を利用すれば石炭紀の酸素濃度は35パーセント程度になるし、それが「3分の1」になるのもジュラ紀の初期だ。というわけで、このグラフは改ざんかねつ造だ。したがって、このページから先はまったく信用できない。
次は27ページの「コエロフィシスは酸素濃度10%の世界に棲んでいて、これに完全に適応している」。
ウィキペディアの「コエロフィシス」「のページを開いてみると「後期三畳紀から前期ジュラ紀(約2億1600万年前~1億9600万年前)、北米に生息した初期の獣脚類である」と書かれている。つまり、コエロフィシスは酸素濃度が一時的に上昇した時期に生まれて、酸素濃度が最低になった頃に絶滅しているのだ! 全然適応してないじゃないか。
「嘘八百万 その2」に続く
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嘘八百万 その2
前回に引き続き『恐竜はすごい、鳥はもっとすごい!』を見ていこう。
今回は34ページの「コエロフィシスは、体長が2メートルから3メートルほどの獣脚類で、体高50センチ程度」から。
これはちょっとややこしい。ウィキペディアの「体長」のページには「哺乳類、トカゲ、サンショウウオのように、尾を持つ動物の場合、動物学では頭胴長を以って体長とする」「頭胴長とは尾を含めない体の長さであり、全長から尾の長さを引いたものである。全長は頭部の先端(吻端)から尾の先端(尾端)までの長さを指す」とされている。ところが、「コエロフィシス」のページには「……体長3メートルの小型の恐竜であった」と書かれているのだ。これでは動物学の素人さんが体長と全長の使い分けができないのも当たり前だな。ちなみに、群馬県立自然史博物館監修の土屋健著『生命の大進化40億年史 中生代編』には「全長は3メートルほどの恐竜だ」と書いてある。
次は46ページの「ジュラ紀になって酸素濃度が増加すれば、獣脚類には
酸素代謝に大きな余力が生じる。この大きな余力をもって、獣脚類は3つの方向に進化した」。
もちろん、ジュラ紀になっても酸素濃度は下がり続けている。コエロフィシスも絶滅した。酸素代謝に余裕が生じたとするなら、新たに低酸素の環境に適応した獣脚類が現れたということになるだろう。
その先には獣脚類の進化の方向について「1つは、身体を大型化して瞬発力を増加させるという方向(例:ティラノサウルス)、もう1つは、小型のまま卓越した運動能力を身につけるという方向(例:ドロマエオサウルス)、そして最後は、飛行能力(例:アーケオプテリクス)である」という記述もある。
いやもう、何と言ったらいいのか……。第一にティラノサウルスが生息していたのは白亜紀の末期である。ジュラ紀にティラノサウルスを持ち出すなど八千万年早いわ!
第二に、少なくとも成体のティラノサウルスの骨格は力強く噛む方向へ進化した結果だと作者は思う。「瞬発力を増加」するのならコエロフィシスのスリムな体型のまま脚力を強化するべきだろう。いかにも素人さんらしい思いつきである。
なお、ティラノサウルスの後脚の骨には高速で走る恐竜の特徴があったという話もあるのだが、これは若くて体重が軽いティラノサウルスは獲物を追いかけるという狩りをしていたためで、成体になっても基本的な骨格は変えられなかったというだけのことなんじゃないかと作者は思う。
そして、ドロマエオサウルスが生息していたのも白亜紀後期である。この頃の酸素濃度はだいたい18%くらいまで上昇しているらしいし、ウィキペディアでは体長約2メートル(これはおそらく「全長」だろう)、体重15キロとされているから活発に動けたとしても不思議はない。
アーケオプテリクス(始祖鳥)はちゃんとジュラ紀に生息していた。しかし、始祖鳥の顎には歯が生えていたし、翼にはかぎ爪のある3本の指があったし、長い尾には骨が通っていた。その上、現生の鳥が羽ばたくのに使っている飛翔筋が付着する竜骨突起も発達していない。つまり、現生の鳥と比べれば余計な骨の分重い上に、羽ばたく力も弱かったわけだ。始祖鳥はその爪を使って木に登り、そこから滑空するくらいの能力しか持っていなかったんじゃないかと作者は思う。
次は47ページの「内温性である利点は、外温性の動物が動き始める前に運動をすぐに始めることができることだと述べたが、三畳紀の環境では、この利点を生かせない。それどころか、大きな負債になる」。
これはおそらく正しい。獣弓類が生まれた古生代ペルム紀前期は酸素濃度が高く、氷河が形成されるほど寒冷な気候だったらしい。そういう環境下で進化した獣弓類は、三畳紀の酸素濃度が低くて気温が高い環境向きの動物ではなかっただろう。
しかし、その先の「これは先ほど見た、獣弓類のプラケリアスが、少し運動をするとすぐに熱中症になるのを見ればわかる」ってのは何なんだ? 2億5千万年も前の獣弓類をどうやって見たんだ?「私の前世はコエロフィシスなのです」などと言うつもりか? 実に非論理的、非科学的だな。
次は53ページの「後期獣脚類は内温性に移行しているため、この膜(頭骨の眼窩の前に開いている穴を覆っている膜)はかなり厚い筋肉の膜となっていたはずだ。これに対して初期獣脚類では、本当にペラペラの薄い膜で、ここに毛細血管が縦横に存在して体熱を逃がすシステムとして機能していた」。
この「……機能していた」という断定もどうかと思う。確かに前眼窩窓を放熱に利用していたという仮説は説得力があるが、「機能していた」と言い切るためにはタイムマシンに乗って三畳紀まで行って観察する必要があるはずだぞ。
さらにその先には「彼らが興奮した時は、この前眼窩窓に血液が流れて赤く染まった。これは外敵や恋敵への有効な威嚇となった。前眼窩窓が大変に薄い膜で覆われていたとすれば、彼らの顔のイメージは大きく変わる」こうなると立派なSFである。ああ、そうか。この本はSFだったのだ! いかにも科学解説のような見た目なのでだまされてしまったが、これはSFだったのだな。科学解説を装ったSF……これはきわめて先鋭的な作品かもしれない。
冗談はそれくらいにして、次は54ページの「獣脚類のビジュアルの中で最も印象的なのは、完璧な直立二足歩行である。このような特徴的な行動と構造は、低酸素への適応のためであるのは疑問の余地がないと思う」中略。「背骨を大腿骨の真上に水平に持ち上げているのが特徴で、このための結合部が特徴的な構造をした骨盤である。この骨盤の構造こそが、恐竜の恐竜たる所以であるといってよい」。
やれやれ……「背骨を大腿骨の真上に」置くためには、傘お化けのように一本脚になるか、背骨を2本にするしかないだろうに……と思ったら、56ページには「恐竜の仲間の共通点は、骨盤の構造だ。骨盤に対して、大腿骨が真下に出ているという点だ」と書かれていた。残念。
なお、この本には書かれていないが、ジュラ紀には現生のワニも含まれる偽鰐類(ぎがくるい)の中からも脚を真下に向けた者たちが現れている。その中にはポポサウルス科のように前肢が後肢より短い、いかにも二足歩行という骨格の偽鰐類もいた。おそらく、低酸素の環境では直立した方が、さらに後肢だけで二足歩行した方が呼吸をじゃましないという面で有利になるのだろう。
それなら哺乳類の祖先である獣弓類も二足歩行に移行すればよかったんじゃないかということになるわけだが、おそらくしっぽが短かったので四足歩行するしかなかったんだろう。二足歩行するために、もう一度しっぽを長くするわけにもいかなかっただろうし。
「嘘八百万 その3」に続く
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嘘八百万 その3
今回は62ページの「コエロフィシス――数百頭の群れ」から。
ここにはまず「コエロフィシスは1頭ではまったく非力である。噛む力は弱いし、体も小さい。1頭でプラケリアスを倒すことはできない。一方で、俊敏なコエロフィシスをプラケリアスが倒すのも、大変に困難である」。
「コエロフィシスの顎の骨は、骨を砕いたり、筋肉を切り取ったりすることはできないから、小さな動物をそのまま丸呑みにすることくらいしかできない。2億2千万年前くらいまでは、小さな群れで、小動物を捕まえて丸呑みにする生活をしていたに違いない」のだそうだ。
そこでウィキペディアの「コエロフィシス」のページを開いてみると「体重は30キロに満たなかったと考えられている」と書かれている。そして「プラケリアス」はというと「体重は1トンを超すとされる」中略。「おそらく食物は若い葉や芽など」だそうだ。
コエロフィシスの体重を30キロ、プラケリアスを1トンとすると体重差は33倍以上だ。ヒトに例えるなら新生児と体重100キロの巨漢くらいの比率になる。作者がコエロフィシスならプラケリアスなんかには近寄ろうとさえ思わないで、楽に仕留められるような小型の獲物を狙う。また、植物食のプラケリアスがコエロフィシスを倒すことには何の意味もない。
しかし、佐藤氏は諦めない。63ページでは「三畳紀末期(約2億1千年前)になると、状況は一変する」中略。「コエロフィシスはさらに数が増加し、数百頭の群れで移動して、パンゲア大陸中を荒らしまわるギャングのような存在になったのではないかと思う」「たとえば、以下のような行動が十分にありえると思う」中略。「数百頭の群れで1日数十キロから数百キロを移動し、プラケリアスの群れを探す」中略。「プラケリアスの群れの匂いがすると、その方向に数百頭の群れが一目散に高速走行して、あっという間に追いつき、数十頭のプラケリアスの群れの周囲をぐるっと取り囲む」のだそうだ。まあ、SFならどんなデタラメな設定をしても面白ければ許されるのである。
ちなみに、ウィキペディアによると偶蹄目ウシ科のヌーは「2月から3月にかけての小雨期に雄と雌のグループに分かれ、雌のグループは集団で出産を行う。4月にかけてそれらの集団は次第に合流すると、最終的には数万から数十万等の規模に膨れあがり、エサの多い草原を求めて大移動を始める」のだそうだ。ライオンの群れもこれを狙うわけだが、数十万頭のヌーの群れを襲うためにライオンが数百頭の群れを作ることはない……と思う(あまり詳しくはない)。
ライオンの群れのメンバーは通常、2頭から3頭の雄の成獣と4頭から12頭の雌、そして子どもたちだそうだ。ヌーの体重は成獣で200キロから250キロで、実際に狩りをするライオンの雌の体重は120キロから200キロらしいから、それこそ数百頭の群れを作ってもいいはずだが、群れを大きくしないのだ。それはなぜか? 簡単に言ってしまえば肉食獣だからである。
ヌーのような草食獣の場合、草は逃げたり反撃したりしないのだから、草が有る限り、いくらでも群れを大きくできる。それこそ数百万頭でも数千万頭でも。
しかし、獲物を仕留める必要があるライオンの場合はそうはいかない。数百頭の群れを作っても、その全員が食べられるだけの獲物を仕留めることはできないだろう。獲物を食べられなかったメンバーは群れを出て、新たな群れを作ることになるんじゃないかと思う。これはおそらく、オオカミでもハイエナでもコエロフィシスでも成立するはずだ……と思う。まあ、佐藤氏はどうしてもコエロフィシスの数百頭の群れを作りたかったんだろうし、SFなら数千頭や数万頭のコエロフィシスの群れを作ってしまっても問題はないわけだ。
65ページではコエロフィシスとヘレラサウルスを比較している。
「初期獣脚類には、コエロフィシス(約2億2千万年前~約1億9千万年前)の他に、それ以前に存在したヘレラサウルス(約2億3千万年前~約2億2千万年前)がいる。時間的には、ヘレラサウルスが絶滅してコエロフィシスが世界中に分布しているところを見れば、ヘレラサウルスはコエロフィシスとの生存競争に敗れて絶滅したと見えなくもない」のだそうだ。13ページのどう見ても正しくない「酸素濃度の変遷」のグラフが正しいと仮定すればそのように見えないこともないかもしれない。
しかし、ピーターD・ウォード著『恐竜はなぜ鳥に進化したのか』のグラフの方が正しいと仮定すると、ヘレラサウルスは酸素濃度が15パーセントくらいまで低下した時期に現れ、18パーセントくらいまで上昇した時期に絶滅したことになるし、代わって現れたコエロフィシスが絶滅したのは12パーセントまで低下した時期になる。ということは、どちらも酸素濃度の変化に対応しきれなかっただけ、という可能性もあるんじゃないかと作者は思う。論文を書くような人間ならデータねつ造のやり方くらいは知っているだろうしな。
いやになってきた。174ページで終わりにしよう。
ここには「ワニやトカゲなども隔壁式の肺を持ち、一方向の空気の流れを可能にしていたことが20年ほど前からわかってきた。これは進化論的に大きなインパクトがある。なぜならペルム紀においてすでに、双弓類は隔壁式の肺を持ち、肺の一方向の流れを可能にしていたことを示すからだ。これは酸素濃度が徐々に低下するペルム紀の環境の中で、より多くの酸素を取り入れるための工夫の一つだったのだろう」と書かれている。
これは気になったので「ワニやトカゲの肺」で検索してみると、『世界の顔』というサイトに「トカゲの息の謎:一方向の気流は2億7000万年前からあるかもしれない」という記事が見つかった。そこには「ユタ大学の新しい研究によると、オオトカゲの肺では空気が主に一方向に循環して流れる。これは鳥類、ワニ、そしておそらく恐竜にも共通する呼吸法である」中略。「この呼吸パターンが2億7000万年前に始まった可能性が浮上しました」と書かれている。
しかし、このトカゲの肺は鳥やワニの肺とは構造がまったく違う。というわけで、一方向の気流はオオトカゲの祖先で約3000万年前、ワニ、恐竜、鳥類の元となった主竜類で約2億5000万年前にそれぞれ独立して進化した可能性もあるのらしい。つまり、呼吸の効率を上げた方が有利になるような環境下で起こった収斂進化だったかもしれないというわけだ。
どうも恐竜や鳥も含めて双弓類というものは、環境の変化に対して、より積極的に対応することができるようだ。ただし、作者は酸素濃度が急降下していくペルム紀末期の大量絶滅すら肺の構造を変更せずに乗り越えてしまった獣弓類の子孫なので断言はしかねる。
2024年5月。科学雑誌や解説書を読んでもアイデアが出なくなってしまった。もう限界なのかもしれない。