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空色の傘

作者: 暇寝 転寝

《2021年 夏休みコンクール応募作品》

「あ〜・・・」


 疲れた。帰るや否や倒れるようにベッドに倒れ込んだ。ここ最近働き詰めでどうにかなりそうだ。何か癒しがほしい所。外はしとしとと雨が降っていた。優しい音で意識も体も、まるで地面に染み込む水の様にベッドに沈んでいく。


 私は雨が好きだ。優しい音で、心が洗われる。もう一つ、昔のことを思い出す。それは、私が雨が好きになった大きな理由でもある。


 小学校六年くらいの事。ああ、単に私の夢幻だったのかもしれないな。沈みゆく意識の中、考えた。



 それは昔々のことで。



「あらま」


 ここ最近、気持ち良い晴れが続いていた。久しぶりに雨が降ったので、しばらく出番のなかった傘を手に取る。いざ開くと、少しまずいことになっていた。言うほどのものでもないが、何時ぞやの雨で傘の骨が錆びついていた。よくよく見てみると、生地に錆が移ってしまっている。


 ここまでなら、気になるほどではないだろうが、どうにも生地に移った錆が目立つ気がした。


「お母さん。これそろそろ買い替えたい」


「錆が気になるわね、今度買いに行きましょう。ほらっ遅れるわよ」


「傘、どうしよう」


 母は棚からゴソゴソと探る。


 「ナギサ、この傘持っていきなさい。」


 渡されたのは、チェック柄で薄灰色で、しかも男物のなんとも地味な傘だった。今自分が持っている傘と比べるとその地味さに少しばかり躊躇してしまうが、今の傘は、どうしても錆が目立っていてしまう。何より先程急かされたように、もう家を出なければならない。


「ありがとう。行ってきます!」


「いってらっしゃい、気をつけなさいよ。」


 薄灰色の傘を手に取り、急いで学校に向かった。


 ナギサは年相応に、可愛いものが好きだった。こんな灰色の地味な傘なんてあまり差したくはない。申し訳程度のチェック柄も、何も意味は成さない。


 当時小学六年生。あと半年もしたら中学に進学し、私服を着る機会が少なくなる手前。そのためこのころは自分の好きな可愛い服を着ることに対しての執着に、更に拍車がかかっていた。傘もそれに合わせて可愛らしいものにしていたのだが、今は薄灰色のなんとも地味な傘。見ると噛み合うはずがなく、ナギサは気にする必要もない、無いような視線を過剰に気にしていた。先程から『地味な傘』としつこいようだが。ナギサにとってはかなりの死活問題なのだ。


 雨が降っていたのは少しの間だけで、ナギサは傘を差す必要はなくなった事に、いつもより上機嫌で学校に向かった。


 しかしそれこそ最初だけで、


「・・・」


 恨みがましそうに正面玄関のガラス戸の向こうをナギサは見つめていた。


 五時間目辺りから雨が降り始めたので何となく察してはいたが、どうにか止んでくれとばかりに陰ながら天を仰いでいたのはここだけの話である。


 祈りも虚しく、雨は止まなかった。


 手元の傘を一瞥し、肩を落とす。今日、何度か友達に、「あれ、傘変えたの」と何度か言われた。何でもない一言だが、地味な傘というこの時のコンプレックスに目をつけられ、指摘されたようで、嫌で嫌で仕方がなかった。


 流石に傘を差したくないそれだけの理由でずっと駄々をこねるような年ではない。今日は何が何でも急いで家に帰ってしまおうと思い、正面玄関を出た。さほど強い雨ではなく、これなら差さなくても良かったのではという考えが頭をよぎったが、濡れるのは嫌だったのでそのまま足早に家に向かった。



 雨脚がだんだん強まってきた。先程までしとしとと降っていたのとは打って変わってザザザと厚みのある音を立てて降りつけてくる。沈んだ気持ちで歩いていると、どこからかピアノの音色が聞こえてきた。どこかで聞き覚えがあった気がした。音の出どころはどこかと探してみる。



 前は?違う。


 後ろは?違う。


 横は?違う。


 上は?


傘からは、雨にあたった音がしているはずだった。しかしどうだろう。その雨音はどこか懐かしいピアノの音に変わっていた。そこでもう不思議なのだが、もう一つ、上を見上げて驚いたことがある。


 この傘は、ビニール傘のように透けているわけでもなく、内側に絵が描かれているわけでもない(まるで興味がなかったので描かれていたかどうかなんて知らないが)はずである。そもそも絵が描かれているのだったら、青空とかもう少し明るいものを描くべきだろう。それなのに雨が描かれているのは少し違うと思う。


 そう。内側に雨が見えるのだ。丸で傘が透明になったように、空が透けて見えるのだ。


 ナギサは驚いた。大降りの雨の中で思わず傘を外側から確認するくらいには驚いていた。しかし、いくら確かめようとも外側は変わらず地味な薄灰色だった。


 どうしてそうなったのかはよく分からなかったが、どこかで聞いたようなピアノの音と、不思議な傘の内側の景色で、さっきよりは明るい気持ちで家に帰っていった。



 ナギサは家に帰ると、まずベッドに飛び込んで今日一日の疲れを吐き出した。そしてそのまま仰向けになり、先程の傘を思い出す。ピアノの音はひさしの下へ入ると、音は止んだ。やはり雨音がピアノの音に変わっていたのだろう。傘の内側の景色も、閉じる直前までも変わることはなかった。


 ただの地味な傘だと思っていたが、とても面白そうな傘だった。これ以上考えるのは面倒臭くなってきたので、ナギサは夕飯を食べることにした。予報では、今日からしばらく雨は続く。明日も差して行ってみようと思った。


 翌日も、予報通り雨が降っていた。昨日よりも少し激しく降る雨は、今のナギサからすると興味の対象にしかならなかった。


「あら、その傘でいいの?」


「うん。いいの。しばらくこれ差していきたい」


 雨の中に入ると、昨日より少しだけ大きなピアノの音が聞こえた。内側の景色は、雨を映していると思いきや、どうしたことか気持ちの良い青空だった。ナギサは頭の中はてなを浮かばせて、学校に向かった。頭の中に浮かんだはてなは、この後更に増えることになる。




 どうにもこれは不思議な傘だ。今日も家に帰るとベッドでそう考えていた。もうそれはうるさいくらいにピアノの音がしていたのに、友達とあっても何も言われなかった。「ピアノの音しない?」と聞くと、


「どうしたの?」


とか


「大丈夫?」


 と返されるばかりだった。どうやら私にしかこの音は聞こえないらしい。お母さんにも聞いてみたが、心配されてしまった。一つわかっても更によく分からなくなってきた。


 ひとまず、考えるのはここまでにしておこう。今日は何よりもショックなことがあったのだから。


 ここを引っ越すことになった。母が転勤するからである。それも県を3つほど越えた遠いところへ。私はここで生まれ育ったもので、この街を離れるのは嫌だし、何より今のクラスが大好きだ。今すぐというわけではないが、それでも近いうちだと聞かされた。


 悲しくて、苦しくて、私は枕を抱き抱えて雨のように次から次へと溢れる涙をを抑えるようにして、静かに泣いた後、涙と融けるように眠った。




 今日も雨だ。気分が沈んでいるときに雨が降っていると、更に気分が沈む。


「元気、出して」


 お母さんが心配そうに言った。


「うん。大丈夫!行ってきます!」


 あまり気を使わせたくない。私は足早に家を出た。


 お母さんは、私を女手一つで育ててくれた。お父さんのことは、まるで覚えていない。私が生まれてすぐに交通事故で亡くなったらしい。

お父さんのことはまるで何一つ知らない。それは少し寂しくもあったけれど、お母さんのおかげでそんな事は何も気にすることはなかった。


 友達の影響でネットに触れることが多くなり、自分で調べたりするうちにやっとその大変さが分かるようになってきた。尚更気を使わせたくないし。何より笑っていてほしい。

余計な、心配なんだろうな



 引越しのこと、お母さんのこと、その他にも沢山考えているとどんどん気持ちが落ち込んできた。傘の景色もそれに合わせるように、実際の景色よりも強い雨がザーザーと降っていた。この景色は、私の気分に影響されるのだろうか。今、もう一つ謎が解けた気がするが、今はどうでもいい。はぁとため息をついていると、ピアノの音が聞こえた。考えすぎていたから全然聞いていなかった。


 こんなときだからか、ピアノの音が慰めてくれているような気がする。少しほっとして、学校に行った。



 とうとうこの日が来た。今日は引っ越し当日の土曜。昨日クラスでお別れ会をして、今そのプレゼントなどをバックに入れて、いざ出発というところだ。窓の外を景色が流れていく。もうこの景色は見ることがないのかなと思うと、胸から熱いものがこみ上げてくる。紛らわそうと、皆の顔を一人ひとり忘れまいと思い出していく。しかし逆効果だったようで、とうとうひとつこぼれてしまった。引っ越した後の不安や悲しみでいっぱいいっぱいになって、到着するまで、ずっと窓の外をぼーっと見つめていた。


 到着して数日、学校に馴染めないこともなく、それでも悲しみと虚しさで、それ以外は特に何かあるわけでもなかった。


 引っ越しの荷物を片付けていると、あの不思議な傘が出てきた。今はどんな景色が映っているのだろう。恐る恐る開くと、



 真っ黒だった。



 何がどうしてこんなことになってしまったのか。この傘の景色は、おそらく私の心情などを映し出すもののはずなのだが。


 こんなにも落ち込んでしまっているのかと若干のショックを受けた。少し前向きになったほうがいいのだろうか。だとしても、それはかなり頑張らないといけないと思う。前向きになるのは、なんだか皆を忘れることになる気がして怖い。


 私は傘をしまって、明日の学校の準備をすることにした。


 またしばらく経っても傘は黒いままで、少し気味悪さを感じるようになってきた。遠ざけるほどに傘が悲しそうに見えてしまうのはなぜなのだろう。今日もその傘を取り出したが、今日は、友達と遊ぶ約束なのだ。久しぶりに雨が降っているので、まだ新しい傘も買っておらず、時間も迫っているので、ピアノの音を聞きながら急いで家を出た。


 少し時間を過ぎて合流し、公園に向かった。雨の日は何もすることがないようにに思えるが、少しおしゃべりをしようということで、屋根付きベンチで腰を下ろした。


「学校には慣れてきた?」


「うん。皆話しかけてくれるから助かってるよ」


「寂しい?」


「うん。…ぶっちゃけすごく寂しい。たまに戻りたいって思うもん」


「そっか」


 気を使ってくれたのだろうか。だとしたら少し申し訳ない。そこからは上手く会話を広げることができず、少々居づらくて仕方がない。

居づらさを通り越して気まずさを感じてきた頃、友達は言った。


「困ったら私を思いっきり頼ってよ」


 少し驚いた。そして、何故かとても安心した。思いっきり頼って良いんだと思うと、つかえが取れて、心が楽になった気がした。


「ねぇ。誘ってくれてありがとう」


「ううん、いいの。ナギサのことを知りたかったから。あと、その傘素敵だね。」


「そう?」


 灰色で、内側は真っ黒な傘のどこがいいのだろう。


「うん。だってきれいな青色だもん。いいなあ」


 耳を疑った。青色?聞き間違いかと思い、聞き直してみた。


「黒じゃなくて?」


「ん?青だよ?どうかした?ねえ。もう一度内側見せてよ」


 私も確認がてら傘を開くと、いつかの黒色はどこへやら、深い、深い、それは吸い込まれそうな青色だった。ただの青ではなく空色から紺色とグラデーションになっていて、山の頂から見た、雲ひとつない晴れ渡る青空のようだった。


「きれい・・・」


「ね!その傘、きれいだね」


 なんだか、やっと不安と曇りが取れた気分だった。どこか前向きになれた気がした。まさに、この傘の景色のように。


「うん。そうでしょう、私だけの傘なんだ」


この空色のように。明るく。








〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜


 懐かしい夢だった。あの傘はいつの間にかどこかへなくしてしまい。今もどこへなくしてしまったものだか全く思い出せない。私の中で、それはなにかの区切りのように感じている。大人へ向けて、一つ脱皮したような気持ちだった。


 不思議な体験をしたものだとムクリと起き上がる。あれは自分にしか聞こえてもいないし、見えてもいないようだったから、実際幻でも見ていたのではないのだろうか。


 後から母に聞いた話だと、私の父親は趣味でピアノを弾いていたらしい。今思えば、あのピアノの音は父のピアノだったのではないかと思っている。傘を差していた時、励ましてくれたり、慰めてくれていたような気がした。


 あの出来事が本当であれ嘘であれ、忘れられない私の思い出だ。


「明日も仕事頑張るかぁ!」


 よっしと気合を入れる。


 どこかで、あのピアノの音が聞こえた気がした。

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