結
泣きそうな顔をした澄が手を伸ばす。白蝋のような掌。ほんの少し薄い皮膜のような水掻きのついた手を。しゃれこうべを抱いた僕に向けて。
必死な顔をした健一が手を伸ばす。頭上から。水底へゆらりと立つ僕に向けて。
『ジュン』
「純!」
「僕は……」
澄と健一を交互に見る僕に、二人はさらに手を伸ばしてくる。
『聞いてくれ、ジュン。その骨は確かに人間のものだよ。それに……それに、私は彼らを食べた。それは事実だ』
「純、早くそいつから離れるんだ、危ない!」
澄の言葉にドキリとする。
食べたのか。人を。しかも、一人じゃないんだ。
『だが、食べるために引きずり込んだわけじゃない! 君のことも、彼らのことも……』
「食べるつもりじゃなかったとしたら、どうして」
『孤独だったからさ』
澄の悲しそうな笑顔が胸を突いた。
そうだ。彼はずっと独りぼっちで、ここにいたんだ。
僕が来たことを本当に喜んでいた。
会話ができること、触れ合えること。
僕がつけた名前も。
あんなに笑顔で、喜んでくれていた……!
「澄……!」
『ずっと、独りだった。何の変化もないこの水底で、何をするでもなく、ずっと天を見上げていた。飢えもせず渇きもせず、ただここにいるだけしかできない。気まぐれに小魚を捕まえてみても、わずかも心慰められない……。
そんなある日、君たちと同じ人間を見つけた。彼らはとても楽しそうで、眺めて過ごすことが癖になった。決して触れ合えない、異なる種族の生き物だとはわかっていた。彼らが水に入っても、こちらへ来ることはなかったから』
「でも、僕は?」
『ジュンは特別だよ。水仙の咲く時期だけ、なぜか向こう側へと手を伸ばすことができた。それでも、ちゃんとした形でこちらへと呼べたのは、君だけだったんだ。生きたまま、ここへ来られたのは』
澄の掌が、僕の頬を覆う。
健一が悲鳴のような声で僕の名前を叫んだ。
それでも、僕は……。
僕は澄の手を取って、その瞳を見返す。いつもより色褪せた金の輝きの奥に、彼の心の傷が隠れている気がした。
『愛しているよ、ジュン。だから、嘘は言わない。私は何度も失敗し、そして、死んだ彼らを食べてきたんだ……』
僕は頷いた。
最初から僕を食べるつもりだったなら、今までにいくらでもチャンスがあったのだから。でも澄は、そうはしなかった。
むしろ戸惑う僕を慰めて、勇気づけてくれた。
僕を愛してくれた。
だから、僕は尋ねた。
もしかすると、彼を傷つけてしまうかもしれない問い。
でも僕は、尋ねずにはいられなかった。
「澄は、僕を好き? 僕のことも、食べるの?」
「純!」
澄の目が大きく開かれた。
そしてその顔はすぐ、くしゃっと歪んだ。
驚きと、恐怖と、そして……。その笑みは怒りのためか、狂気を秘めて澄は嗤った。
『は……ははは! ははははは! もちろんだとも、ジュン! 君が死んだら、私は君のすべてを喰らうだろう! 血の一滴も、肉のひと欠片だって残さない。その爪も、髪も、目玉も、すべて……私が喰らいつくしてやる!』
泣きそうに顔を歪めて、澄は嗤う。
僕の顎を掴んで強引に彼の方を向かせて。それでもその指は優しくて。
僕は嬉しくて微笑んだ。
「ありがとう、澄。その答えが聞けて良かった」
『ジュン……』
僕は一転して弱気な顔を見せる澄から視線を外し、頭上の健一を見やった。湖の淵からこちらを見下ろす健一は、突っ込んだ片腕だけでなく前髪さえ濡らしながら、今も必死の形相で僕に向けて救いの手を伸ばし続けている。
「純、早く! 頼むから、戻ってきてくれ……!」
「健一。健一はどうして、そんなに必死に僕を助けてくれようとするの?」
「そんなの、決まってる」
健一は叫ぶように言った。
「友達だからだ! 純は俺にとって、かけがえのない友達だ! 親友なんだ!」
「ああ……」
「こんな所で死なせるもんか。俺の手を掴め、純。化け物がまだ動かないうちに、早く!」
ああ、健一。
いつまでも変わらない、僕の親友。
君はいつだって正しい。
友達がピンチなら駆けつけるのが当然で、少々の危険なら顧みもしない。公明で、正大。僕の大好きな、正義のヒーローだよ。
「健一」
僕は手を伸ばして、健一の手の甲を撫でた。
「掴まれ、純!」
『ジュン!』
澄の悲しそうな声が僕を呼ぶ。
『行かないでくれ、ジュン。私には、君だけなんだ……』
澄の腕が、背後から僕を抱いた。
可哀想な澄。ずっと、独りぼっちで。
愛しい澄。僕の大好きなひと。
「さよなら、健一。ここまで探しに来てくれてありがとう。僕、健一のこと大好きだったよ」
「純!? 何言ってるんだ、早くこっちへ! 行くな、純!」
「僕はもう帰れないんだよ。ううん、帰らない」
「おじさんやおばさんのことはどうするんだよ! 諦めるな、純!」
「ごめんね。バイバイ……」
「純! 純ーー!」
健一は最後まで僕の名前を呼んでいた。
本当なら帰ることが正しいのだろうし、僕はそうするべきだったんだろう。
でも、地上への未練なんて、健一を除けば最初から無いも同然だった。
さよなら、健一。
さよなら、僕の初恋。
僕は水底の彼に恋をしたんだ。
愛されて、愛することの幸せを知ってしまった。
だから、僕はもう戻らない。
『ジュン、ありがとう。愛している……』
「僕も。愛してる」
僕たちは抱き合ってキスをした。
何度も。何度も……。
「ねぇ、澄。僕が死んだら、僕のこと、食べてくれるんだよね?」
『……ああ。もちろん。でも、ジュンはそれでいいのかい?』
「うん。僕、嬉しいんだ……。死んで別れ別れになるのじゃなくて、死んでも貴方の一部になれる」
『ジュン……』
僕は自分から澄に抱きついた。水中に体を浮かせて、背の高い彼の首に手を回して、キスをする。
独りぼっちだった僕たちは、二人になってようやく、互いの心の傷を癒せるんだと思うんだ。僕がいつまで側にイられるかはわからない。けど、今だけは、彼に慰めと安らぎをあげられる。
こんな僕が。
誰にも選ばれない僕が、彼に選ばれたんだ。
こんなに嬉しいことはない。
『愛しているよ、ジュン。君を大切にすると誓う。いつまでも』
「嬉しい……。今日からは、もう、何の迷いもなく澄のものでいられる。僕のすべてをもらって? 澄……」
『もちろんだとも。私のすべても、君に』
揺れる銀の髪に指を絡ませて、僕はそっと目を閉じた。すかさず、愛しい彼のキスが降ってくる。揺蕩うままにすべてを預けて、僕は彼と踊る。
いつまでも。
いつまでも……。
―― 了 ――