承 後
彼のどこか陰のある笑顔に、僕はドキリとした。
こういうのを、自嘲的と言うんだろうか。罪悪感が泡のように浮かび上がってきて、僕は少し胸が苦しくなった。
こういうとき、謝ったほうがいいのか、黙っていたほうがいいのか、わからない。戸惑っている間にも、彼は僕に触れるほど顔を近づけて、話しかけてきた。
『私が神でなくてガッカリしたかい?』
「い、いえ。……その、助かりました。ありがとうございます」
『どういたしまして』
にこやかに彼は笑う。けれど、僕から離れない。余りにも近すぎて居心地が悪いくらい。後ろに身を引くと、なぜかその分、彼が身を寄せてきた。
「あの……」
『何かな』
近すぎる……。
こんなに顔を近づけられると、またキスされるんじゃないかと思ってしまう。そんなハズないのに、そう考えてしまう自分が嫌だ。
あのキスにはどんな意味があったんだろう。あんな風に、味わい尽くすように隅々まで舐められるなんて。それとも、本当に食べるつもりで、僕を味見していたんだろうか?
今も蛇の下半身で拘束されている意味を考えて、僕の背中がゾクリと粟立った。
「あ、の……。離して、ください」
『なぜ?』
「ぼ、僕、か、帰るので!」
『落ちついて、ジュン』
勇気を振り絞って声を出した僕を、彼はたしなめた。ワガママを言う子どもを前にしているように穏やかに笑って言う。
『帰ることはできないよ。無理なんだ』
「えっ……」
『君だって、ここがただの湖の中じゃないことにはもう気づいているはずだよ、ジュン』
それは、優しいながらも有無を言わせない宣告だった。彼の指が僕の頬を撫でる。愛おしそうに。
『ここは私の領域、私の棲み家だ。あの湖はただの窓のようなものに過ぎないんだよ。ここへ来てしまったからには、君はもう戻れない……残念だね?』
まったくそうは思っていない声音で言って、彼は悪戯っぽく笑った。彼のよく通る低音が耳に心地よくて、僕の反応を試すような態度もまるで気にならない。
この声で語られると、どんな荒唐無稽な事柄でもすぐにストンと納得してしまいそうだな、と僕は思った。事実、今僕が置かれている状況も、意外なほど呆気なく腹に収まってしまったし。
驚かなかったわけじゃないけれど、それ以前に、水中で息ができることや、彼という存在自体が非日常的な謎なんだもの。
ああ、けど、そうか。
僕、もう帰れないのか。
納得して、実感した。
そうしたら、健一のことが頭に浮かんで胸が痛くなった。おかしいよね、もう消えたい、逃げ出したいと願ってそれが叶ったのに、実際にそうなってみると……こんなにも、つらいなんて。
『ジュン? 大丈夫かい? 言葉も出ないほどショックを受けるなんて……。可哀想にね。でも大丈夫、すぐに忘れさせてあげるよ。私だけの可愛い子』
「んんっ!」
また、唇を奪われた。
彼はそれが自分の物であるみたいに無遠慮に、それでいながら優しく溶かすように僕にキスをした。
私だけの可愛い子、だなんて。そんなこと言われたら、たとえ嘘でも心がくすぐったくなってしまう。僕には、健一がいるのに……。
抱きしめられてキスされると、彼の声で名前を囁かれると、すべてを許して受け入れてしまいそう。流されちゃ、いけないのに。
「ダメだよ、やめて……」
『どうして?』
「どうして、って……」
だって、僕には……健一が……
『ジュン……』
「あっ」
ぎゅっと強く抱きしめられて、思わず声が出てしまった。彼は僕の首筋を甘噛して吸いながら、僕をからかう。
「い、いやだ……!」
『嫌じゃないだろう? 抱きしめられるのも、キスも。だってジュンの体は喜んでいるよ』
「違う、僕は……!」
『そうだね。暴かれたいのは、彼に…だったんだろう?』
「!」
ギクリ、と固まる僕の頬に顔を寄せて彼はさらに囁く。
『ケンイチと言ったかな。君の心をそんなに縛りつけている男の名は。妬いてしまうな』
眉を寄せて笑う彼の顔が酷く寂しげで、なぜだか僕はせつない気持ちに見舞われた。この胸の苦しさはなんだろう。
彼の指が迫ってきて、僕はぎゅっと目を閉じた。でも、その男性的なしっかりした指は僕の頬を撫でただけで離れていった。
『心配しないで。取って食べたりはしないよ。君は長い長い間独りきりだった私のところへ、ようやく来てくれた子だからね、大事にしたい。嫌われたくないんだ。幸い、時間はたっぷりある』
同時に、蛇になっている彼の下半身の締め付けも解かれ、彼の顔も遠ざかって、僕は水中で自由になった。もしかして、乱暴なことをされるかもしれないと疑った自分が恥ずかしい。
「あの、ごめんなさ……わぁっ」
『おっと』
謝ろうと彼に向き直ろうとしてバランスを崩した僕を、彼は優しく受け止めてくれた。それどころか、手を繋いで支えてくれた。
『大丈夫かい、ジュン。少し移動する練習をしようか。バランスを崩して岩にぶつけたり、水の流れに浚われたりしてはいけないからね』
「水の、流れ? ここは本当に、どこなの……? あ、それと、貴方の名前……。僕、何も……」
『私の名か……。私には、名はないよ。気づけばずっとここにいた』
「え……」
光に照らされた水底に立っている、白い蛇の化身のような彼は、何事もないような穏やかな声と表情でそう言った。
どうしてそんな風に微笑むの?
さっきの寂しそうな表情よりよほど今の彼の方が寂しげで、儚げで、胸がぎゅうっと苦しくなった。
名前がないなんて。誰にも呼ばれないなんて、それはなんて悲しい……。
誰にも理解されずに、ずっと俯いて生きていた僕には、いないもの扱いされてきた僕には、彼の気持ちはとても良くわかった。
神様でもない彼が、僕の願いを叶えてここに引きずり込んだ理由も。僕を抱きしめてキスしたのも、僕の心を読んで、僕に気に入られようとしたからなの?
涙が水に溶けていくのを感じながら、僕は初めて自分から、彼の方へ手を伸ばした。
『ジュン?』
「独りぼっちの寂しさは、よく知ってる。僕も、そうだったから。誰にも理解されない、誰にも話せない、そのつらさがわかるから……。だから、僕に貴方の名前をつけさせて。そうしたら、もう、寂しくないでしょう?」
普段の僕ならきっと、こんな提案しないだろう。でも、彼のことは放っておけない、そう思った。
返事はなかった。彼は無表情で黙ったままで、僕はもしかして怒らせてしまったんじゃないかと不安になった。声をかけようかどうしようか、迷っていたその時、僕は彼に抱きすくめられていた。
「あ、あの」
『ジュン! ……ありがとう。本当に、嬉しいよ。まともな会話ができることすら奇跡のようなものなのに、君は私に贈り物をくれるんだね。出会って間もないのに』
「お、贈り物? そんな大げさなものじゃ……」
『いいや、私にとってこれ以上にない素晴らしい贈り物だよ。ああ、なんて……なんて君は特別なんだ!』
僕は何も言えずに、ただただ彼の抱擁を受けていた。こんなにも喜んでもらえて嬉しいのに、面映ゆさの中で僕はもごもごと口ごもることしかできない。ここで上手いセリフも出てこない、そんなつまらない僕なのに、彼はそんなこと気にしないようだった。
僕は、彼に名前をつけた。
水に関連する言葉から贈りたくて、思いついたのは『澄』というものだった。




