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「はい、紅茶淹れたよ。ヒナタちゃん」
「ありがとうっす、アイラ先輩」
いつからだろう、私の味覚は死んでいた。
でもコーヒーとチョコレート、アイラ先輩の淹れてくれる紅茶だけは辛うじて味を感じ取ることができる。
「新しい茶葉買ってみたんだ。素敵な香りがしてたから、衝動買い」
「いいっすね。買いたいと思った時は買うもんっすよ」
何故か他のみんなの中ではコーヒー好きってことになってるけど、アイラ先輩だけは紅茶を出してくれる。私は元々苦いコーヒーが嫌いで、この紅茶だってたっぷり砂糖とミルクが入っていた。自分のを淹れるついでに作ってくれてるんだろうけど、ありがたい話だ。
「今日、白銀祭だったね。学校は大騒ぎだったかな?」
「そうっすね、例年通りっすよ。来年からは休校にするみたいな話らしいっすよ?」
「そっか。先生たちもお祝いしたいんだろうね」
アイラ先輩は今日、体調不良で学校を休んでいた。昔から体の弱い人ではあったけど、最近になって回数が増えたような気がする。冬も近いし、きっと卒業試験に向けた訓練で疲れているのだろう。最も彼女の成績だったら無理する必要もないと思うけど。
「去年の白銀祭は女子会したね。覚えてるかな、ほら訓練をした後に……」
「覚えてるっすよ。そう思うと今年は寒いっすね。もう雪が降ってるっすよ」
白銀祭は暦上秋に開かれる。でも私たちが住んでいるノースヘヴンは寒冷地である北方に位置しているため、何年かに一度は雪が降っていることがあった。白銀の白と雪の白をかけて縁起がいいなんて言われてるけど、寒いだけなので何とも思わない。
「そうだね。でも今年は女子会しそこねちゃったな……。惜しいことしちゃった」
「まあ体調悪いんっすから仕方ないっすよ。それに今紅茶を飲んでるのだって、立派な女子会じゃないっすか」
「ううん、これは違うよ」
アイラ先輩がきっぱりと否定する。
……あまり考えずに言ったけど、何かまずいことを言っただろうか。
「去年のは普段と違う食事会だから、女子会。今日はもう普通でしょ? いつも二人でいるじゃない、最近は」
「……アイラ先輩?」
自分が地雷を踏んでしまったことに、爆発してから気づく。
去年の白銀祭の日、確かに私たちは「女子会」を開いた。蓋を開ければただの食事会、おしゃれな喫茶店で駄弁っただけだったけど、それを私たちは「女子会」と名付けた。
もちろん意味があった。それは先輩がいなかったからだ。いつも三人でいた私たちが先輩を除いて二人で、女子だけで食事会をしたからこそそれは「女子会」であった。
だから今この状況は女子会ではない。
先輩のいなくなった日常を生きる私たちにとって、女子会はもう開けないものなのだ。
「ごめんなさいっす、変なこと言ったっすね。気にしないでくださいっす」
急いで下手な謝罪を添えるけど、アイラ先輩の元に届いているだろうか。窓の外の雪を見つめている彼女は、きれいすぎて生きているのかさえもわからない。
「なんでだろうね、私。これが普通なのにね。だってずっと二人で住んでいて、教室では私が一人で、そうだよね、だからこれが普通なんだよね。きっと夢なんだよ」
「夢、っすか?」
「そう、多分だけどね。わからないんだ、現実なのか夢なのか。たまにわからなくなるの。私たちはいつも三人で、もう一人は男の子で、でも顔も名前もわからない。本当はそんな人いないんだってわかってる。だって空白なんだもん、ずっと空っぽなんだもん」
ねえ、ヒナタちゃんは覚えてる?
「私、どうして生きてきたんだっけ?」
「アイラ、先輩……」
これが先輩の魔法『白銀の忘風』の悪影響なのだとユーリ先輩は言っていた。先輩についての記憶を全て消すというその魔法は、空いてしまった記憶の穴を修復する。言うなれば埋め合わせだ。例えば無類のコーヒー好きは私になっているし、「万年二位」の座はマイルという別の男が欲しいままにしてる。そうして人は自然と先輩のいない世界を受け入れる。
ではアイラ先輩の場合はどうか。彼女ももれなく『白銀の忘風』の影響を受けた。先輩についての記憶を失って、それについての埋め合わせが行われたはずだ。
でも彼女に関しては他の人とは話が違う。記憶の中の先輩の比重があまりにも大きすぎるのだ。幼少の頃から先輩と過ごしてきた彼女には、先輩の穴を埋め合わせするだけの他の記憶がない。だからたまにこうして記憶が混濁し、混乱状態になる。
「……またよくない癖が出てる。私おかしいよ。ごめんね、ユーリちゃんにお薬もらってくるから」
そう言ったアイラ先輩は無表情のまま部屋を出て行った。机に置かれた紅茶はなみなみと水面を揺らしている。
彼女の記憶を刺激しないためには先輩の記憶を持っている私が気を付けるしかない。そう言われていたのに、私はまたアイラ先輩を傷つけてしまった。
ああなってしまった場合、ユーリ先輩が睡眠剤と精神安定剤を渡してくれる。それで一旦は治まるのだけど、あくまで応急処置でしかないことはわかっていた。
「……どうしたらいいんっすかね、先輩」
今まで一緒にいた人が、これからもずっと一緒なんだと思ってた人がいなくなるのは当然辛い。私は味覚を失った。一年近く経った今でも、泣きながら毎朝目を覚ます。
じゃあその記憶すらも失ってしまった人は?
何が辛いのかさえわからなくなってしまった、アイラ先輩は?
その苦しみを私が言葉にしてはいけない。ただ寄り添って、刺激しないように幸せを祈るしかない。私はガサツだ。きっと何度もアイラ先輩を傷つけ、いつか壊してしまうかもしれない。
……でも、これは私の責任っすよね。
彼女から幸せを奪ったのは間違いなく私だ。ならば最後まで、彼女が別の幸せに辿り着くまで支えるのが私の責任。先輩ほどうまくはできないけど、やり遂げるしか選択肢はない。
「ただいま、ヒナタちゃん。眠くなってきたから先に寝ちゃいますね?」
「あ、わかったっす。お薬はもう飲んだんっすか?」
「はい。ユーリちゃんにすぐ飲んだ方がいいと言われたので」
「そうっすか。じゃあ食器は私が片付けておくっすね」
「待ってください」
キッチンに向かおうとした私を、驚くほど冷たい手が引き留める。ぎこちなく振り返った私に、アイラ先輩は弱々しく微笑んで見せた。
「不安、なんです。私が眠るまで手を握っていてくれませんか? じゃないと、どうしようもなく自分がわからないままなんです」
その言葉は私に向けられている。
わかっていても、彼女の視線の向こうにはいない先輩がいるのだろう。
だったらこの手は振り払えない。
先輩だったらそんな真似、しないから。
「……わかったっす」
違和感はある。口調が変わるのは症状が重い時だ。しかし手を払って問い詰めるなんてこと、私にはできない。ユーリ先輩の薬はよく効く。一晩寝たらまた落ち着いて話ができるようになるだろう。
まるでガラス細工に触れるかのように、そっとアイラ先輩の手を握り返す。そのままベッドまで移動した彼女はゆっくりと体を横たえた。木製のベッドはしかし、物音一つたてやしない。
「よかったです。ふふ、いつかみたいですね。私は泣き虫でしたから、昔はよくこうしてもらってたじゃないですか?」
「……」
頷けない。きっとそれは先輩との思い出だ。他の人ならまだしも、アイラ先輩の思い出を私で書き換えるわけにはいかない。両方とも辛い気持ちになるだけだから。
「夢の中でも手を握っていてくれますか? いえ、そんなことに意味はないんでしょうね。恋しくなったらまた起きればいいだけですから。なのにどうしてでしょう、最近は夢の中の方が心地いいんです」
「体調を崩してるんだから、仕方ないっすよ」
「そうですね、早く治さないといけません。現実が本当なんです、きっと。私は妄想の中に囚われているんでしょうね。こんなことじゃ、笑われちゃいますよ」
「笑わないっすよ」
「ヒナタちゃんじゃなくて、あなたにですよ。……あれ、あなたはヒナタちゃんですね。また私おかしくなっていました。ヒナタちゃんは優しいです」
「……そんなことないっす。誰も笑ったりなんて、しないっすから」
「そう、ですかね。小さい時なら笑われていたと思います。鼻で笑って、そして、次の瞬間には何事もなかったかのように解決しているんです。だから私は今でも生きているのに」
「……」
「ふぁ……、お薬がかなり効いてきました。また逃げてしまうんですね、私は」
「逃げじゃないっすよ。ちゃんとした療養っす」
「そういう言い方もあるのかもしれませんね。やっぱりヒナタちゃんは優しいです。じゃあ最後に、一つだけ聞いて眠ることにしましょう」
仰向けに寝ていたアイラ先輩が首だけをぐるりと回す。
充血一つしていないきれいな瞳が、刺すように私を見つめた。
「ねえ、どうしてヒナタちゃんが生きているの?」




