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「おかえり、ヒナタ。随分と遅かったな」
「ただいまっす。ちょっと訓練に気合が入りすぎちゃって」
この部屋からは常にコーヒーの匂いがする。ニナ先輩曰く「そうじゃないと落ち着かねぇ」らしい。確かに慣れると安心するものだ。
「晩飯は食ってきたか?」
「あ、はい」
あの時間に食べたものを晩御飯とするなら、だけど。
騎士団の制服を脱いで部屋着に着替える。私もすっかり嘘がうまくなったものだ。見方を変えると真実なら、それは嘘じゃない。
いかにも先輩らしい言い訳だ。
「お前もコーヒー飲むか? 丁度淹れるところだったんだ」
「いただくっす」
ニナ先輩は私が帰った時、毎回「丁度」コーヒーを淹れようとしている。きっと私が男だったら惚れてしまっていただろう。案外先輩のヒロインはニナ先輩だったのかもしれない。決してそうではなかったと言い切りたいものだけど。
「ふぅ……」
椅子に座って、深いため息をつく。結局終業時間になるまで訓練を続けてしまった。別に他の仕事があったわけじゃないけれど、少しもったいなく感じてしまう。
「そうだ、来てみろヒナタ」
「ん、どうしたんっすか?」
年上をこき使って自分が座っているとは何事だ、とか言われたらその通りすぎてぐうの音もでない。でもなんだか、手招きするニナ先輩は楽しそうだ。部屋にあるキッチンは、並んで立つにはやや狭い。
「ほら、これ持って見てろ」
と、渡されたのは一枚のメモ。
……これは、先輩の字だ。
一目でわかる。しかし何故ニナ先輩が持っているのか、それがわからない。ニナ先輩の記憶には一つとして先輩の欠片は残っていないというのに。
「コーヒーの淹れ方を書いたメモだ、誰のものかは知らないけどな。ノースヘヴンにいたころに拾ったものなんだが、不思議とその通りにやるだけで旨いコーヒーが淹れられる」
先輩はコーヒーを淹れるのがうまかった、らしい。一度も飲んだことがない私にはわからないけど、寮に住んでいた人たちは口を揃えて言っていた。その記憶の穴がどうやって埋まったのか、思えば考えたこともなかった。
「寮の中じゃ私が一番上手だなんて言われてたけどな、実はそいつのおかげなんだ。拾い物だとわかっちゃいるが、今の今までずっと手放せなかった」
……そうか、先輩はそんな小さな記憶の穴さえ埋めようとしていたのか。
自分が今から死ぬという時に、この世界から自分の記憶が消えてしまう直前に、一体どこまで気を回していたというのだろう。
これ以上先輩を好きになっても仕方ないというのに、先輩は死んでも罪な人だ。
「それを、そんな大事なものを、どうして私に渡したんっすか?」
「ま、大事なものだからだろうな」
ニナ先輩はケラケラと快活に笑う。
「私はもう十分世話になった、だから次はお前の番だ。私もいつまでお前にコーヒーを淹れてやれるかわからんからな」
本当にこの人はどこまでも面倒見がいい。先輩が初めて寮に立ち入った時、猫を被りながらも全力で排除しにかかったのはまだ色褪せていない記憶だ。元々知り合いだった私にとっては頬の緩む記憶でもある。
「……ありがとうっす。大切にするっす」
「おう。本当の持ち主が現れるまでは、だがな」
ドリッパーにゆっくりとお湯を注ぎながら、ニナ先輩は微笑む。
コーヒーの美味しい淹れ方を記したメモ。確かにそれは大事だ。コーヒーは数少ない、味を感じることのできるものだから。
でも、それだけじゃない。
あれから二年経った今、新しく先輩の生きていた証に出会えたことが嬉しかった。
先輩のことを忘れてしまったニナ先輩に、少なからず先輩のことを気に入っていた彼女に、先輩の想いが残っていたことが喜ばしかった。
だから私は、小さなメモをぎゅっと抱きしめる。
徐々に強くなっていくコーヒーの香りは、いつもよりも優しい。




