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白銀の紋様を浮かべた僕を中心に、とてつもない勢いの風が吹き荒ぶ。壁や床にぶつかった風はそれらを通り抜け、雪が降り積もる外へと突き抜けて行った。やがてそれらはアークエディン中へと吹き渡り、各地の木々を揺らすことだろう。
「…………」
風を一番間近で受けたヒナタは、何が起こったかわからないという風に目を白黒させていた。
「…………あなたは、一体」
黒い結晶が浸蝕を続ける中、彼女は呆然と口を開く。
「誰……、っすか?」
一世一大の時間稼ぎは、どうやら成功したみたいだ。
「…………僕は、」
別にわざわざ答える必要はなかった。『白銀の忘風』が効果を発揮したことは、先ほどの一言で既に確認している。だからこれ以上彼女と会話することは意味がないどころか、悪影響まで及ぼしかねない。
だから僕はこの質問に、答えるべきではないのだ。
「クロア」
しかし僕は、その問いに答えようとしていた。
……おかしい話だ。僕はあれほど嫌いだったこの世界に、何かを遺そうとしている。
どうせ僕のことなど、誰一人として覚えていないに。
「クロア・ランサグロリア」
少しでも覚えていてほしいと、大切な人の中に残りたいと、今更思うのか。
「くろ、あ……?」
僕の言葉を聞いたヒナタは、何かを必死に思い出そうとしていた。しかしその答えを出す前に、彼女の口は黒い結晶に覆われる。最後まで僕から離れなかった金色の瞳も、やがては無数の結晶となり果てた。
これでヒナタの体は、完全に結晶化したことになる。
つまり、後に待つのは、
パリッ
一つの黒い塊となった結晶のどこかから、空虚な音が聞こえる。薄暗い部屋ではよくわからないが、どうやらそれは亀裂が入った音らしかった。徐々に数を増していく音の連鎖と亀裂の拡がり。僕の目がそれらを捉え始めた頃には、結晶のほぼ全ての部分に亀裂が走っていた。
一瞬だけ、部屋に完全な静寂が訪れる。
パリッ
再び鳴り響いた音は、亀裂が口を開いた音だった。
黒い結晶の中から、紫色の光がもれだす。
僕はその光を見つめながら、何故かこれまでのことを思い返していた。
世界を変える、そのためだけに生まれてきたような人生だった。しかしその過程で色々な人たちに出会い、今ここにいる。究極の天秤を目の前にした時、僕は結局世界を見捨てることを選んだ。
それは師匠の思いや願いとは反すること。しかし彼女なら、僕の気高く強い母なら、僕なんかいなくても世界を変えてみせることだろう。そもそも僕は主人公に向いていない、最初からそんな役割は荷が重かったのだ。きっと彼女は僕のいなくなった世界を、僕のいらない方法で変えるはずだろう。
ユーリには色々頼りきりだったが、これからは彼女もその役目から解放される。かと言って彼女が何かに打ち込むとも思えないので、悠々自適で飄々とした幼馴染はさして変わらない日々を送るのだろう。それはそれで、彼女らしいと思う。
……アイラには、結局何も言えずじまいだった。それについてはとても後悔しているし、後ろめたく思っている。人見知りの彼女のことだ、これから苦労することも多いだろう。でもヒナタもニナ先輩もミスリエさんもマリーテさんもグラスさんもアルグレオさんもメロフェロさんもララナさんも……、全員彼女の味方だ。きっとたくさんの人が彼女を支えてくれるだろう。いずれ僕がいた穴は自然に埋まっていく。それは寂しいことではあるが、アイラにとっては良い転機だったのかもしれない。
そして、ヒナタ。見た目も記憶も全部引き継がれるとはいえ、彼女も苦労することだろう。しかし彼女はもう、いつかの「泣き虫の赤髪」ではない。僕が一緒に戦わなくても、彼女は自分で未来を切り拓けるはずだ。彼女こそ主人公に向いている、案外師匠の隣に立って世界を変えるのはヒナタなのかもしれない。
「………………あれ?」
……走馬灯を見ていたはずなのに、結局他人のことばかり考えていた。
それはもしかしたら、僕の人生が案外悪くなかったことの証明なのかもしれない。
「まあ……、いっか」
窓ガラスに映った白銀の瞳は、これまでになく満足そうな笑みを湛えている。
だからきっと、それが全てだ。
部屋を埋め尽くした光が集約し、結晶を煌々と照らす。
いよいよ終わりの時は近いらしい。
やがて光は完全に立ち消え、室内は平穏を取り戻した。
しかしそれは、本当に一瞬のこと。
結晶は再び光り始め、輝きを一層増した後、
パリン、と。
ガラスが砕ける時のような音をたてながら、砕け散った。
飛び散ったはずの結晶は音もなく消え去り、後には赤い光の球体だけが残る。
あれがヒナタの精神、ということか。
猛々しくも可憐なその光は、確かに彼女らしい。
「……っぐ!?」
球体は迷いなく僕の体へと飛び込み、僕の身を、そして精神を焼いた。
自分の体と心が、他のものに作り変わっていく。
それは体を内側から燃やされていくような感覚だった。
意識は遠のき、僕が消えていく。
「…………」
この世界に、決して未練がないわけではない。
やり残したことも、これから不安なことも、数えきれないほどあった。
「だけど、」
後悔は、していない。
僕は大切な人の命を、守ることができた。
僕が、この世界に愛されていない僕が、それだけのことをやってのけたなら上出来だ。
「……じゃーね」
ありきたりでつまらないことを口にした僕は、清々しい気持ちで世界を見捨てる。
足元でティアが、鋭い鳴き声を上げた。
それが僕の、
僕としての、
最後の記憶だ。




