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この世界に愛されなかった僕たちは  作者: 春秋 一五
「黒と白のプロローグ」
36/66

5-5


「ありがとうございました、グラスさん」


 運転席から降りたグラスさんは笑顔で敬礼した。頭を下げて寮へ歩き出した僕だったが、門に手をかけたところでもう一度彼女の方を振り返る。先ほどと変わらぬ体勢で僕を見送っていた彼女は、僅かに首を傾けて見せた。


「……何も、聞かないんですか?」


「はい、聞きません!」


 座席で眠っているアイラを指した僕に、グラスさんは笑顔も敬礼も崩さず頷いた。僕を見据えるスカイブルーに、迷いはない。


「私はクロア殿を、信じておりますので!」


 僕に対する彼女の信頼は妄信に近いところがある。言葉の勢いに気圧された僕は、ただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。止めていた手を動かし門を開けた僕は、再び寮の方へと歩みを進める。霜柱が立った地面は踏み砕かれるたびに小気味よい音を鳴らした。


「グラスさん」


「はい、なんでしょうかクロア殿!」


 振り返らないまま名前を呼んだ僕に、グラスさんは相変わらずの声量で返事をする。気を遣っていないように見えるのは、彼女なりに気を遣ってくれているからなのかもしれない。そう思いながら空を見上げた僕は、再びゆっくりと口を開いた。


「アイラのこと、よろしくお願いします」


「了解いたしました!」


 この上なく頼もしい返事に口元を緩ませた僕は、そのまま振り返ることなく扉を開いた。薄く伸びた影は引き留めようとするが、構うことなく足を進めていく。背後で扉の閉まる音を聞いた僕は階段の前で立ち止まり、深く息を吐き出した。


 ……感傷に浸ってる、場合じゃないよな。


 気持ちを切り替えようと首を左右に振り、食堂の方へ向かう。漂ってくるコーヒーの香りは扉の向こうにニナ先輩がいることを示しているが、僕はそれを開けることのないまま手帳へペンを走らせた。


「これで……、よし」


 書き上げたページを破り、扉の間に挟む。手帳を懐に片づけ、再び階段の方へと足を進めた。木製の床は足音がよく響くが、運よくニナ先輩には気づかれなかったようだ。


 嘘をつきたくない僕の精一杯を、僕自身が無駄にするわけにはいかない。


「挨拶、しなくてよかったのかい?」


「……ユーリ」


 踊り場で笑みを浮かべていたのは、幼馴染だった。跳ね上がった心を落ち着かせ、一段一段ゆっくりと階段を上っていく。見上げていた視線はやがて同じ高さになり、最後には彼女を追い抜いてしまった。


「うん。これで、よかったんだよ」


「ふーん、そうかい」


 呟いた彼女に興味はなさそうだ。猫のような瞳にため息をつきそうになったが、手帳のことを思いだし何とかそれを引っ込める。


「そういえばユーリ、」


「いい、全部わかってる。後のことは僕に任せておけ」


 話し出そうと開いた僕の口を、ユーリの言葉が閉じた。普通ならそんなはずないと思うところだが、ユーリの場合本当に「全部」わかっているのだろう。馬鹿馬鹿しくなった僕は今度こそため息をついて、心の底からの苦笑いを零した。


「じゃあ任せるよ、幼馴染」


「ああ構わないよ、幼馴染」


 軽快なやりとりが何だかおかしくて、僕は声を抑えながら笑った。ユーリも珍しく年相応の笑顔を見せている。


 それはとても和やかで、懐かしい時間。


 アイラとヒナタに比べれば、ユーリと過ごした時間は短かったのかもしれない。


 それでも彼女が一番近くにいたのは事実で、僕の背中を押してくれたのはいつだってユーリだった。


 だから僕には、彼女へ伝えなければならないことがある。


「ユーリ」


「なんだい?」


 伝えなければならないことはある、が、


「いってきます」


 全てを見せ合った幼馴染に、今更そんなものは必要ないだろう。


「ああ、いってらっしゃい」


 ひらひらと手を振ったユーリは、怠そうに壁へともたれかかった。僕はいつもの笑顔に見送られながら、その横を通り過ぎる。


「――う」


 視界から消える直前、彼女の口元が僅かに動いた。


 しかしそれはきっと、気のせいだ。


 そう自分に言い聞かせた僕は、わざと歩幅を大きくして薄暗い二階へと上っていく。


 振り返れば、そこには歪ながらも落ち着いた日常が待っているのかもしれない。


 だけど僕には耐えられなかった。


 歪みに慣れてしまう世界が、周囲が、自分が。


 欠けてしまった感情を、「幸福」と呼んでしまう醜い未来が。


 だから僕は振り返らない。


 狂ってしまった日常を、自らの手で壊す。


 そのために、

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