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「――といった原理を利用すれば、私のように『五重詠唱』を行うこともできるということだ」
教壇に立つ講師が話を締めくくったところでちょうどチャイムが鳴った。静寂を決めこんでいた生徒たちが俄かに騒ぎ始める。
パタン
禿げ頭の講師がわざとらしい音をたてながら分厚い本を閉じた。
「来週は『多重詠唱』の実技テストを行う。基礎身体強化の『三重詠唱』ができない者には補修を課すから覚悟しておくように。それでは以上、解散!」
時間と共に騒々しさを増す生徒たちに釘を刺し、講師が教室から出ていく。それは講義が終わった合図であると同時に、今日の日程が全て終了したことを表していた。みな口々にテストへの不平や不満をもらしながら思い思いの行動を始める。
「私たちも行きましょうか、クロア君」
隣の席から透き通った、まるでガラス細工のような声が聞こえた。声の主は整理整頓の行き届いた鞄のファスナーを閉めながら、不思議そうに首を傾げる。
「……どうかしましたか?」
「いや……テスト面倒だなぁ、と思って」
僕の返答を聞いて一瞬目を丸くした彼女だったが、その表情をすぐに柔らかな微笑みが彩る。
「『三重詠唱』なんてクロア君なら余裕ですよ」
「そうだと、いいけどね」
できると面倒はまた別の問題だ。
そう反論しようかとも思ったが、あまりにも優しい眼差しにすっかり毒気を抜かれてしまう。つまらない鬱屈はため息と共に吐き出し、僕も帰り支度を始めた。一冊の本を鞄にしまうだけの演目は僅か数秒足らずで幕を閉じる。
「お待たせ。それじゃあ行こうか、アイラ」
「はい!」
僕の呼びかけを受けた同級生、アイラ・バレットシードは首を大きく縦に振った。腰下まである黒髪が左右に揺れ、エメラルドグリーンの瞳が嬉しそうに細められる。大げさな動作のせいか、かけていた黒縁の眼鏡が僅かに傾いていた。
「……アイラって昔から天然だよね」
「そ、そうですか?」
右手でアイラの眼鏡を直して、階段状になっている講義室を降りていく。少し遅れてぱたぱたという小走りの足音が続いた。
「今日はどこで待ち合わせてたっけ?」
「カフェテラスです。自分で決めておいて忘れないでください」
隣に並んだアイラは何故か機嫌の悪そうな様子だ。言葉にいつもはない刺々しさがある。ご丁寧に視線さえも合わせてくれなかった。
……僕は今、何か悪いことをしただろうか。
思い当たる節もなければ、かといって「どうして機嫌が悪いのですか、お嬢さん」と聞くほどデリカシーがないわけでもない。一向に答えの見えない自問を繰り返している間に、目的地まで辿り着いてしまった。
「待ち合わせ時間までもう少しありますね……。何か飲み物でも買ってきます。コーヒーでいいですか?」
「あ、ああ、うん。ありがとう」
僕が悩んでいる間に彼女の機嫌は直っていたようだ。歯切れの悪い返事を背にしたアイラは、何人かの列ができているカウンターへ駆け出していく。
……女心とはわからないものだ。
自分の無知に打ちひしがれていても仕方ないので手近に見つけた席に腰を下ろす。三人分の椅子があるし丁度いいだろう。紅く色づいた広葉樹を眺め、アイラが戻ってくるのを待つ。
『みなさんこんにちは! こちらアークエディン浮遊島のニナ・スルガウィッシュでございます!』
机の下にある籠に鞄をしまおうと身を屈めた丁度その時、騒々しい女性の声が辺りに響いた。それは室内にある大型のモニターから流れているものらしく、周りを大勢の生徒が取り囲んでいる。後ろの方に立っている女子生徒たちは見づらそうにしているが、室内の床よりも高い位置に設計されているこのテラスからはモニターがよく見えた。
『さて本日は待ちに待った「白銀祭」の日! 騎士王宮正門前広場は祭りの開催を待ちわびる人々で大変な賑わいを見せております!』
青いショートカットの女性が合図すると同時に映像が左右に動き、広場に集まった無数の人々を映し出した。男性も女性も色とりどりの衣装を身に着け、みな期待と羨望の眼差しを一点に集めている。
……そうか、もうそんな季節か。
そわそわし始めた生徒たちを文字通り遠目にして、一人ため息をつく。
白銀祭。
それはこのアークエディン騎士王国で毎年秋に行われる、ある「伝説」を称える祭りだ。
……いや、「伝説」というより「史実」といった方が正確か。
『あっ、ご覧ください! 正門の扉がたった今開こうとしております!』
一枚岩でできた扉が厳格な音をたてながら少しずつ開き始めた。モニター内外の観衆はもちろんのこと、喧しく騒いでいた女性もこの時ばかりは固唾を呑んでその様子を見守っている。
野暮ったいほど長い時間をかけて開いた扉から古めかしい鎧を身に着けた騎士たちが行進を始めた。年齢性別様々な彼らは寸分もずれることなく広場に整列していく。彼らが足を止めるころにはその間に一本の真っ直ぐな道ができていた。向き合った騎士たちはその場で静かに膝をつく。
『――アークフィールドの名の元に、輝け、誇り高き翼よ』
霧がかっている門の向こうから聞こえた声に、広場全体をひりつくような緊張感が走った。
それがピークに達した、まさにその時、
「あの人」は、姿を現した。
『『白銀の光翼』!』
白銀の光を放つ大翼を、はためかせながら。
一つの音さえなかった広場が歓声と熱気に包まれる。中には失神してしまったのか、その場に倒れ込んでしまった人もいた。モニターの外でも同じような状況が繰り広げられており、あまりの声量に窓ガラスと鼓膜が激しく震える。それに対抗するかのように、秋風に揺れる木々たちが悲鳴を上げた。
数秒おきに翼を動かしながら、「あの人」はゆっくりと広場を進んでいく。その間も決して歓声は止むことなく、室内に取り付けられたスピーカーが激しい音割れを起こしていた。身の毛もよだつほど不快なそれだが、周りを取り囲んでいる生徒たちは気にする素振りさえ見せない。
数分かけて十メートルほど前に進み出たところで、「あの人」は固く閉じていた瞼を開けた。翼と同じく白銀の瞳と透明感のある金色の長髪が秋の日差しを反射する。その光景に思わず目が眩んだが、他はやはり目を背けることさえしない。
広場の歓声を全身で受け取った「あの人」は、ゆっくりと、本当にゆっくりと右手を挙げた。それを見た観衆たちが一斉に口を噤む。止むことがないとさえ思われた歓声は一瞬にして静寂へとその立場を譲った。
『今日は集まってくれて、ありがとう』
放たれたのは囁きのような声だったが、静まり返った広場を駆けまわるには事足りていた。カメラに映る人々が一斉に頭を下げる。「あの人」はその全員が頭を上げるのを待ってから、再び口を開いた。
『私がアークエディン騎士王国第三十二代騎士王、フレギール・アークフィールドだ!』
高らかな宣言と共に広場がはちきれんばかりの歓声に包まれる。僕はモニターを見つめたまま、この場にいる人々の中で唯一ため息をついた。
名前ぐらい、みんな知っているだろうに。
相変わらず無駄な演出が好きな人だ。
「あの人」、フレギールが右手を挙げると歓声は消え失せる。少し前にも見たこの光景はあの場にいる一人でも目を背ければ成り立たない、いわば熱狂と妄信の総合芸術だ。
『……今から八百年前、この世界は終わりを迎えようとしていた』
声のトーンを一段階下げたフレギールは再び目を閉じる。
『しかし我々は今こうして生きている。それは何故か?』
対象のない問いと共に、門から巨大な額縁が運び出される。フレギールのすぐ後ろに設置されたそれだが、巨大な赤い布がかけられているため肝心の絵は見えない。
……毎年同じ絵だろうに、ね。
フレギールが小気味よく指を打ち鳴らす。それと同時に絵を隠していた布が勢いよく取り払われた。
『我が祖、レイドルフ・アークフィールドと「六色の魔女」が災厄に立ち向かったためである!』
銀色の豪奢な額縁に飾られているのは、おぞましい姿をした化け物に立ち向かう一人の少年と六人の少女を描いた絵。
その中で一際目立つ位置に描かれた少年の瞳は、フレギールと同じ白銀の光を湛えている。
絵が顕になった瞬間に、今日一番の歓声が広場を埋め尽くす。耐えきれなくなったスピーカーは途切れ途切れでしかその様子を伝達してこないが、代わりにモニター前にいる生徒たちの声が脳を激しく揺らした。遠くにいてもこのダメージなのだから、あの輪の中にいたら僕の鼓膜ははじけ飛んでいただろう。きっとあそこにいる生徒たちは強靭な鼓膜の持ち主なのだ。
空気を裂くような歓声もフレギールが右手を挙げると以下省略。
……この流れもいい加減飽きてきた。
『彼らが「狭間の魔物」に打ち勝ち、このアークエディン騎士王国が成立して今日で七百八十年目を迎える。私はこの記念すべき日を諸君と迎えられたこと、光栄に思う!』
歓声、右手、静寂。
『彼らの威光を称え、そして存分に平和を謳歌しようじゃないか!』
その一言を受けて人々はまた歓声を上げたが、ここでこれまでとは違った動きが起こる。全員が一斉に右手を空高く挙げたのだ。
そしてその手には、どこに隠し持っていたのか空のワイングラスが握られている。
もちろん、フレギールの手にも。
『ここに、第七百七十八回白銀祭の開催を宣言する!』
最後の「る」という言葉にグラスが打ち鳴らされる音が重なった。そして一列に並んでいた鎧騎士たちが人々のグラスに透明な酒を注いでいく。飲酒を禁止されている年齢の人々には小さな瓶入りの炭酸水が手渡された。カフェの室内で騒いでいた生徒たちにも店員から似たような瓶が配布される。みなそれを持っていたグラスに移し、一気にそれを飲み干した。
『みなさんご覧いただけたでしょうか! 私ニナ・スルガウィッシュ、白銀祭の開催宣言に立ち会えたこと大変光栄に思います!』
引っ込んでいたショートカットの女性が、ぐいっと画面の中に映り込む。その瞳には心なしか涙が溜まっているように見えた。例にもれず炭酸水を仰いだ彼女は、一呼吸開けて口を開く。
『さて今年の白銀祭は三日間様々なイベントが目白押しでございます! まず一日目となります本日のイベント日程は――』
細かな日程紹介になった途端にモニターの音量が下げられる。二か月前から色々な放送局が宣伝していたからだろう。それに今は開催宣言の余韻でみな興奮冷めやらぬ様子だ。商業的な話で雰囲気を壊したくないという店員の計らいなのかもしれない。
しかし今年は昔話が少なかったな……。
例年もう少し長い演説が用意されていたのだが、今年は文を短くしてインパクトを強くしたという印象だ。おかげで僕が詳しく解説しなければならない羽目になったじゃないか。届かない悪態と濁ったため息を吐き出す。
この国、アークエディン騎士王国に残る「伝説」。
それは「白銀の騎士と六色の魔女伝説」というものだ。
今は一つの国であるアークエディン騎士王国だが、約八百年前までは四つの国と一つの「島」に分かれていた。
北の「ノースヘヴン」、東の「エストシオ」、西の「サイラス」、南の「シュダリア」、そして四つの国の中央空高くに浮遊する島「エディン」。
大きなピザを四つに切り分けたような国々の間では争いが絶えることはなく、その上外縁の未踏地域から襲来する外敵「外縁の魔物」の討伐にも追われながら、人々は不安定に安定した日常を送っていた。
しかしそんな日常に突如として「終わり」が訪れる。
四つの国に囲まれた中央の平地に、突如として巨大な赤い「繭」が現れたのだ。
「繭」と言っても本当に虫の蛹を表しているわけではない。
あくまでも「繭」の形をしていたというだけだ。
実際に「繭」から産み落とされたのは羽の生えた成虫ではなく、異形の怪物。
「外縁の魔物」とも形状が異なる、後に「狭間の魔物」と呼ばれる災厄であった。
科学も魔法学も発展していなかった当時、人々はなす術なく虐殺され、四つの国々は瞬く間に蹂躙されていった。明確な記録は残っていないが、人口の三分の一が命を失ったと伝えられている。
誰もがこの世界は終わるのだと、そう確信した。
しかし「繭」が現れて三日目の夜、突然奇跡は起こる。
今まで全く未開の地であった浮遊島「エディン」から、七人の少年少女が舞い降りたのだ。
白銀の瞳を持つ少年と、通常とは異なる「色」の魔法を使う六人の少女。
彼らは凄まじい力で「狭間の魔物」を討ち滅ぼし、世界の終焉をあっさりと回避してみせた。
しかしそれは一時的な平和。終わりの根本である「繭」、異界とこの世を繋いでいるのだと判明した「狭間の繭」がなくなったわけではない。四日目の朝には、再び「狭間の魔物」が世界に溢れ出していた。
そこで疲弊しきっていた四つの国々は初めて手を取り合い、少年レイドルフ・アークフィールドを王とする一大王国、アークエディン騎士王国を樹立、「六色の魔女」と呼ばれることとなった少女たちの協力の下で「狭間の魔物」を撃退する準備を整えていった。
ここまでが俗に言う「白銀の騎士と六色の魔女伝説」であり、アークエディン騎士王国の創立日が今日、白銀祭の開催日となっているわけだ。
しかしおかしいとは思わないだろうか?
例え七人の少年少女の力を借りることができたとはいえ、簡単に世界が平和になるものかと。
実際にアークエディン騎士王国樹立から数年後、世界は再び危機に直面する。当然のことだ、毎日とめどなく溢れる魔物と戦い続けている限り人々の疲弊が癒えることはない。それは「六色の魔女」といえど同じこと。
そこで騎士王レイドルフ・アークフィールドは一つの決心をする。
自らが「狭間の繭」の中に乗り込み、その根元を断とうと。
無論周囲は猛反発した。しかしレイドルフの意志は固く、「六色の魔女」の一人「紫氷の魔女」との間に生まれた子ファルディオ・アークフィールドを残し、「紫氷の魔女」と二人「狭間の繭」内部へと旅立ったのだ。
それから彼らの姿を見た者はいない。
しかし長い年月が経過した今でも、彼らは生き続けていると考えられている。
彼らが「狭間の繭」に飛び込んでから現在に至るまで、「狭間の魔物」の出現数が当初に比べて激減しているのだ。
全くのゼロになることはなかったが、半分以下にまで減った魔物の数なら残された人々にも対処のしようがある。アークエディン騎士王国は日に日に領土を取り戻し、ついに「狭間の繭」周辺十キロ圏内を除いて全ての土地を奪還するまでに至った。その状態が現在まで続き、「狭間の繭」を直下に置く浮遊島(現在は国名のアークエディンを冠している)で大規模な祭りが開催されるまでの繁栄を見せている。
それもこれも全てあの日「白銀の騎士」と「六色の魔女」が現れたからなのだと、現在でもレイドルフ・アークフィールドとその妻である「紫氷の魔女」が「狭間の繭」の中で戦い続けているからなのだと、そう人々は考えているのだ。
よって「白銀の騎士」の末裔である現騎士王レイドルフ・アークフィールドは絶対的で不変的な信仰を集めている。
その信仰がどれほどのものであるかは、先ほどご覧いただいた通りだ。
「お待たせしました、クロア君。店員さんが他のことで追われていたので……」
目の前のテーブルに湯気のたつコーヒーカップが置かれる。長々と歴史の授業をくりひろげていたのであまり気にしていなかったが、アイラが席を立ってからかなりの時間が経過していたようだ。天高く昇っていた日が少し傾いたように見える。
「ごめんね、長い時間立たせちゃって」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ。それより……」
僕の謝罪をやんわりと受け流したアイラは紅茶のカップを置き、鞄の中を探し始めた。何だろうとその一部始終を見つめていた僕の眼前に、おずおずとピンク色の包みが差し出される。
「今日はクッキーを焼いてきたんです。一緒に食べませんか?」
「おっ、いいね」
広げられた包み紙から柔らかい色合いをしたクッキーが姿を現す。その内の一つを手に取って口元に運ぶと、ほのかなバターの香りが鼻孔を満たした。
僕にとってはあんなくだらない祭より、アイラのクッキーの方がよっぽど大切だ。
胸を満たす幸福感に浸る。
「……クロア君?」
なかなか口に運ばない僕を訝しげに思ったのかアイラが不安げな表情を見せる。ティーカップを持つ手は僅かに持ち上げられたまま、空中で止まっていた。
「いつもありがとう、アイラ」
僕が甘いもの好きであることを既知の彼女は、こうしてよくお菓子を作ってくれるのだ。それを当たり前だと思ったことはさすがにないが、形式化した気遣いは時に感謝の気持ちを忘れさせることがある。それはとても不躾で傲慢なことだろう。
だから今日はちゃんとお礼の言葉を述べようと、素直にそう思ったのだ。
「ど、どうしたんですか? 急に」
何故か目を伏せたアイラは、焦るような仕草でカップに口をつけた。「熱いから気を付けてね」と僕が呑気に呟いたころには時すでに遅し。
「っ……! あ、熱い……!?」
よほど熱かったのかカップを取り落しそうになったアイラの右手を支える。テーブルが小さくてよかったと心底思った。
「君はやっぱり少し天然なところがあるね……」
今回は想定内の予想外だったのでまだ助かったけど。彼女の場合少しですまないことがあるから気を付けなければならない。
「そ、そんなことは……」
否定しようとした語末は秋の風に消え去る。その様子を微笑ましく思いながら、アイラの手を離し再び席に座り直した。
違う方の手に持っていたクッキーを一口齧る。
自然で柔らかい甘さが、口内に広がった。