2-1 探査
「玄武岩粉体を50%混ぜたエポキシ複合材をUV硬化させた場合のγ線透過度は......」
竜司がその少女を発見した時から、時系列をほんの1日ばかり過去に戻る。
分厚い耐圧/耐放射線ガラスが嵌められた窓から眺める地球は、常に天空の同じ位置に座している。
だが数日前から徐々に欠けていって、今では半地球といった具合だ。
しかしそれも、地球時間であと9~10日もすれば再び満ち始める事だろう。
赤羽明日香は基地共有食堂のフリースペースでため息を吐きながら、あと2時間後に始まる屋外活動ミッションの為の技術プランを携帯端末に打ち込んでいた。
「ええと、モース硬度が4.5だから……」
彼女はふと、画面から目を離して周りを見渡す。
そろそろ夜勤のスタッフ達が遅い昼食を取りにやってくる頃らしく、既に十人以上が続々と食堂に入って来て、バイキングブースを中心に賑やかになりつつある。
「いつの間にか、もうこんな時間......あと少しで出発の用意をしなきゃ」
彼女は目頭を押さえながら、少しゆっくり目に溜息をついた。
彼女が居る月面基地、それはコードネーム「アルファ」とだけ呼称されていて
ティコクレーターの淵、地球から見て陰になった位置に建設されている。
なぜそのような位置にあるかというと、当然地球のアマチュア天文家などに見つかってはならないからである。
月面には1970年代から、極秘裏に建設されたアメリカやロシアの月面基地が幾つか存在する。
しかしこの基地はつい最近になって建設された新しいもので、米国やロシア、欧州の幾つかの政府等から送り込まれた軍出身の宇宙飛行士や科学者が数百人(明日香にも正確な人数は教えられていない)駐在している。
それでも人手不足感は否めないため、本来は月面専門地質学者としてやはり極秘にスカウトされた彼女でも本来の任務とは別に、基地建設や補修の為の屋外活動ミッションに参加せねばならないのだった。
彼女の担当は月基地建設の為の建設素材を実地にて研究開発する事であり、その為には材料の現地調達も自身が行う必要があった。
「よぉアスカ、プラン確認はその程度にしておいて、屋外調査開始前のメシにしようぜ」
リック・マクウォーリーが、やや体臭を帯びた巨体を共有食堂のテーブルに腰掛けながら厨房を指差した。
「駄目よ。屋外3Dプリンターの調子が悪くでもなったら、これから作るバイオ燃料電池製造ブラントの土台が傾いちゃうわよ」
「そうそう、材料工学のスペシャリストには頑張ってもらわないと」
リックに続いて食堂に来たニナ・クルツカヤが、からかうように手をひらひらさせて言った。
「別に材料工学の専門じゃないわよ」
「まあ仕方ないわよね。私だって月にウサギでも探したかったけど、いつの間にか基地内バイオエタノール燃料精製の専担になってるし」
月面では、エネルギー源の確保が常に重要な問題となっている。
太陽電池がもちろん大活躍しているのだが、長い月の夜の時は殆ど発電は期待出来ない。
月の両極に基地を建設すれば、絶えず日光を浴びる山頂付近に太陽電池を設置出来るが、ティコ基地の位置的にはそれが不可能である。
月面の真空状態と太陽熱を利用した蒸気機関もあるが、やはり日中でのみ有効だ。
こういう状況では、原子力発電が一番有利であり一応設置もされているが、月面環境保全と言う理由(実際は国家間の政治的配慮)で休止状態となっている。
そうした事から、水素などより高効率で安全なエタノールを主燃料とする燃料電池が、太陽電池の使えない夜時間での主エネルギー源として導入されているのである。
「フン、俺はNASAの頃からMS一筋だからな。
特別機密契約と家族との別離を引き換えにして月に来れたんだから文句言う筋合いは無いぜ。
ま、今回のミッションは久しぶりの遠出だからな、ウサギだかドラゴンだかでも好きなだけ探せるんじゃねーの」
「そういえば、工程表にクレバスの探査も含まれてたわよね。何か見つかるかしら」
「月に何を期待しているのやら......火星ならいざ知らず、ここはアポロ以前から無生物地帯だって分かってた筈でしょ」
火星では、1962年に当時の米ソが極秘裏に共同で送り込んだ火星探査機が最初の生命体を発見して以来、"機関"の宇宙生物学者達が詳細な火星生態系研究を行ってきていた。
なぜなら、"機関"が推進する超国家機密の人類火星移住計画、その目的を果たす為には火星のテラフォーミングが必須であり、そうなると火星生態系をどう扱うかが問題となるからである。
しかし、月は遥か昔から生物のいない天体であるのは表の世界でも裏の世界でも周知の事実だった。
月南極なら、その付近の永久影地域に氷があるかも知れず、そうすれば宇宙を漂う生命か有機物を捉えてる可能性もあるので生物学者の出番なのだが
生物学者のニナを月面中緯度にあるティコに派遣した"機関"の意向が、明日香には今ひとつ理解出来ていなかった。
「実は私にもよく分かってないのよね~、だけど他にもアメリカやアンタの国からも何人か生物学者やら考古学者やらが派遣されてるじゃない?」
明日香の問いかけに、ニナはいつもはぐらかすようにそう言うのである。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
1週間ぶりに乗る月面探査車は、相変わらず最悪の乗り心地だった。
ムーンローバーは、一応サスが効く構造にはなっていた。
ただメッシュタイヤが月地表の、一見してなだらかで細やかな粉体土壌のすぐ下に潜む岩石を敏感に拾うので常にガタガタ揺れ、しかもリックの荒っぽい運転のお陰で飛び上がる事もしばしばだ。
こんな状態の車内で、予定では20時間は過ごさねばならないのである。
明日香は暴れる車内で舌を噛まないようにして溜息を吐きつつ、せめてリックが小クレーターにハマって車体を横転させないようにと心の中で祈った。
3時間ほど走らせていると、ようやく最初の目的地であるE-2275Aクレバスが見えて来た。
「あれかしら......確かに洞窟みたいだわね」ニナがヘルメットの望遠機能をズームさせた。
明日香は望遠機能をいじらずに凝視した。どうせ目的地に着いたら間近で見られるのだ。
それに明日香の大きな目は、左右共に5.0以上あるのではと基地仲間にからかわれた事もある。
しかし、確かに何だか不思議なクレバスである。山の斜面に大きく口を開いた裂け目の中に深い穴が開いているようだ。しかも、その穴の中は妙な事にぼやけて見えるのだ。
「あら?」「どうしたの?」ニナが問いかけて来た。
「いいえ......」明日香はニナに苦笑する。少し根を詰めすぎて目が疲れているかも知れない。
そもそもこの洞窟が発見されたのも、月全域に存在する重力異常域を探査する月周回観測衛星がとびきりの重力異常スポットを探知したからだった。
マスコンは通常、隕石が落下したクレーターに存在する事は知られていた。
そして近年の詳細な調査研究により、その地表ないし地下に存在する高密度な物質との関連が示されている。
実際、更なる軌道上からの精査によってスポットの位置ぴったりに洞窟が存在する事が分かった。
分析の結果、洞窟の中に入れば大規模な未知の鉱脈が発見されるのではと期待されたのだ。
上手く行けば、屋外3Dプリンターに回せる材料を確保出来るかも知れない。
そこで、現在日程に余裕のある明日香達のバディに調査計画が割り振られる事となった。
「ふむ......穴の直径は10mはありそうだ。途中まではローバーで行けそうだな」
リックはそのままローバーを駆り、スピードを落としつつ洞窟の入り口に近づいていった。
「ちょっと停まってリック!やっぱり何か変よ!?」
明日香はぼやけて見える領域が洞窟の入り口全体に広がっている事に気付いて戦慄し、思わずリックを押しのけてローバーのハンドルを掴もうとした。
それはまるで洞窟の入り口に、半透明なもやの壁かバリアーでも張ってあるように見える。
「おいおいアスカ!俺を襲うのは基地に帰ってからにしてくれよ、運転中はあぶねえって!」
リックは冗談めかしながら明日香に注意しつつも、スピードはそのまま洞窟に突っ込んでいく。
どうやらリックには見えないようだ。ニナも明日香の行動に不審の目を向けている。
「ひっ!!」洞窟に入ると見る見るうちにそのバリアーのようなものが目の前に迫った。
「うわっ何だ?」「え?え?何これ?」
バリアー?に突っ込んだローバーごと、まるで一瞬浮遊したかのような感覚が3人を襲った。
しかしそれも一瞬の事で、すぐに何事も無かったかのようにローバーが洞窟の先を進んでいく。
「な、何だったんだ今のは......」リックもニナも首を傾げる。
すると、いきなり宇宙服に装備されたガス検知警報がピーピーと鳴りだした。
ガス検知警報とは、宇宙服に常備されているセンサーの一種だ。
宇宙服のバックパックにある生命維持装置から酸素等の気体が漏れだした場合、仮にその時宇宙服内の気圧が変化しなくとも死に直結しかねない故障である可能性が高い。
そこで、予め宇宙服の外部空間でも何らかの気体を検知すれば鳴るようになっている。
「おい!今ので宇宙服に異常が!?」
「ええ、まずリックのをチェックするわ」
「すまん」
「アスカ、貴方は私のをチェックしてもらえるかしら?」
「分かったわ」
3人一組によるバディは基本的に大きな階級差は設けない事になっているが、実際には宇宙飛行の経験年数などを考慮した序列が存在している。
特に明日香はこのバディの中では最年少なので、どんな場合でも大体最初はフォロワーに回る。
「......アスカのも異常は無いみたいね。とすると」
「ああ、今スイッチを入れた。......何だって?窒素濃度100%だって!?」
リックがローバーのコンソールに据えられたタッチパネルを凝視した。
ローバーには一通りの外部観測機器が装備され、その中には車外の気体分析装置も含まれている。
「どういう事なの?」
「何てこった......今、この洞窟内は約300ヘクトパスカルの窒素で満ちているんだ」
「有り得ないわ!それじゃまるでエベレスト付近と同じ気圧じゃないの!」
ニナがリックからひったくるようにしてローバーのタッチパネルを操作し様々なパラメータを操作してみるも、やはり同じ結果が出力されていた。
「確かに窒素は、鉱物から化学反応で発生する事もあるけれど......
ここにはそれが可能な鉱物は見当たらないようだわね」
「それだけじゃない。どんどん奥に行くに従って、気圧も増して来ているの」
「って事は、奥にその窒素の噴出源がある訳か?」
明日香はそれを聞くと急に言い知れない恐怖を覚え、直ぐにでも洞窟から外に出たくなった。
「ねえ、引き返しましょうよ。これだけ分かれば充分だわ。
入り口付近での未知の現象の件もあるし、今これ以上奥へ行くのは危険だわ」
「いや、もう洞窟は終点に近いぞ。奥に壁が見える......」
リックがローバーのヘッドライトをハイビームに切り替えると、洞窟の奥に何か見えて来た。
「表面が妙にキラキラしているわね、反射率が高いのかしら。まるで氷壁みたい」
「いや、鉱物か何かじゃねーか?表面に縦横に亀裂というか筋が走っているようだが」
「え......まさか」
明日香は自身の目を疑った。自分の視力が良い事が呪わしくさえ思えてきた。
洞窟の中に存在する筈が無いどころか、この月面にあってはならない筈のものだった。
それどころか地球上で発見されても、教科書が全て書き換えられる程の大事件になり得る。
それは、巨大な人工物体の側壁だった。