10-1 種播きの季節
「…それでは次のニュースです。
いわゆる「国の借金」である日本政府の債務残高が、1050兆円を超えて過去最大となる事が分かりました。これは財務省の発表によるもので、名目国内総生産(GDP)の約2倍強に匹敵するものです。
政府はこれに対し…」
プチッ
部屋にいた男は、リモコンで付けっ放しになっていたTVの電源をオフにした。
いつの間にか、TVを付けたまま寝てしまっていたらしい。
男は大きくアクビをしながら、うたた寝をしていた事務室のソファから身を起こした。
そばのテーブル上にあるマールボロを掴み、灰皿を近くに引き寄せつつライターでタバコに火を点け、目覚めの一服をする。
別に彼は、そのニュースを聞きたくなかったという訳ではない。
既に散々聞いた話であるし、その内容の真偽と真実についてもよく理解しているつもりだった。
彼にとっては、その問題をどうにかしたいという気持ちもあるし、もうちょっとどうにかすればその問題に少なくともタッチ出来るような立ち位置にいるのである。
しかしいかんせん、その問題の解決方法が上手く編み出せずにいる。
確かにそうそう誰にでも解決方法が編み出せるものでないのは確かだが、だからと言って行き当たりばったりの、間に合わせの方策でどうにかなるものでは無いとも思う。
だが、この国はそうやって、責任を持つはずの多くの人間が問題を先送りにして来たのだ。
「新條先生、そろそろ始まりますので起きて下さい」
菅原秘書官が、ドアを開けて時間を告げた。
「そうかぁ…もうそんな時間か。
仕方ない、行くかぁ」
新條と呼ばれたその男は、ハンガーに掛かっていた、議員バッジを付けた上着を羽織って身支度を整えた。
今日も朝早くから衆議院政策勉強会の会合がある。
彼はこの新議員会館議員事務室で、その為の勉強用資料を徹夜で読み込んでいたのだった。
だが、結局全てを覚えきる前に朝になってしまった。
仕方がないと、かぶりを振ってテーブルの上に散らばった資料をかき集める。
と、そこに昨日秘書官から受け取ったままの封筒がまだ開けてなかった事に気づいた。
結局、何の手紙だろう?
どうせまた陳情書に違いない、と彼は思った。
地元の市議会議員で構成される後援団は、よくその地域での厄介事を陳情書にしたためて送ってくるのだ。
しかし、何となく気になってきたので、とりあえず封筒を手にとってみた。
「差出人は…」
封筒の裏には、”特事調 赤羽”とだけ書かれていた。
新條は、その差出人の名称を見て首をひねる。
「特事調…聞いたことのあるような」
と、ひとしきり頭を傾げて思い出そうとした時、ドアが思い切りよく開かれた。
「新條さん!例の決起集会はどうするんですか!?」
「俺たちももう限界なんですよ!」
「そうです!新條さんの一声さえあれば!」
「おいおい、まだ俺は何も言ってないだろ」
「いや、だからですよ!もう幹事長や幹部連の圧力には、僕らはいい加減我慢の限界ですよ!
昨晩の懇談会なんか酷いもんだったじゃないですか!新條さんさえバシッと言ってくれれば、僕らはいつでも決起できますから!!」
「まあ待て待て、まだその時期じゃない。
少なくとも通常国会が終わるまではもう暫く辛抱してくれないか」
「しかし!!」
同じ党内の若手議員数名に詰め寄られた新條は、落ち着き払った表情で彼らをなだめた。
新條の顔立ちはすごくイケメンという訳ではないが叱咤激励にふさわしくどっしりとした雰囲気で、だからこそ老若男女を問わず人気がある。
今回も、彼の目を見て若手議員たちも落ち着きを取り戻したようだ。
「まあ諸君の言いたい事は分かっている。
しかし今は雌伏の時だ、いいね」
「…はい」
新條は前々から若手議員達を集めて私的勉強会を開催していて、最近ではその繋がり・結束をじわじわと強くしていく方策を取っていた。
そもそも彼らは現在の与党:民自党の中でもかなり革新的な気風を持っていて、彼らの不満や要望などを聞いていくうちに、いつしか党を離脱して新党の結成を考えるようになっていた。
当然その意思は彼らにも伝わっていて、もちろん彼らに否やは無かった。
あとは時期を待つだけなのだが、しかし新條には不安があった。
「新党のポリシー・マニフェストは、そのまま日本の羅針盤・国是となるべきものにすべき」
という彼の考えには誰しも賛同したが、肝心のポリシーが定まらないのだ。
その中にはもちろん、未来の日本のグランドデザインとなる概念から、日本政府の債務をどうすべきかという具体的な方策まで包含するものとなる。
もちろん、格好をつけるためだけならばどうとでも決められるだろう。
しかしそれでは、民自党や他の野党が据えている形だけのマニフェストと何ら変わらない。
新條の理想としては、やはり本当の意味で日本を変革するための、しかも具現性のあるものが良い。
それを固めるまでには、新條には今少しの時間が欲しかった。
正直、新條が現在若手議員に語っている事は単なる時間稼ぎでしかないのだ。
「…ふう」
若手議員達が去って行くのを見て、新條は一息入れた。
そしていつの間にか手にしたままの封筒をじっと見つめた。
まさかその中に、自身が求める回答が入っている訳でも無いだろうに。
そう自嘲しつつ上着のポケットへその封筒を入れようとして、自らの腕に嵌めているブライトリングの腕時計が視界に入った。
「…何だ、まだ開始まで時間があるじゃないか」
彼は気を取り直すと、ソファに再び腰を下ろした。
とりあえず政策勉強会が始まる前に、何だか気になるその封筒の中をちょっとだけ読んでみる事にした。
「……、……
!?…これは」
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
同じ頃、都内の渋谷区にある小さなオフィスでは、同じような封筒を手にした背の高い青年が困惑していた。
「何だろう、どこかで見覚えのある筆跡だけど…」
そのオフィスは、最近のベンチャービジネス界の風潮を汲んでなのか古めかしい事務机みたいなものは一切なく、デザイナーが自由に設計したラフなテーブルや椅子が気ままな感じに置かれていて、天井には緩やかな間接照明が巧妙に誂えてある。
部屋の片隅にはカフェスペースやちょっとしたゲームマシンも置かれていて、いかにもアメリカ西海岸のベンチャーオフィスといった風情だ。
しかし、その部屋の主人はここ最近の事業継続性に頭を悩ませ続けていた。
そもそも、彼はアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業してからアメリカの某大手IT企業に勤めていたが、そこをたった2年ほどで辞めてからは日本に戻って渋谷の一等地に事務所を借り、そこでスマートフォンアプリ開発を中心としたITベンチャーを立ち上げていた。
そして暫くは幾つかのアプリでスマッシュヒットを出したが、ここ最近は全く泣かず飛ばすな状況が続き、既に抱えている数十名の社員をリストラするか否かの状況に追い込まれつつあったのだ。
その封筒の裏面に書いてある差出人の名前はなく、
ただ”M.ビーチ.ピアの23本目より”としか書かれていなかった。
「んん…M.ビーチ.ピアの23本目…何だろう、何か思い出し…」
「久福木さん、どうしたんスか?
なんか手紙の中に変なのでも混じってたンすかね?」
部下の高坂が通りすがりに声を掛けてきたので、久福木は首を横に振った。
「いや、大した事では無いさ。
それよりグーゴル社に送る仕様書の改修はどうなってるっけ?」
「あー、それなんスけど。
今グーゴルの担当者がなンか出張でロサンゼルスに居るけど、緊急の用が無い限りメールとか送って来ないで良いって言ってきてるンですよ。
だから、仕様書もちょっと遅れても構わんそうです」
「あー、そうなんだ。まあ実際はバカンスなんだろう、仕方ないさ。
しかしロサンゼルスねぇ、ロサンゼルス…
!!」
と、その言葉をきっかけに、数年前の記憶がハッと思い起こされた。
「ま、まさか…そんなはずは」
彼は、急いで封筒の端をビリビリと破り、
そして中身の文章を読み、改めて目を見張る事となった。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
その二人に手紙が届く頃より数日前に遡る。
オクウミと赤羽夫妻は多摩市上空の『ラライ・システム』内にある会議室に集まっていた。
サーミア、キロネ、シスケウナ、イゴル、そして明日香も同席している。
「みんな、集まってくれてありがとう。
特に、明日香さんは先日まで”ヤマトクニ”に出張していて、そこから帰りがけに通商結節体の星門開通式典にまで参加してもらって、帰ってきてまた直ぐに会議が続くような状況で申し訳ないと思う」
「いいえ、私は大丈夫です。以前に比べても体調はとても良いですし。
向こうの病院で根本的な体質改善療法を受けてきましたから」
明日香は、何度かに渡って『須佐ノ男』号達と一緒に”ヤマトクニ”へ渡航していて、そこでロボット達とのマッチングや遺伝子・知識伝達子などのスクリーニングを受けていた。
「そうか。良かった。ならば結構だ」
「明日香さんは『須佐ノ男』号達との相性は抜群だと、解析部のお墨付きを得てましたからねぇ」
とサーミアも付け加える。
「ならば安心して、明日香さんに次の仕事を依頼できるな」
「はい、何でしょう?私に出来る事であれば何でもおっしゃって下さい」
力強く答える明日香に、オクウミも頷いた。
「明日香さんは、最終学歴がMITだったな?」
「ええそうです」
「君の同期友人の中には、日本人で卒業後に日本へ帰ってきている者も結構いるようだが」
「みたいですね。私が”機関”にスカウトされて以降は連絡してませんが」
「その中で、一番信用におけると思う人物はどれくらいいるだろうか?」
「えっ?信用…ですか」
明日香は、暫く考えた後に答えた。
「少なくともビジネスとしての意味においては、少なくとも何人かは信頼出来ると思います。
プライベートまではちょっと分かり兼ねますが…」
「そうだな、正確には我々と一緒に仕事が出来るほど柔軟性があって、秘密が守れるかどうかという意味だ」
「うーん、そうですね…
少なくとも今から挙げる数人は以前から親しくしてもらってて気心も通じてますし、口も固いと思いますが」
そういって明日香は、数人の名前を挙げた。
「あら、その人達のうちの一人なら私達も知っていますわ」
竜司の母である由佳子が口を挟んだ。
「ほう、どんな人物でしょうか」
「ええと、まだ明日香ちゃんが高校の時に家まで連れてきた事があったわね」
由佳子が微笑むと、明日香が顔を真っ赤にして手を降った。
「由佳子おばさま!その話は今は関係ないじゃないですかー!」
「あー、そういえば俺も近所でバッタリ出会った事があるな。家に和雄と由美さんが居るからデート出来ないって、こっちの近所にまでやってきてたんだろ?」
「正樹おじさま!!」
明日香の両親の名前まで出されて、彼女は耳まで真っ赤になった。
「も、もうその話は時効です!!今は私達の関係は何でもないですから」
「あらぁ、その話はいずれじっくりお聞きしたいですわぁ」
「おい止めろってぇの」
ニヤニヤするサーミアの脇をキロネが小突いた。
「そ、それで何のお仕事を依頼するつもりなんでしょうか?」
「うむ、単刀直入に言えば、いわゆるベンチャー企業を設立してもらいたいんだが。
そしてその企業と我々の設立した事業体との間で貿易を行う」
「なるほど、以前に言っていた経済政策の一環ですね」
「そうだ。すなわち(水之題)と(金之題)だな」
オクウミがそう言うと、シスケウナとサーミアが同時に頷いた。
「基本、経済政策は商業部門をシスケウナが、科学技術振興をサーミアが分担して請け負うので、こう言う場合は両名が明日香さんとその人物と一緒にチームを組んで行う事になるだろう」
「ええ、ではまず彼と接触を図る必要がありますね」
「その通りだ。だが明日香さんの消息は一応現在も不明という事になっているからその点を配慮して、まずは第三者の名義で連絡を取って見る事になるだろう」
「とすると、私はどうすれば?」
「彼と何度か接触して、我々の方で問題ないと判断されれば、その時点で明日香さんと彼とで改めて接触して、彼の信頼を得るようにしてもらえれば良い。
その後、出来れば一緒に業務を担う事を検討してくれるだろうか」
「はい、分かりました」
その後、経済政策の詳細について話が詰められた。
「経済政策に関してはこんなものか。
それじゃ引き続いて、もう一つの政治政策についても討議したいと思う」
オクウミの言葉に、正樹が応じた。
「おっ、俺の出番かな。
既にオクウミさんの依頼に対して調べを付けといたぜ。
とりあえず、使えそうな議員の候補一覧がこれだ」
正樹は、テーブルにその議員数名の名前と履歴を書いた紙をペラっと置いた。
「イゴル」
オクウミがイゴルに命じると、イゴルはさっとそのテーブルに置かれた紙をスキャンし、テーブルの真上の空間に拡大投影させた。
「とりあえず、俺が見繕ったのはこの数名ほどだが…
特にこの男は要注目だ」
正樹が指をさすと、その指の先からレーザーみたいな光が出て、先端が男の顔写真を照らした。
恐らくイゴルの仕業なのだろう、ホログラムで指を疑似的なレーザーポインタに仕立ててくれている。
便利な事をしてくれるもんだぜ、と正樹が思いながらも、その人物の履歴と交友関係を記した部分に指ポインタを当てた。
「多分彼は、あと数年、いやひょっとしたら今年中にでも民自党を割って新党設立に動くだろうと思う」
「なるほど。最有力候補というわけか。
もちろん信用度は高いんだろうね」
「まぁな。とにかく彼は今の民自党の若手の中でも人気No.1だし、他の若手勢をまとめる手腕もある。それに彼の発言は世間の注目を集めやすく、目下のところ一番日本の現状を憂いていると言えるな。だからと言って左派的リベラルではないし、単純な対米追従の保守とも異なる。
次の総裁選と衆議院選挙では確実に台風の目になる奴だ」
「しかし、大丈夫か?
注目されやすいという事は、我々が接触できそうな隙が作りにくいと言う事でもある」
「当然その点も考えてある。
彼の副官的立ち位置にいるのがこの菅原という奴で、今は秘書官をしてるんだが、以前は少しの間公安調査庁に顔を出していた事もあって、実はちょっとした知り合いなんだ」
「そうか、それは良いツテだな」
「目下のところ、菅原が新條の日程を組み立ててるのは分かっている。
菅原を先に懐柔しておけば新條への接触も容易いだろう」
「ふむ、それでは私も彼との接触を希望する。よろしく頼む」
シスケウナが正樹に頭を下げた。
「おおっと、お嬢ちゃんに頭を下げられるような大した事やって無いから気にすんなって」
お嬢ちゃんと言われたシスケウナは、無表情で首を傾げた。
「ぷぷっ、お嬢ちゃんだって…」
「おいコラ」
笑いが堪えきれないサーミアへ、キロネが再び脇チョップをする。
「ま、じゃぁ早速、手紙を送って接触の機会を設けるとしようじゃねーか」
「という事で、ついに種蒔きの季節がやってきたわけだ。
それぞれの仔細は各分科会で各自話し合って決めてもらえれば良い」
オクウミの言葉に、全員が頷く。
「それでは、行動開始だ」