身代わり人生
私の名前は北井詮子、そして兄の名前は北井高志である。これだけで私の人生がスタート時点から、誰にも期待されることもない人間であったことがわかるだろう。
この名前を言えば、誰もが冗談だろう言うのだが、これは正真正銘の本名なのだ。生まれた時からこうであったから、その後の兄との扱いの差など、押して知るべしであろう。
例えば、私の母親というのが随分と昔気質の人間で、今時は積立貯金などは申し込んでおきさえすれば自動的に約束の日になれば振替入金してくれるものだ。だが母親は、必ず父親の給料日になると律儀にお金を引き出して、それを積立預金に入金するために銀行の窓口に並ぶのが常だった。
なんでこんな話をわざわざしているかというと、その金額が兄の高志には5万円であるのにたいして、私の通帳には5千円というあからさまに差をつけられた積立金額だからだ。そうしていかにも子供のためというように、その通帳を私たちに見せていうのだ。
「高志ちゃんは跡取りだから、末は大学に行かなければならないから5万円入れておいたからね。しっかり勉強するんだよ。詮子は女だから、学問は必要ないだろう。嫁入り資金に5千円いれておいたからね」
これが毎月、毎月、判で押したように繰り返されるのだから、私は自分はいらない子なのだといじけたとしても。無理もないのではないだろうか?
不思議なもので親に大事にされていない子供というのは、他の子供たちにとっても恰好の獲物になってしまう。なにしろ親さえ大事にしていないのだ。本人だって邪険に扱われるのに慣れている。だったら赤の他人が虐めても何にも言うまい。
子供の嗅覚は鋭敏だから、虐めても問題ない相手を的確に選び出す。こうして私は親からも、他人からも大切にされることなく育ったし、困ったことには自分自身ですら、自分を大事にできなかったのだ。
こうした何となく邪険にしてもいい相手という認識は、年齢があがっても続いてしまう。人間だって動物の一員であるからには、無意識にマウンティングするものだし、自然界では生き抜くのは強い個体であるからだ。
だから私は虐められて当然だった、と言っているわけではない。ただ教師からも同級生からも私は取るに足らない人間として扱われてきたという事実を述べているに過ぎない。
そのまま日陰で育っていればまだよかったのかも知れない。しかし困ったことに家族で海水浴に行った時のことだ。例によって兄にはイルカ型の素敵なボートが与えられ、私には浮輪すら与えて貰えなかったから、私は家族と離れて、ただ砂浜で砂遊びに興じるしかなかった。
父親も母親もお兄ちゃんについて海に入っていたのだから、責められるべきは両親の筈だった。イルカのボートがひっくり返り、兄はそのまま引き潮に流されてしまった。両親が必死に助けようとしたのだけれど、砂浜に戻された兄はとっくに息をしていなかったのだ。
「お前が死ねばよかった!」
母はほとんど憎しみを込めてそう言ったが、そう言ったところで私が死ぬわけにもいかないし、兄が生き返る訳でもない。ただどうやら両親は私の姿を見るだけで、憎しみが募っていくようだった。その憎しみを両親は、私を兄の代替品とすることで、なんとか折り合いをつけることにしたようだ。
そのあとの人生はそのまま兄の身代わりであった。もっと正確に言えば両親が、兄ならばこうなるという理想の人生を歩むことが義務付けられた。兄がそのように生きたかどうかなんて誰にもわからないというのに。
「高志ならできるのに、なんで詮子はできないの? やっぱり詮子は出来損ないね」
父も母もそう言って私を責めたから、私も自分は何にもできやしないと諦める癖がついていた。出来損ないの詮子としては、諦める以外に何が出来たというのだろう。
そうは言っても、兄が行くべき学校に合格することや、兄が行くはずの会社に入社することは、ほとんど親にとっては妄執のようになっていたから、私はがんばって全て実現したのだ。
本当ならここでいい加減気づくべきであった。私もけっこうやるんじゃないかと。なにも両親が言う程の出来損ないではないのではないかと。現実に私には成し遂げたことがあるのだから。
ところが一流大学に入学し、一流会社に入社しても私は北井詮子のままであった。ふと気づくと私の周りには、私にあれこれと指図をし、そして私が少しでも希望や期待をもてばそれを潰す人ばかりが集まっていた。
「詮子にはプレゼンは無理でしょ。それは私がやってあげるから、資料をしっかりまとめておいて。何も手柄を取ろうっていうんじゃないのよ。詮子の為に言っているの。詮子が恥をかかないように助けてあげているんだからね」
「まさか、あのプロジェクトに入りたいって詮子は本気なの。あなたなんか通る訳ないじゃん。詮子のためにいってあげてるんだから馬鹿な夢をもつのはやめなよ」
そうしていつしか私は気がついてしまった。私の友人だと言って私にあれこれ指図している人の言い方が、全く私の母親と同じだということを。母親がいつもいう魔法の呪文。
「高志ならできるけど詮子にはできっこないわ。諦めなさい。詮子の為を思って言っているのよ」
そう。私の周囲にいる者は私を欠片も尊敬なんかしていない。詮子が出来損ないだからこそ友人として価値があるのだった。『あなたの為に』という恩着せがましい言葉を平然と使えるほど、詮子は御しやすい相手だったのだ。
私はひとつの住所をじぃっと見つめていた。もしかしたら、私は物事がうまくいかないのを、お兄ちゃんのせいにしているのかも知れなかった。けれど、やってみて損はないでしょ。私は北井詮子なのだしね。
お兄ちゃんという、私にとっては呪縛でしかない存在を、本当の意味で忘れ去ることができたとしたら詮子は詮子として生きることができるかもしれなかったから。
そうして私は今、封印の館の中にいる。棺に納めたのは兄の高志の写真だった。実はこの封印の館に来る前に、家具付きのアパートに入居を決めていた。両親は女の子のひとり暮らしはふしだらだとして許さないけれども、もう決めたのだ。
棺の蓋を閉めて鍵をかける。
かたん
すこし重い音が響いて、詮子の心はかるくなった。
「北井詮子さん。あなたは何を封印したのですか」
封印の館の主の問いに、私はのんびりと返事をします。
「心の重荷を封印しました」
その答えに封印の館の主はにっこりとほほ笑んで見せた。
新しいアパートに住民票を移し、とりあえず必要な日用品は百均で揃えて、紺のスカートと白のシャツを何枚か買いそろえて私の新生活はスタートした。
携帯も変えていたから、両親にとって娘と連絡をとる手段は会社迄くるか、会社に連絡するしかなかったが、それはできないだろうと詮子は知っていたのです。なにしろ両親は家ではとても偉そうだが、一流会社というだけで怖気ずくのだから。
両親が万能の権力を振るえる場所は、家庭の中だけであった。 さらに言えば、詮子だけには両親は言いたいことが言えたのだ。世間にでれば、両親はかわいそうなほど小心で、世間体を気にするような人物でしかなかった。
詮子が兄から解放されたからと言って、何も変わらないと詮子は思っていた。
ところがそうではない。詮子の周囲にいた自称友人たちがこぞって詮子の悪口を言い出したのだ。どうやら詮子は生意気になったらしい。詮子としては友人を選ぶときにひとつだけ判断基準を設けただけなのだが。
「あなたの為を思って」
という発言をする人がいたら、尻に帆かけて逃げ出すことにしたのだ。たったそれだけで詮子の周囲には風通しがよくて爽やかな人が集まった。新しく友人になった人々は相手を尊重するのと同じぐらい、自分を大事にできる人々だった。
詮子は自分でプレゼンをし、プロジェクトにも積極的に参加したから、そこでも多くの友達ができたし、実は恋人もいたりするのです。
やがてとうとう勇気を振り絞って母親が連絡を寄越したので、詮子も一度実家を訪ねました。母親も父親も高志という人を引き合いにだして、詮子を責め立てたので、詮子は本当に不思議そうに尋ねた。
「その高志さんって人は一体誰なんです? どうやら亡くなった人みたいだけれども、お母さん達は死人に魂を取られているのではないの? 一度お祓いでも受けた方がいいかもしれないわ」
両親は絶句して化け物でもみるような顔をして、詮子を見た。そうして二度と家の敷居をまたぐなと言いつけた。詮子は過去の亡霊に取り込まれている両親が哀れでならなかったが、例え身内といえども人生の選択は尊重するしかない。
両親は過去に生き、詮子は未来に進むのだ。そう決めたのだから。それでも詮子は、毎年自分の誕生日には両親に連絡を入れている。
両親は詮子を許さないことで、詮子を罰しているつもりのようだ。だがいつか両親も気が付くときが来るかもしれない。許していないのは、自分自身であることを。詮子を罰しているつもりで、自分達を罰しているのだと。
両親は、いつか本当の詮子に会いたいと思うかもしれない。詮子はもう、あきらめない人になったのだから。諦めない詮子は、両親の心を掬い取る日がくることも諦めないことにしたのだ。
詮子はもうすぐ結婚する。いつか子供が生まれるだろう。その子はきっと幸せだろう。
その子は誰かの身代わりの人生は歩かない。自分の足で、自分の人生を歩いていくのだ。