男嫌い
「オレが嫌いなら最初からそう言ってくれよ。変に気を持たせる真似なんてするなよ。男嫌いってのは本当なんだな。なんだって告白した時にオッケーしたんだ!」
温厚な飯嶋直人が珍しいくらいに声を荒げている。
「違うのよ。本当に違うの。私は飯島君のこと、素敵な人だと思っている」
新川幸子が、必死になって追いすがると、飯島直人は幸子を抱きしめてキスを迫った。新川幸子は思わず身体を固くして身構えてしまったのです。まるで恐ろしい罰でも受けるかのように。
飯島直人は幸子を突き放すと、哀しい瞳をして幸子をじっとみつめて、まるで幼い子供をあやすように言った。
「無理をするな。恋人にキスしようとするたびに、まるで暴漢にでも襲われたような対応をされたら、こっちもつらいんだよ。幸子がオレを大事に思ってくれていることは、理解しているつもりだよ。でもこっちだってもう限界なんだ。ごめん」
そういうと飯島直人は、部屋を出て行ってしまいました。幸子はぽつんと部屋にとりのこされてしまいます。誰と付き合っても、最後はいつもこのパターンで別れてしまうのです。幸子は別に男性が嫌いだとか、女性が好きだ、なんてことはないのです。
理由は幸子にもよくわかっていました。あれはもう3年も前のことです。バイトの先輩が幸子に何くれとなく、よくしてくれていたのです。だから幸子も。先輩として慕っていたのですが、先輩は違っていました。幸子がそんなつもりではないと言うと、先輩は強引に関係を迫ったのでした。
あの時の恐怖感がどうしてもぬぐえなくて、自分が好きだと思う人を目の前にしても、身体がすくみあがってしまうのです。きっと私は一生ひとりっきりで生きていくのだろう。幸子は覚悟を決めました。もう飯島直人にしたみたいに相手を傷つける恋愛はしない。私はひとりで生きていく。
そう決意してから、新川幸子は仕事に打ち込んでいきました。
「ねぇ、ねぇ。新川主任って独身だって聞いたけどもったいないよねぇ。気配り上手だし、出しゃばらないし、そのくせ言うべきことはちゃんと言ってくれるしさぁ」
「まあね。最初女の上司って聞いた時は、ヒステリー女だったらどうしようかなぁって心配したけど、いつも落ち着いているしね。落ち着きすぎて隙が無い感じが、男をドン引きさせてるんじゃないの?」
「私は新川主任って男嫌いだって聞いたわよ。今まで近づいた男が軒並み撃沈したんだって」
「まさか百合?」
「もう、いくらなんでも失礼よ。きっとご縁がなかっただけよ」
「そうそう。そんなことより私たちも頑張んないと新川主任みたいになっちゃうぞ」
「あんたが一番きついんじゃないの?」
楽しそうな笑い声を残して、若い女たちが去っていく。若さというものは、美しくそして残酷だ。そんな女たちの噂話にさえ、そのうちに幸子の話題はのぼらなくなっていった。
いつしか30歳はとっくに超えて、アラフォーと呼ばれる年齢になっています。結婚しないことでうるさく騒いでいた周囲も、いまや新川幸子は生涯独身を貫くのだろうと信じているのでした。
お局さまといわれる年齢になった時には、はなから恋愛を諦めてしまっている幸子は、サバサバしていて物分かりの良い上司として、若い女の子から慕われる存在になっていたのでした。
そんなある日。幸子は取引先の部長の接待をすることになります。幸子にとっては接待もいつもの仕事の一部にすぎません。適当に愚痴を聞いてやり、持ち上げていい気分にしてやればいいだけです。コツは相手に興味をある振りをすること。
瞳をキラキラさせながら熱心に相手の話を聞き、適度な相槌をうつことのできる幸子は、接待の席でも人気がありました。若くないということが、逆に安心感を与えたのかもしれません。幸子の男嫌いは有名ですから、いまさら誘われることもありません。
その部長は40代後半だというのに、まるで若者のような体型をキープしています。ストイックなタイプなのでしょう。こういう相手には自分も隙を見せない方が好まれます。怠惰な部分を嫌悪する者が多いからです。恋人ともなれば別かもしれませんが、所詮は仕事相手です。
「それは素晴らしいアイデアですね」
「まぁ、そんなこと! いやだわ。お上手ですのね」
「ええ、そういうことってありますわ」
いつものように適当によいしょを繰り広げている幸子に、切れ者と噂される男はすこし飽きてしまったのだろう。
「君って、男に嫌な思い出をもっているんだろう」
よいしょしていた筈の男から、いきなり確信をずばりと突くような質問をされて、幸子の目が泳ぎました。
「明日、すこしだけ付き合ってくれないかな。半日ばかりでいい。頼むよ」
そういう男の言葉には少しも下心が感じられなかったので、幸子はいつの間にかその誘いを受けてしまっていたのです。どうせ予定などなかったのだから。そう言い訳しながらも、幸子は自分の人生が変わるかもしれない予感に怯えていました。
佐々木和也。男に渡された名刺の名前は、思いのほかにありふれた名前でした。もしも結婚したら、佐々木幸子か。私の名前のほうが、もっと平凡だわ。そんなことを考えて、幸子は呆然としました。今一体私は何を考えたんだろう。仕事相手で、しかも1度しか会ったことのない相手です。
しかし幸子はその名刺に走り書きされた、バツイチ、ただいま相手募集中。子供なし。係累なしの文字を見つめていました。まるで釣書みたいです。
いったい佐々木は何を想って、こんなおばさんを誘ってきたのかしら。幸子なにを考えているの?どうせなにか仕事上の相談でもあるのよ。もしかしたら部下にいい女の子がいないか? って聞かれるのかもしれないわ。小娘みたいにドキドキするなんてどうかしているわよ。
幸子は無意識に高鳴る胸を、必死で理性で押し殺そうと奮闘していました。その夜はいろいろな考えが次々に浮かんできて眠ることなどできなかったのです。
翌朝、佐々木は幸子の家まで車で迎えに来ました。中年男性は私服になると途端に魅力が半減してしまうことが多いものですが、佐々木は黒のスラックスに白のコットンセーターをサラっと着こなしています。
「あら!」
思わず幸子が声をあげました。
幸子が選んだのは紺のパンツにやはり白のコットンセーターだったからです。まるでペアルックみたいだと幸子は恥ずかしくなって、着替えに戻ろうとしたのですが、気づいたら車に押し込まれていました。
男と2人きりのドライブだというのに、幸子はすっかりリラックスしていました。いつもならいろいろ気を回して話題を提供するというのに、ただ静かに車を走らす男の横で奇妙なほど落ちついていたのです。もしかしたら佐々木の選曲が幸子の趣味とぴったりだったからかもしれません。
「さぁ、ここだ。これを持っていきなさい。ネクタイと言えば男の象徴として代用できるだろうからね。この館は封印の館と言うんだ。行って君が男に対して抱いている嫌な記憶を封印しておいで」
幸子はわけのわからぬままに館に入り、いつの間にか棺のまえで、ひとりで突っ立っていました。棺にネクタイを押し込みながら、幸子はあの先輩を思い出しました。私の人生を台無しにしたことなど、きっと何も知らないのだろう。先輩にとっては一夜のお楽しみだったのだから。
ふつふつと湧いてくる怒りで幸子は叫び出しそうでした。館の主の言われるままに棺に鍵をかける瞬間まで、幸子はそに怒りに震えていたのです。
ガチャン
頭がわれるような大音響が響きました。
「新川幸子さん。あなたは何を封印したのですか?」
封印の館の主の言葉に幸子は微笑みました。
「きっとそれは私の怒りの源です」
幸子が外にでると、涼やかな瞳の佐々木が幸子を出迎えてくれます。
「新川幸子さん。僕と付き合ってくれないか?」
佐々木はまるでそれが当たり前であるかのように、自然な態度でした。
幸子はその言葉を聞くと、にっこりと笑いました。
「それより、私たち結婚しない」
佐々木は破顔しました。じつに愉快そうに笑うと真面目な顔になって幸子を見つめます
「いいねぇ。じゃぁこのまま役所にいくぞ!」
「でも立会人がいるでしょ?」
さすがにこのまま結婚するぞといわれて、幸子も焦ります。それに結婚届には結婚する当事者以外に2人の署名が必要なはずです。
「大丈夫さ、誰か呼ぶからね」
2人が最寄の役所に到着した時には、佐々木の悪友らしき男たちが、いたずらっ子みたいな顔で待っていました。
そうしてこの幸せな新郎をもみくちゃにしたあげく、幸子に真面目くさって挨拶をしたので、幸子は涙を流すほど大笑いをしました。
2人の電撃結婚に周囲は目を見張りましたが、なぜか当事者たちはそれが運命だったからと、涼しい顔をするのでした。