努力と才能
「そんなバカな、そんなバカな」
さっきから秋川樹は同じ言葉を繰り返している だって、じゃぁ、あれだけの努力は何だったんだよ!あの浪人生活の間、集中力を切らさずに毎日最低ノルマを10時間と決めて勉強してきたんだ。
予備校にだって通ったし、人一倍熱心だったと思う。寝る間を惜しむと言うけれど、樹は睡眠時間にも暗記用のテキストを流し続けてたのだ。寝ている時間だって勉強したいたんだぞ。
それもこれも親の期待に応えるためだった。父親も、親戚も、従兄たちだって、世間にでればそれなりの有名人だ。
祖父は財界でも知らぬものはない大物だし、その子である父親や叔父たちだってそれなりの会社のトップにのぼり詰めている。
民間企業だから、なにも絶対に東大でなければならないという訳でもない。もちろん出来れば東大がいいが、別に一流大学ならそれでいいのだ。官僚を親に持つよりずっと楽だろうとおやじたちは言った。
だけどダメだった。樹は絶望的に要領が悪くて、いくら勉強しても成績は振るわなかった。案の定落ちた。おやじたちが、一流だと認める大学は樹にとっては、そそりたつ厚い壁でしかなかったのだ。
拾ってくれた大学はあったが、樹のプライドがどうしても受け入れられなかったし、親父たちは来年があるさと気軽な調子で言ってのけてくれるのだ。
だから浪人して、それこそ落ちたら本当に死んでやるつもりであった。合格を知ったとき、心から安堵した、
生きていけると思ったし、生きていてもいいのだとも思った。他人から見たら、まるで馬鹿のように思えるだろう。けれどもそれぐらい思いつめていたのだ。
学生時代を謳歌したのは、そんなにいけないことだったのだろうか?だが大学に入ってみれば、樹ほど悲壮感を漂わせて勉強している者なんていないように見えてしまったのです。誰もが勉強と遊びを軽々とこなしているようにしか見えない。
樹は苦しかった受験時代のうっ憤を晴らすかのように遊び歩いた。サークルで女の子たちにちやほやされるのも楽しかったし、それをうらやましそうに見る男たちを蔑んだ。
オレは努力したからここにいるんだ。努力もしない奴らが何を言ったところで、そんなものはなんの足しにもならない。世の中は実力がある者が勝者になるんだ。努力できるのも実力だ。樹は実際に命がけの努力を続けてきたのだから、泣き言なんて聞けるはずもなかった。
そうしていつしか大学の成績が落ちていき、父親に叱られても、母親に注意されても樹はきかなかった。オレには実力があるんだから、成績ぐらい本気を出せばすぐに挽回できる。そう高を括っていたのだ。確かに樹は合格という結果でもって、その実力を証明してみせたのですから。
今日は叔父から呼び出しを受けた。成績や生活態度を注意されたが、樹は聞き流していたのだ。その時叔父は言ってはならない一言を言ってしまった。
「いい加減にしたらどうだ。兄貴がお前を入学させるためにいくら払ったと思っているんだ。金で入学したから卒業も金で買えると思っているのかね。世の中そんな甘いものじゃぁないぞ!」
そう言った叔父は、樹が真っ青になって今にも倒れそうになっているのを見て、ようやく己の失言を悟った。
「まさか。樹。知らなかったのか!」
そうして既に樹の目がなにも映していないのを知ると、必死になって宥め始めた。
「いやぁ。そこまでショックを受けるとは思わなかったよ。なぁに、ちょっとした冗談だよ樹。忘れてくれ。これは叔父さんが悪かったね」
そんな子供だましみたいな言葉を信じることができると、叔父は本当に思っているのだろうか。たった今、樹の信じる世界が粉々に砕かれたというのに。
叔父は樹を家に送り届けると、両親と話しこんでいるようだったが、樹にはもう関係ない。だってオレは本当は合格しなかったんだから。だから生きているのは間違いなんだ。間違いは正さなきゃ。オレは生きている資格がない人間なのだから。
ふらふらと紐を取り出した樹を父親が殴った。母親が泣いて縋った。だけど樹には、もうどうすることもできなかった。だって努力は無駄だから。オレは頭が悪いから、だからきっともうおしまいなんだ。
父親はその時初めて期待という重荷で、自分の息子をがんじがらめに縛りあげていたことを知った。今目の前にいる息子は、たかが成績が悪いというようなことで、頭が悪いと思い込んで死を選ぼうとしているのだ。追い詰めたのは父親であった。
それを初めて自覚した父親は愕然とした。息子を愛していたから期待を寄せた。何もその期待が外れたからと言って息子を見限るつもりなんて無かったのに……。間違いを正さなければならないのは息子ではなく、父親の方であった。
父親は樹の今までの成績表を全て袋にいれると樹を車に乗せた。
「なぁ樹。人生をリセットしたいんだろう。ならせめて命ではなく、記憶をリセットしないか。なぁ頭なんてもんは人間そう大差ないと思うぞ。少なくとも命を対価にするほど違いがあるとは思えないんだ。だから記憶を消そう」
この父親は一体なにを言っているんだろう? 樹にはその意味なんて何もわかっちゃいなかった。けれどひとつだけわかったことがある。おやじはオレを愛してたんだ。こんなバカなオレでも息子だと思っていたんだ。
樹は涙を流しながら頷いた。劣等感が消えても頭が良くなるわけじゃない。そんなことは判っていたけれども、この父親の願いを聞いてやりたいと思ったのだ。
封印の館の前で父親は言った。
「ここで待っている。そのつまらない劣等感を捨てて自由になっておいで。それを植え付けたのは私だろうから、そんなことを言えた義理ではないがね。さぁ行きなさい樹。私はここにいるから」
樹はただ父親のいうままに、自分の全てであった成績票を手に、目の前にある古ぼけた洋館に足を踏み入れた。これも年代ものの執事に案内され、封印の館の主の前に立った時、もう全ての重荷から解放されるのだと悟っていたのです。
樹は暖かい気持ちになって、その劣等感に元である成績票を棺にしまった。蓋を閉じる時には涙が止まらなかった。封印の館の主は樹の手に鍵を握らせて促した。
「さぁ、鍵をかけなさい」
カチリ
その音は樹の頭に楽し気に響いた。
「秋川樹季。あなたはどのような記憶を封印してのですか」
樹はちょっと考えてこういった。
「僕を縛っていたものを捨てたのです。きっと」
そういう樹はなぜだか自信に溢れてみえた。
樹は外で待っていた父親にこういった。
「父さん、心配かけてごめんね。僕は努力するよ。大学での勉強に真剣に取り組むつもりだよ」
父親は何も言わずに、樹を抱きしめてくれた。
たぶんこの時から、やっと樹の人生はスタートしたのだ。
劣等感から解放されても、樹はやっぱり何をするのもゆっくりで、人から後れをとっていた。
しかし樹はもう焦らなくなっていたし、他人と自分を比較しなくなっていたのでした。
ただ、ただ地道に努力する。それがいつしか樹のスタイルになっていたし、飽くことも倦むこともなくじりじりと進んでいく樹をいつしか人は認めるようになっていったのです。
あの封印の館を訪れてからちようど50年目の今日、樹には多くの人々からお祝いのメッセージを寄せられていた。
「秋川樹博士。ノーベル賞受賞の喜びを話してください」
「僕を見守ってくれた両親のおかげです。僕は努力することがとても好きで、成果は見えなくても続けてきて、きっとただ運がよかったとは思うけれど、でも努力裏切らないって思うんです」
樹の顔は晴れやかに輝いていました。