栄光の男
「しまった」
そう思う暇もなく、身体がゆっくりと前に泳いでいく。42.195キロという孤独な戦い。黙々と走り続けて競技場に戻ってきた。ここを1周すればゴールは目の前だ。なのにいきなり靴紐がプツリと切れてしまったのだ。
そして田辺正一はそのままグランドに倒れ伏してしまった。
よろよろと立ち上がろうとしたが、足に強烈な痛みを感じて立ち上がることができない。それを確認してコーチや看護チームが駆けつける。田辺は栄光のゴールを目の前にして、担架で運び去られてしまった。
もともと田辺正一はメンタル面の弱い選手だった。人がうらやむようなマラソン選手に相応しい才能がありながら、その上素直で練習熱心でありながら、栄光の金メダルを手にできないのは、メンタル面がひ弱なせいだと言われ続けてきている。
だから足首が完治しているのに、なかなか練習再開の知らせがないことも、それほど不思議ではなかった。しかしコーチは現れた田辺が、車椅子に乗っているのを見て驚愕した。確か医師から完治の知らせを貰ったばかりの筈なのだが、これはいったいどうしたことだろう。
医師の説明によると、事の発端は刑事が尋ねてきたことにあるという。それまではリハビリも順調で、すでに杖なしで歩いていたし、そろそろウォーキングをはじめようという矢先の出来事だった。
刑事がいうには、田辺の靴紐には細工がしてあったという。巧妙に小さな切り傷がかなりの数入れられていたのだ。小さい傷なので靴を履くときにはわからないし、最初は問題なく走れる。しかしいずれは切れるように仕組まれていた。
ささやかな細工だったので、運が良ければゴールまで何事もなかったかもしれないが、しかしいつかは転ぶだろう。警察が調べたところ、予備の靴紐すべてに同じ細工がされていたから、犯人は今回の金メダルを阻止しようというよりは、田辺の選手生命を狙ったのだろうという事だった。
なんていうことを言ってくれたのだと、コーチは頭をかかえこんだ。靴紐に傷をつけるなど田辺の身近な人間にしかできない細工だ。だから刑事は何度も陸上の強化合宿所に、調査にやってきた。しかし日本陸連は事がことだけに、密かな調査を頼んでいたはずだ。
田辺だけでなく他の選手まで、動揺のあまり使い物にならなくなっては困るからだ。警察もそこは配慮してくれると確約していたというのに、まさか本人に話を聞きに来てしまうとは。
田辺は刑事の話に深いショックを受けたらしい。自分の身近に自分を害する人物がいる。もしまた走り出したらこんどこそ、もっとひどい目にあうかもしれない。そう思うと田辺の足は動かなくなってしまったのです。
いい加減にしろ! とコーチは怒鳴り付けたい思いだった。大体卑劣なことをされたら、正々堂々とそんな罠なんぞぶち破ってやるぞ! と意気込むのが男ではないのか。それを女々しくも逃げ出してしまうなんて。
けれどもコーチも田辺の憔悴しきった顔を見ると、なんにも言えなかった。そうだ。田辺というのは恐ろしい程、傷つきやすくナイーブな人間なのだ。こればっかりは生まれ持った気質としか言えなかった。仕方がない。そう思ってもコーチは悔しくてならない。
こんな卑劣なことをした人間が、栄光を手にするかもしれないのだ。栄冠を頭にかぶる資格のない人間が、賞賛を得る。そんなことがあってたまるものか! 田辺の代わりとばかりにコーチは奮い立った。筋肉が衰えないように入念にマッサージをする。
上半身のトレーニングとともに、過去の映像を見ながらランニングフォームのチェクを行うなど、現役選手なみのケアを行った。そうされるたびに田辺は恐縮し、頭を下げる。走れないことが、期待に沿えないことが心苦しいと言わんばかりの様子だった。
コーチには犯人の目星がついていた。いつも傲岸不遜で練習仲間うちでは鼻つまみものだがマスクがいい。若くて人を人とも思わない発言をするのさえ、大物の証と世間では人気ナンバーワンの人物だ。
田辺みたいな花のないランナーよりもこの男が活躍する方がよほど絵になる。田辺正一がオリンピック候補から外れて良かったとまで噂されている人物だ。
すでに金メダル候補と噂されていて、彼を支援する企業も多い。だけど卑劣だ。正義は必ず勝つ。コーチは、とうとうそんな子どもじみた考えに取り付かれてしまった。
正義が悪に滅ぼされる例など、この世の中にはきっといくらでもありそうなものだが……。
「ちょっと付き合ってくれ」
靴紐の切れたランニングシューズを持ちながら、コーチは田辺に声をかけた。田辺は素直に頷いた。全く嫌なら嫌と言えばいいのに、こんな時でも田辺はコーチの希望を優先するのだった。
お人よしめ! けどなぁ、お人よしがいい目を見ることがあってもいいと思うぞ。たまにはな。
コーチはそんなことを思いながら、田辺を封印の館に送りこんだ。
田辺の車椅子をゆっくりと押していき封印の扉をノックすると、出て来た執事が当然のように車いすを押して中に消えてしまった。
「オレは、外で待ってろってことだな」
コーチはぶ然として呟いたが、その目は希望に溢れていた。きっと田辺は歩いてかえってくる。コーチはそう確信していたのだ。
田辺は封印の館の主から金色に輝く小さな鍵を受け取った。
その鍵は、栄光への道しるべのようにキラキラと輝いている。
カチリ
小さな鈴のような音が響いていく。
「田辺正一さま。あなたは何を封印されたのでしょうか」
真っすぐに背を伸ばして立った田辺正一は、封印の館の主の目を見つめていった。
「臆病な私を封印して頂きました。ありがとうございます」
田辺正一は封印の館の主に向かって最敬礼をした。
封印の館の主を大きく目を見開いてしまった。なにしろ今まで主に最敬礼をしたものなどいなかったのだから。クスリと笑って封印の館の主は言った。
「さぁ、お行きなさい。栄冠を頭上に抱く者よ」
田辺正一が、歩いて封印の館を出てきたのを見て、コーチは田辺に抱き着いておいおい泣いた。
「良かったなぁ。正一。良かった。良かった」
田辺はコーチの背中を静かに撫でていた。田辺に瞳に涙はなかった。ただ静かな闘志だけがその瞳の奥で燃え盛っていたのだ。
そして田辺はたちまちオリンピック候補として返り咲いた。田辺は変わった。田辺を知る人々は異口同音にそう言った。礼儀正しいところも、口数の少ないところも前と一緒だ。けれども確かに何かが変わった。
その証拠に田辺正一の前にでると、何か気おされたような気分がするのだ。自分がなぜか英雄の前にでもいるかのように。
男子マラソンのオリンピック出場枠はたった1つだった。そのひとつを巡って田辺と、それからコーチが犯人と目する男は激しく争って、なかなか結論が出なかった。とうとうオリンピック委員会かこう言った。次の東京マラソンの勝者を問答無用で、オリンピックの出場者にすると……。
そうしてその東京マラソン当日、最後まで田辺たちは競り合った。勝負は競技場の周回コースにまでなだれ込んだ。日本中が息をつめて見守る中。ゆらりとひとりの男が地面に倒れこんだ。その男の横をすり抜けるように田辺正一が勝利のゴールを切ったのだった。
男が倒れてすぐに、刑事たちが選手控え室を立ち入り禁止にした。そして思いがけないことがわかった。倒れた男の靴紐には確かに細工がしてあった。しかし細工をしたのは、どう考えてもその倒れた男の方だったのだ。警察は男が田辺を狙って靴紐に仕掛けをしたと発表した。
男は今回と前回の犯行を自供したが、なぜ仕掛けをした靴紐を自分の靴に結んだのかは、わからなかった。慎重に切り込みを入れた靴紐を田辺の靴に仕込み、自分のは安全な靴紐をつけた筈だった。誰かがきっとすり替えたんだと男は主張したが、自業自得と誰もそんな話を聞き入れなかった。
そうしてオリンピックで田辺正一は金メダルを獲得した。正真正銘の栄光を手にしたのだ。田辺には大勢の記者が押し寄せインタビューを受けている。
その時コーチの前に、あの刑事がやって来た。
「おかしいと思いませんかね。コーチ。いくらなんだって仕込みを間違える馬鹿がいる筈はねぇ。もしかしたら誰かがすり替えたんじゃないでしょうかねぇ。田辺を大事に思う誰かがねぇ」
そんな刑事の言葉にコーチはにやっと笑った。
「しかしあいつが今度こそ正々堂々と勝負していたら、勝敗はわからなかったんじゃありませんかねぇ。妙な小細工さえしなければ、そもそもすり替えだって成立しないでしょう」
「違いない」
刑事も苦笑した。
「ねぇコーチ。あの勝負。本当にどっちが勝ったとおもいます?」
「そんなの決まっていますよ。田辺正一です。それを自覚しているからこそ、あいつは小細工に走ったんですからね」
その言葉を聞いた刑事はしみじみと呟いた。
「なるほど、はなから勝負にもならねぇって訳か。勝敗がわからなかったなんて、コーチもたいがい性格が悪い」




