忘れたい恋
「お客さん。こんな山奥に人なんか住んでいるんですかねぇ。私はこれでも長く運転手をやっておりますが、この先にそんな御大層なお屋敷があるなんて聞いたことがありませんがねぇ」
ペラペラとよく喋る運転手だと、滝川由美子は思った。いつもの由美子ならそれでも運転手にお愛想のひとつもいうところなのだが……。
「おぉ。いやぁ、びっくりしたなぁ。本当にお屋敷がありましたよ。お荷物を降ろしますよ」
気のいい運転手なのだろう。由美子が黙っていても気を悪くすることなく、大きな段ボールをひとつ玄関まで運んでくれる。由美子は用意していた封筒を運転手に手渡しました。
「とりあえずこれで。また3時間経ったら迎えにきてください」
運転手は封筒をちらりと見て、大方の金額のめどをつけたらしい。
「いやぁ。すみませんねんねぇ。こんなにして頂いて。ではまたお迎えにあがりますから」
そう言うとうれしそうに帰っていきました。
3時間で済む。確かに麻衣子はそう言っていました。滝川由美子はぐっと唇をかみしめるとドアノブを強くノックします。
まるでドアの前で待ってでもいたみたいに、扉はすぐに開きました。執事が(おかしなことに由美子は本物の執事というものをみたことはなかったのだが、確かにそれは執事であった)、由美子の世話を焼いてくれるようです。
「お待ちいたしておりました。滝川由美子さまでいらっしゃいますね。旦那さまがお待ちでございます」
そう言うと由美子の足元に会った段ボール箱を抱えあげて、スタスタと先を歩いていきます。
由美子もきょろきょろとあたりを見回しながら、執事のあとをついていきます。執事は広々とした部屋に由美子を案内すると、マホガニーの大きな机に段ボールを置いたものですから、由美子は恐縮してしまいました。
その部屋には椅子といえるものはひとつしかありません。そこで由美子はそこに座って主人を待つことにしました。その時由美子は自分が誰かに見られているような気配を感じました。由美子が気づいたと知ったのでしょう。主らしい威厳を持った青年が由美子の前に姿を見せました。
「これがそうですね」
青年はダンボウル箱にちらりと目をやって由美子に確認します。
由美子は黙って頷きました。
「結構です。では始めましょう」
青年がそういうと、執事がぎぃーと音をたてながら、棺桶のようなものを台車に乗せて運んできます。
「あのう」
由美子は思わず立ち上がると、声をあげてしまいました。青年は眉をひそめると由美子の顔を真っすぐに射貫くように見据えて確認するように尋ねます。
「滝川由美子さん。あなたは記憶の封印のためにこの館にやってきた。その意思が変わったのですかな」
「いいえ、いいえ。私はどうしても消してしまいたい記憶があるんです」
「それなら始めましょう」
青年は由美子の気持ちなどになんの関心もないように、事務的にまるで作業でもするようにそう促します。
「この棺は、あなたの記憶の墓場です。ひとつひとつ消したい記憶を確認しながら、その荷物をこの棺にいれなさい。2時間後に私がここに戻る。それまでに記憶との別れを済ませておいてください。よろしいですね」
由美子は思わず棺に目をやりました。あの記憶は全てこの中に葬りさることになるのです。由美子が青年を振り返った時には、そこには人の気配はありませんでした。
由美子は段ボールを開けると、ひとつひとつ丁寧に棺におさめていきました。このCDは幹彦がいつも聞いていた曲です。このハート型のペンダントは、誕生日に初めて渡されてプレゼントだった。
由美子は自分の目から涙がぽろぽろと流れ落ちるのを知って、驚いてしまいました。
「おかしいわねぇ。まだ涙が流れるなんて。泣いて、泣いて、もう涙も枯れ果てたと思っていたのに」
幹彦は由美子が新入社員で入った時の、教育係でした。さりげなく由美子をフォローしてくれて、笑顔が爽やかな男性なので、他の新入社員からは羨ましがられたものです。
新入社員だけでなく先輩の女性社員からも人気がある人でしたから、幹彦が由美子をデートに誘った時には驚きました。
素直でまじめなところに惹かれたと幹彦は言ってくれましたから、あのころの由美子は有頂天になっていたのです。
社内恋愛は禁止だから誰にも内緒だと言われれば、秘密の恋みたいにドキドキしましたし、女性社員が幹彦にちょっかいをかけているのを見ると優越感に浸ってしまいました。
あのみんなが憧れる男は、私の恋人なのだ。そう思うと由美子は自分に自信が持てましたし、だんだんと責任がある仕事も任されるようになっていったのです。
付き合って5年。そろそろ同僚も結婚している者が増えてきたし、由美子も子供が欲しい。そんな話をしたら、幹彦はびっくりした顔をしました。
幹彦は本当に驚いたみたいなのです。まさか由美子がそんなことを言い出すなんて思ってもみなかったとでもいうように。
そのあとの幹彦の言葉は由美子を切り刻みましたが、由美子が一番傷ついたのは、幹彦の驚いた顔でした。彼はほんの欠片も由美子に本気ではなかったのです。彼の本気で驚いた顔は、はっきりとそう宣言していました。
幹彦が新人を片っ端から食い物にしていると知ったのは、その後すぐのことでした。
由美子は奥手だったから、幹彦が初めての男だったのです。そうと知った時幹彦がとても喜んでくれたので、由美子はそんな自分が誇らしいとすら思っていたのに……。
幹彦はモテない女をひとり救ってやったのだと、しゃあしゃあと言ってのけたのでした。
婚約をしていたわけでもなければ幹彦の両親にあわせて貰ったこともない。そんなことすら気がつかないなんて、なんと愚かだったのだろう。
幹彦と見た映画のパンフレット。遊園地で買ったキーホルダー。思い出の品々はどんどんと棺に葬られていきます。
「こんなことをしても、私の心の痛みは少しも楽にはならないわ」
由美子はそんな風に自嘲して言いました。
確かにセレモニーとして少しは役にたつかもしれないけれども、由美子の記憶のほとんどは幹彦で占められているのです。
「もう、全ての記憶を封印してもよろしいかな」
いつの間に来ていたのか、青年は念のためとでもいうように由美子を促しました。
「はい」
つまらない葬式ごっこだと思いながら由美子は頷きました。
「では棺を閉めて、この鍵をかけなさい」
由美子は言われるままに櫃を閉じると鍵をかけました。
カチリ。
大きな音が由美子の頭に響きわたります。
「さて、滝川由美子さん。あなたは何をしにこの館に来られたのかな?」
「記憶を封印するためです」
青年の問いに由美子はよどみなく答えました。
「どんな記憶を封印されたのですかな」
由美子は途端に不思議そうな顔をしました。そう言えば私は何を封印しようとしたのだろう。
「きっと、私は何か失敗してしまったんでしょう」
由美子の答えを聞いて、封印の館の主は、大きく頷きました。
「おもてにタクシーが待っていますよ。どうぞお帰りください」
由美子は狐につままれたような顔をしましたが、黙って館をさりました。
「お姉さん、あの館で何があったんだい。来たときには死にそうなくらいの青い顔をしていたのに、今は随分とさっぱりした顔をしているねぇ。まるで付き物でも落ちたみたいじゃないか」
由美子は微笑みました。
「そうね、きっとそうなんだわ」
由美子がタクシーを降りると、見知らぬ男がドアの前に立っていました。
「由美子、悪いなぁ。お前に本を貸していたろう。すぐにいるんだ。返してくれないかな」
由美子はびっくりして思わず逃げ出しました。
「おい、待てよ!」
男が由美子の腕を捕まえてたので由美子は悲鳴をあげました。
「助けて! だれかぁ」
「由美子、お前いったいどうしたんだよ! 当てつけかよ」
男が怒りのあまり由美子を殴ろうとしたところを、タクシーの運転手さんが、庇ってくれました。
「いい加減にしないと警察を呼びますよ」
ちぃっと舌打ちをして男は逃げ去りました。
「大丈夫ですか、お嬢さん。知っている男ですか?」
「いいえ、全く知らない人よ。いったいどうしたのかしら」
「まぁ、世の中おかしな奴がいますからね。ちゃん鍵をかけてねるんですよ」
そう言って運転手さんは帰っていきました。
「鍵」由美子はそう呟くと、クラシカルな鍵をカバンから取り出してしげしげと眺めています。さっきの男は、なんだかこの鍵と関係があるような気がするのです。
由美子はその翌朝から昨日の男に追い回されるようになりました。どうやら男は営業部の田原幹彦という名前だったようです。 由美子は総務部ですから、それほど接点がないはずなのに、由美子のいくところいくところにあらわれます。
「由美子、幹彦さん、もしかして由美子に気があるんじゃないの?」
そうささやかれて由美子は思わず大声をあげてしまいました。
「やめてよ! 気味が悪いわ。まるでストーカーみたいじゃない」
「おい、随分な言いようじゃねえか。昔あんなに可愛がってやったのに」
田原のあまりに傍若無人な言葉に、さすがに社内にいた人も騒然となりました。
「信じられないわ。妄想するのは勝手だけれど、私を使うのはやめて下さい!」
田原はそれを聞くと激昂しました。
「なんだと! あれだけ散々おれの中でひぃひぃ鳴いてたくせに。寂しいんなら又抱いてやってもいいんだぜ」
「いい加減にしてください! いったい何時私があなたなんかと付き合ったっていうんですか! 誰かそれを知っている人はいますか?」
由美子の叫びに社内の人も同調します。たしかに社内で由美子と幹彦が親しく話したことすらないのです。
部長が幹彦を呼び出して言い渡しました。
「君、2~3日仕事を休みたまえ。 きっと疲れているんだろう」
休暇から戻った時には、幹彦の机は本社にはありませんでした。のんびりと仕事ができる離島に転勤になったからです。
変な人だったなぁ。由美子はそう思いながら、いつの間にか鍵を握りしめていました。この鍵が、なにかとても大事なもののように感じてしまうのです。