【2】
石井岬という女性は、十人並みの造形・暗い・垢抜けないと三拍子揃った冴えない女性で、笹峯の女性に対する食指を伸ばす対象には到底なり得そうになかった。容姿に似合わず、比較的澄んだ声をしているのがギャップだったが、ぼそぼそと呟くようにな喋り方で、逆に癇に障る要因になっていなくもない。
岬はまだ十代のうちに命を散らしたわけだが、生前は職業という職業には付いていなかった。いわゆる「家事手伝い」という称号を与えられ、腫れ物を触るように実家に居着いていたらしい。ちなみに、「家事手伝い」の男性版は「自宅警備員」だ。いずれにせよ、誇れたことではない。
「それで、君の『未練』というのは、何なんだろう?」
「…………」
「まあまあ、そんなに硬くならずにね。君の『未練』というのを軽い気持ちで教えてくれればいいだけだから。世の中には、いろいろな未練を持っている人が居る。自分では特殊だと思っても、それほど変なことではないことが多いんだ」
「…………」
「もちろん、何も言わない権利も君にはある。僕はどちらかというとせっかちだけど、そうしたいと君が言うのなら、胸襟を開いて話し合えるまで、急かしはしないけどね」
「……どうせ」
「うん」
「……どうせ、理解してもらえないから。無意味……です」
笹峯は温和な表情を浮かべた。
「やっと口を開いてくれた! やったね! 女性を口説くのは、僕の得意技とはいえ、とっかかりとして口も聞いてもらえないんじゃ、どうにも進展は望めないからね。僕たちは、まずは第一歩を踏み出したってわけだ」
「……ッ。軽薄な人は、好みじゃないです」
笹峯は、「あいたたた」と額に掌を当てた。
「コイツは失礼。でも、そういう感じの女性も、僕は嫌いじゃない。好きとは言わないけどね。僕は正直なんだ。でも、君の魅力も、なかなかだと思うよ?」
「……私の、どこに魅力があるっていうんです?」
「大人しくて控えめて、遠慮深くて、人の気持ちに一歩譲る感じの子だな、と思ってるよ」
「全部同じことじゃない……」
「そういう、気だるげな表情もグッとくる」
岬は、嫌悪感を込めた瞳で、笹峯を一瞥した。
「嘘。私を褒めてくれる人なんて、いるわけがない」
「誰にも受け入れられない。そんな気持ちを味わってきたんだね」
「……別に。ほかの人がどう感じようと、私には関係ないから」
肩をすくめ、笹峯はため息をついた。
(典型的な中二病タイプだな。めんどくさいなあ……)
――こういう時は、クライアントに合わせることが重要。
ようするに、自己卑下の幻想の中で生きているのだから、それを徹底的に支持してやればいい。そうすれば、逆説的に隠し持っている自己顕示欲が表面化するものなのだ。
この年頃の女なら、高望みした夢という未練や、恋愛がらみの未練であったりと、出てくるもののパターンは決まっている。
「……たしかにね。君は年齢のわりに、驚くほど大人びた思考を持っている人間のようだ。世の中を生きていくのは、さぞかし辛いことだったと思うよ。世間には、馬鹿なガキや、バカな大人が多すぎる。もちろん、僕自身、バカな大人の一人に過ぎないことは、身に染みてわかっている。だがね、この世界には、理不尽なことが本当に多い。僕たちみたいのが生きていくのには窮屈すぎるんだと、時々思うよ」
『社会』を共通の敵として、いつの間にか『僕たち』という同盟を組んだふうに話をまとめていく。たいていの場合、オツムの足りないガキは、これでコロリと騙される。
「……変わってるんですね、あなた」
案の定、岬も目を丸くして妙な連帯感を得たようだ。
「わかるの? あなたに……」
「わかるさ」
何を?とは聞き返さない。多分、鬱憤を隠し持っているのだろうが、それを知ったところで栓のないことだ。
「そう、この世は地獄だった。だから、この先に待ち構えているところが地獄だったとしても、私は決して絶望しない」
「覚悟は出来ているんだね」
「そう。最初から絶望してるんだからね、これ以上そうする必要がないのよ」
「これ以上のクソみたいなところなんかないよね。君はしかし、その闇の深淵から差し込む一縷の望みのようなものは抱いていた……『未練』、だ。このクソみたいな世界で、君を縛り付けていた楔、それは、一体……?」
「それは……」
岬は、それまでの毒々しい雰囲気を引っ込めて、急にもじもじとしたした。
何事かを続けようとして、岬は言い淀む。
「それ、は……」
確信に近づいたようだな、と笹峯は頷いた。
「それは、もしかしたら、人間には手の届かない高尚なことか、あるいは全く逆に、俗っぽい凡人の望むようなことなのか、それは僕にはわからない。ただ、知っているのは、それがどちらであれ、僕たちのような人間には、困難なことだったということだけだ。僕たちは、『普通の人間』とは違う、いわば『特別』なんだからね。だから、何も恥じることはない……君の、未練は?」
◇
岬は情けない顔で笹峯を一瞥すると、蚊の鳴くような声を出した。
「あ、あい……」
「うん」
「あ、好き、な……人が……いた」
ほら来た。パターンだ。笹峯は思った。
「そうか、好きな人がいた。困難ではあるが、まったくもって、不思議なことではないよ」
「……でも、それは私には無理……。届かない恋だったの……」
「ふむ」
「愛……してる。私は、その気持ちを伝えたい。でも、それは私なんかには許されない……いけ、ない」
「……なるほど」
笹峯は曖昧に頷いた。少し思案してから、口を開く。
「そうだな、なら、まずは好きだった気持ちを、認めないか? 君が望まないのならば、伝えなくていいんだ。そのうえで、その気持ちはその気持ちとして受け止め、前を向くことも必要かも知れない」
「……そんな簡単な、気持ちじゃない……もっと、厭らしい」
「……うん、それは『好き』どころじゃない。『愛している』という泥臭い気持ち。もちろん女性として、異性に愛情を抱いてしまうことはむしろ尊いことではあるんだけど……?」
「……でも、無理。私の愛は、腐っているから」
「そうだよね……だからそれが君にとっての『未練』になってる。……でも、ね? それだからこそそれは、『君が乗り越えなければいけない未練』でもあるんだ」
岬は、はっとして顔を上げた。
「そんなこと……考えたこともなかった」
「だろうね」
「……でも、やっぱり、私には伝えることなんて……無理……歪んで……きた、ない」
笹峯は頷いた。まあ、ここからが、説得の腕の見せどころだ。
「そうでもないさ。『好き』っていう感情は、伝えることだけが重要なんじゃない」
「……え?」
「……うん、それはね、自分の中に大切に持っておいて、『思い出』とすることもできると思う。くだらないが、青春って、結局そういうものだろう? もちろん、無意味かも知れない。でも、それは僕らのような不器用な人間には大切なものかも知れない。つまり、『君にとって』無駄なことだと、君は思うかい?」
「……無駄、では、な、い……大切な……大切なこと?」
「うん、だから……」
笹峯が畳み掛けようとすると、岬は大きくかぶりを振った。
「でも無理。やっぱり伝えたい。だって、彼は、いつも私の傍にいたから。愛……なんて重すぎるし、気持ち悪がられるだろうし、私に興味なんて、なかったのはわかってるけど」
笹峯は苛立たしげに指でテーブルをコツコツと叩いた。
「そんなことは……」
「わかってるの……だって、私には、彼と釣り合うだけのなんの取り柄もないもの。だから、この気持ちを伝えることは、本当はできないって知ってる。間違って……る」
(ああ、もう、めんどくさいなあ……)
内心で、うんざりした溜息をつく。
「良いところの一つや二つ、人には必ずあるものさ」
「嘘。私なんかに……私なんか、穢らわしくて……」
「もう見つけた」
笹峯は人差し指をピンと立てると、断言してみせた。
「え?」
岬は、訝しげに笹峯を見上げた。
「声だよ。君の声は、すごく澄んでいて、耳触りが心地いい。歌とか歌ったら、うまいんじゃない? カラオケとか」
「……声?」
何度も「そうそう」と相槌を打って、岬にウィンクしてみせた。
「うん……あ! そうだな、『伝えたいけど伝えられない』なら、歌にして伝えてみれば?」
「え?」
びっくりして、岬の目と口が、大きく開かれる。
「だってさ、歌なら、伝えたことは悟られずに、でも、君の中では、間違えなく『伝えられる』ことになるだろう? それなら、君のリクエストに添える。 どうだい? 自作の歌を歌ってみるというのは。僕は、君の歌をその彼に伝えるよ」
「……突拍子もないことを、考えつくんですね」
「まあね、自分では、自分のことを常識人だと思いたいんだけど」
岬は首を左右に振り、少し俯いた。
しばらく無言でじっと岬を見て、その反応を伺う。
もちろん、伝える気なんてないけど。笹峯は内心で舌を出した。しばらくしてから彼女に、口だけで『伝えた』とでもいえばいいかな。
岬は、何度も逡巡した素振りを見せ、笹峯の瞳を覗き込んだ。
「……私の声? ……届く? この気持ちが、いびつな愛なのに……届くのかな?」
にっこり微笑みを返し、笹峯は大きく頷いた。
「君の『想い』次第だよ」