【1】
朝の通勤経路の、変わらぬ町並みを、いつものような軽やかな足取りで歩んでいく。
空がやけに高く感じられる夏場もとうに過ぎ、比較的柔らかで暖かい日差しと、刺すような冷え込みが交互にしていく、温度差の不安定な気候になった。
すれ違った大きめなヘッドフォンをつけた人が、鼻歌で歌っていた曲に伝染されて、その曲の数フレーズを口ずさむ。切ない歌詞と透明感のある歌声で、一世を風靡した天城まどかの曲だ。
脳裏に流れ始めた音楽のリズムにのって事務所にたどり着いた私は、頑丈な扉を開け、そのまま執務室に直行した。
「おはようございます、先輩!」
元気に声をかけるが、この声にまともな返事が返ってきたことは数度しかない。
「……んー」
案の定、眠りの園をまだ彷徨っているような先輩の低い声が、かすかに私の耳朶を震わせた。
「先輩、起きてください。今、濃いめのコーヒー入れますから」
「んー」
なおも覚醒との戦いに頑強な抵抗をしている先輩の声を背中にして、給湯室に立つ。
コーヒーを淹れ、香ばしい香りの湯気をゆらしているカップを持って、先輩が横になっているソファまで歩み寄ると、嗅覚が刺激されたのか、先輩は薄目を開けて頭をガシガシと掻いた。そして私からカップを受け取ると、コーヒーをすすり、目をパチパチと瞬く。
「うん、朝の寝起きは、濃いめのインスタントが一番だ」
「そうですか」
満足気に息を吐く先輩に、私は軽く肩を竦めてみせた。
「それじゃ、軽く掃除しちゃいますね」
それも毎朝のルーティン・ワーク。何しろこの執務室を一夜にして人外魔境に変えてしまうという、到底ありがたくないスキルを、この不精な先輩は惜しげもなく毎日のように発揮するのだから。
「あー、まあ、簡単にな。それと、実習生」
「はい?」
「うん、掃除が終わったら、今日は少し頼みたいことがある」
私は小首を傾げた。
「なんです?」
「いや、大したことじゃない。養成機関に、実習上の手続き書類を持って行って欲しいだけだ」
「お使いですね、わかりました」
「うん、頼む」
私は頷きながら、ふと疑問を口にした。
「ところで先輩」
「ん?」
「先輩って、いつも同じ黒いスーツですよね。一張羅みたいですけど、ちゃんとクリーニングとか出してるんですか? 不潔だと、モテませんよ」
先輩は、少しムッとしたようだ。
「失礼なやつだな。俺だって、着るものを意識するくらいはするさ」
「でも、毎日同じスーツのように思えますが」
「だろうな。全く同じメーカーの、全く同じ色の、全く同じサイズのスーツを、五着持っている」
「……着るものを意識してるんじゃなかったんですか?」
「……馬鹿言うな? 五着だぞ、五着? スーツをそんなに着回す奴がそうそういるか? こだわりだよ! そういう細やかな心遣いがだな……」
「繊細なのか不精なのか、よくわからない心遣いですね……」
私は呆れて、こめかみを押さえた。気にはしているようだが、やはり何か違う。
「まあ、わかりました。アカデミーまで、書類を届けに行けばいいんですね」
先輩は何か不満そうに口の中でブツブツ言っていたが、コーヒーを一口飲み、頷いた。
「ああ。大して重要な書類じゃないが、お役所仕事も仕事のうちだ。行ってきてくれ」
「はい」
アカデミーに足を運ぶのも、久しぶりのことだ。
ついでに、秋葉も呼び出して、向こうでゆっくりお茶でもしてこよう。
アカデミーのオープンテラスで食べる、アップルパイとミルクティーは、格別なのだ。
◇
先輩に頼まれたお使いを事務窓口で済ませて、荘厳なたたずまいをしたアカデミーの学舎の中庭に出る。するとそこは、四角く切り取られた綺麗な木目のテーブルがそこかしこに配置してあるオープンテラスのカフェになっていた。ここには、コーヒーや紅茶、抹茶風味のドリンク各種から軽食までが取り揃えられているのだ。
注文してきたミルクティーを片手に、空いているテーブルに着く。秋葉との約束にはまだ時間があり、さてどうしたものかと、何とはなしに縦長の紙カップを揺らす。
本でも持って来ればよかったかな……?
思ったよりずっと早く先輩に頼まれたお使いが終わってしまったため、どうにも時間を持て余すことになった。誰か知り合いでもいればいいのだが、そこはそれ、『落ちこぼれの遊馬』の異名を持つ私に、秋葉以外に親しくしてくれる酔狂な学友など、そうそういるものでもなく。
「は~あ」
溜息を吐き、紙コップに刺さったストローから、甘いミルクティーを吸い上げる。
アカデミーには、あまりいい思い出がない。特に『エージェント養成クラス』に所属し、なにかかにつけて槍玉に挙げられ、侮蔑と嘲笑を浴びる毎日が続くようになってからは、正直嫌気が差していたから、それも当然かもしれない。
ぼんやりと、行き交う学生たちを見やる。
楽しげに談笑している女学生たち。せかせかとせわしなく軽食を口に突っ込む男性。何事か呟き、天を仰ぎ見る職員らしき人。イヤフォンをして、首を小刻みに揺らしてリズムを取る、季節感を無視したアロハシャツとサンダル姿の、派手なオレンジ色に髪を染めている男性。
色んな人々がいるものだ。
……って?
ちょっちょっと……?
「笹峯さん?」
スルーできる範囲をおおよそ超えた存在感の人物を視界に捉え、私はびっくりして立ち上がった。
「やあ、遊馬ちゃん、奇遇だね!」
笹峯さんはそんな私に目ざとく気づいて、しゅたっと片手を上げた。
それから、イヤフォンを無造作に耳から剥ぎ取って、飲み物で塞がっていないほうの手に、音楽プレイヤーと一緒くたにして持ち、私のいるテーブルへと向かってきた。
「笹峯さん、どうしてここに?」
「いや、特別な理由はないんだけどね。単にアカデミーに提出する書類があったからで。こう見えても僕は面倒な雑用も厭わない、アクティブかつ誠実かつ勤勉な一面も持ち合わせていて、自分ではそれが隠れた魅力だと思っているんだけどね。ここ、いいかい?」
「はい」
私はいつものごとく立て板に水の笹峯さんに頷いてみせ、腰を再び下ろした。
笹峯さんは、手にしていた音楽プレイヤーをテーブルに載せると、カップを傾けた。
「何か、聴いていたんですか?」
笹峯さんの持っていた音楽プレーヤーに目をやり、首を傾げる。
「うん、まあ、昔の知り合いのね」
笹峯さんは、人好きのする笑顔を浮かべて、首を竦めた。
「すごいですね、歌手の知り合いなんですか?」
私は驚いて、正直な感想を漏らしたが、笹峯さんは飄々として首を振った。
「いや、彼女は歌手じゃないよ?」
「素人さんなんですか?」
「それも違う」
「……え?」
首をひねる私に、笹峯さんは器用にウィンクをしてみせた。
「ああー、やっぱり聴いちゃう? 聴いちゃうかあ……やっぱり? 気になるよね。うん、それじゃあ、話しちゃおうかなあ。でもなあ……知ってのとおり、僕の口は、絹ごし豆腐より脆いんだけどね!」