狙われたコデックス 03
早朝。あたりには、うっすらと朝靄が立ち込めている。朝の活動を開始している人間にも、殆ど出会わなかった。
広場に足を踏み入れ、クラネスは一度ぐるりと見渡す。敷地の端のあたりに、二人の人間がいるのに気がついた。
「クラネス、さん?」
驚いた声を上げたのは、ルイスだ。
その隣で、散策者用に設置されたベンチに腰掛ける、華奢な女性の姿があった。非常に愛らしいその顔は、不安げで、今にも壊れてしまいそうな印象だった。
「ごめんなさい。成り行きで、手紙を見てしまって。心配だから私も来たの」
「…………」
思わぬ人間の登場に、ルイスは狼狽えていた。
クラネスはルイスの隣の女性に、にっこりと微笑みかける。安心して欲しい、そういう思いからだった。
「クラネス・ロヴェルです」
「……ニコラスのお姉さんだ」
「……サラ・ルセル、です」
か細い声でサラは答え、すぐに立ちあがってルイスの腕を引いた。
「ねえ、ルイス。やっぱり帰りましょう。関係のない方まで巻き込んだりしては――」
サラの声は、途中で途切れた。ルイスの瞳が、何かを発見したのがわかったからだ。
クラネスも振り返り、ルイスの視線の先をたどる。
「ユアン……」
その姿を確かめ、クラネスは思わず呟いた。ちゃんと、来てくれた。これまで以上に、不機嫌な顔はしているが。
目の前までくると、ユアンは真っ先にクラネスをじろりと見下ろした。無言の怒り。それを無視してクラネスは、ルイスに向き直った。
「お願いよ、穏便に話し合って」
そう頼めば、聞いてもらえるとクラネスは信じていた。
しかしルイスは、もうクラネスを見ていなかった。ルイスはまっすぐに、激しい視線をユアンにぶつける。
「前はラウラ様に止められた。今日はそうはいかない。ラウラ様は、お前が態度を改めたと言ったが、そんなことで、お前を許すと思うなよ」
ルイスの言葉の中に出てきた人は、アスファリア騎士団の騎士長だ。そんな立派な人が仲裁に入って、それでもルイスの怒りは収まっていないというのか。クラネスは自分の役不足を急に実感した。
「許してくれと、誰が言った」
「何だと」
無表情に返答するユアンに、ルイスはますます怒りをつのらせた。かっと目を見開いて、ルイスはユアンの胸倉を掴む。ユアンはそれを払いもせず、近づいたルイスの顔を冷ややかに見下ろす。
「待って、二人とも」
「ルイス、やめて」
クラネスが声をあげたのと同時に、サラはがっしりとしたルイスの腕にすがりついた。
「ねえ、もうやめて。私が悪かったの。だから……」
「サラ、そんなことない。サラは悪くない。こいつに騙されただけだ」
呻くようにつぶやいて、ルイスはもう聞く耳を持たなかった。
ユアンは、どうでもいいとでも言いたげに、ルイスの言葉を切り捨てた。
「俺が騙したというのなら、それでいい」
ユアンは自分の胸元を掴んだルイスの腕を払い落とす。その刹那、ユアンの顔に向けて、ルイスの拳が勢い良く空を切った。
ルイスにすがりついていたサラがバランスを崩し、倒れそうになる。クラネスはとっさに彼女を支える。
はっとして見れば、ユアンは左手を上げて、ルイスの拳を防いでいた。ルイスはユアンを激しく睨みつけながら、奥歯を噛みしめている。
「先に手を出したのは、お前だからな」
と、ユアンはノーモーションから突然、右の拳をルイスの腹に叩き込んだ。ルイスは声もなく膝を落とし、一瞬止まった息に、激しくむせかえった。
「ルイス!」
サラが叫び、クラネスの腕から離れてルイスに駆け寄る。
ルイスが今一度、立ちあがってユアンに向って行こうとしたときだった。
「今だ、やれ!」
突然、周囲に不穏な声が響いた。木々の間から突然、十数人の男たちが飛び出してくる。男たちは皆、目元を黒い仮面で隠している。手に持たれた武器が、朝日の中で鈍い光を放った。
サラとクラネスが、同時に悲鳴を上げていた。恐怖のあまり、その場にしゃがみこむ。
一瞬で空気が変わっていた。ユアンとルイスがこちらに手を伸ばすのと、男の一人がサラを肩に担ぎ上げたのは同時であった。
「いや! 助けて、ルイス!」
「サラ!」
身を翻す男。ルイスはすぐに追おうとするが、別の男たちがそれを阻む。
クラネスにも男たちの手が伸びたが、それよりも早く、ユアンがクラネスを引き寄せていた。
「絶対離れるな」
クラネスを胸に抱きながら、迫る攻撃を素早く半身になって躱すと、ユアンは一人を膝頭で蹴り上げる。そのまま上体をひねると、もう一人のこめかみに肘を入れた。流れるような動作で二人を地に崩し、ユアンは今度はクラネスの手首を取った。
「サラが……!」
走るユアンに引っ張られながら、クラネスは涙目になる。ルイスはまだ周囲の男たちを振りきれていない。
「わかってる」
ユアンは左手でクラネスの手首を取ったまま、右の拳でルイスを襲う男を殴り飛ばした。
「追え、早く!」
ユアンが叫び、ルイスはもう一人の男を体当たりで倒してから、駆けだした。
ユアンは次々と男たちを倒していった。クラネスはユアンに、再びその胸に抱き寄せられていた。クラネスを庇いながら、しかも丸腰で、ユアンはそれでも一人一人男たちを昏倒させていく。
「もういい、行くぞ!」
恐怖に震えるクラネスの耳に、そんな声が聞こえた。怖くて堪らず、いつからか思わず固く閉じていた目を、クラネスは恐る恐る開く。
ユアンが倒した男たちは、忌々しげに舌打ちをしながら立ちあがり、その場から逃げていく。
クラネスは身を寄せるユアンの肩が、激しく上下に動いているのを知る。心配になって身を放すと、ユアンの肩や上腕から、鮮血が流れているのに気がついた。
「ユアン!」
クラネスは悲鳴を上げたが、ユアンはそれには答えず、再びクラネスの手首を掴んで走りだす。走りだすその背中にも、大きな太刀傷を見つけ、クラネスはどうしようもない思いに涙をにじませた。
二人は木立の中を進み、そして発見した。
その場で力なく膝をついたルイス。傍らに、サラの姿はなかった。




