真実は夢の中
ゆらゆら波の音が心地よく、羊水に包まれているようで温かい。
ずっと目を閉じていたかった。落ち着く。
「起きて下さい」
嫌だ。まだ寝ていたい。
「まあ、そう言わず、起きてお話しましょうよ。パンダくん」
俺は渋々目を開けた。
白い。
どこまでも白い空間の中で、俺は浅い水の中で倒れていた。
「何この不思議空間!?」
俺は飛び起きた。盛大に水が跳ねる。
白い空には太陽もなく、水平線ははるか遠い。
水の底に砂利などはなく、上と同じく白い床のようだった。かといって室内ではない。
ひどく現実感の乏しい世界だ。
「ここは、夢の中ですよ」
聞き覚えのない優しい声だった。
そうか、夢の中か。それなら納得。
俺が本格的に混乱する前に教えてくれるなんて親切な夢だ。
「初めまして。パンダくん」
目の前にふわりと人間が現れた。驚きで俺は声も出せない。
彼は、柔和な表情で俺を見下ろしていた。
「よ、よろり先生……?」
彼はまごうことなきよろりその人だったが、はっきり言って変だ。
まず目の前のよろりは白い服を着ていた。
いつも腹黒さを強調するような黒を身にまとっているのに、今は清廉潔白を体現するようなシミ一つない白。
背景と合わさってやけに輪郭がぼやけている。しかもトレードマークの黒ぶち眼鏡もしていない。
違和感がぬぐえず、俺は目の前の人物が誰なのか特定しかねていた。というか、これが夢なのならよろりが白い服を着ていてもどうでもいいのだが、どうしてこんな夢を見るのか自分で自分に激しく問い質したかった。
「僕は、夜井誠一。君のいうよろりは僕の体を借りているだけで、全くの別人格なのです」
夜井誠一。それはよろりの本名だ。
「よく、分かんないんですけど……?」
彼はふっと弱々しく微笑む。普段のよろりならば絶対にしない表情だった。
「無理もないですね。ああ、言うのを忘れていました。ここは夢の中だけど、君の脳みそが創り出しているものではありません。僕とよろりの意識の中です。今はよろりが表に出ているので、僕しかいませんが」
ホワッツ。ますます意味が分からない。
「うまく説明できなくてごめんなさい。つまり、ここは普通の空間ではありませんが、単なる夢や幻というわけでもないんです。現実の出来事だと思って下さい。ひょんなことから、君は僕の意識の中に入ってしまったみたいなんです。詳しいことは僕にもよく分かりませんが、これはものすごく珍しいことです。本来ならよろりの催眠で君は普通に眠るはずだったのに、反対に僕の意識に介入してきたのですから。君はもしかしたら普通の人間ではないのかもしれませんね」
「はぁ……?」
「だって、君、悪魔の力に逆らったんですから」
今は鏡がないので分からないが、おそらく俺の目は針の穴ほどの点になっていただろう。
「悪魔?」
それは黒い角と鞭のような尻尾を生やし、三つ又の槍を手にしてにやにや笑いながら人間の魂を弄んで殺すとか殺さないとかいう、あの悪魔?
歯医者のパンフレットでよく見かけるミュータンス菌みたいな?
「ああ、よくご存じですね。彼の真の姿はまさしくそんな感じです」
「え、よろりが悪魔?」
夜井さんはこくりと頷いた。
確かによろりの数々の所業は悪魔めいている。服も黒いし、いつも俺たちを見下しているし、人間離れした非常識さだし、一人称我輩だし。
人間というより悪魔の方がよほどしっくりくる。
目からうろこが落ちたように俺は納得した。
しかし、現実問題ありえない。
「あんな堂々と教師をする悪魔がいてもいいのか……ていうか、悪魔は実在するのか?」
いや、待てよ。
今俺は物凄くおかしな空間におり、これが夢か現実かは目覚めれば分かる。夢なら悩む必要はないので、とりあえず現実の出来事だと仮定する。となると、こののっぴきならない事態を引き起こすには、人間ならざる者の存在が必要不可欠だ。
だって、普通に考えてありえないもの。
だとしたら、よろり悪魔説は信憑性が高い。俺の周りにいる人間っぽくないものの代表格がよろりだからである。それに俺が意識を失う時に相対していたのは間違いなくよろりなのだ。奴が一番あやしい。
結論。
全部夢か、全部現実か。そのどちらかだ。
「パンダくんは、頭の切り替えが早いですね」
「……さっきから思ってたんですけど、俺の思考を読んでます?」
「あ、ごめん。無意識のうちに読めちゃうんです。こればかりは僕にもどうしようもないですね」
申し訳なさそうに夜井さんは眉を下げた。
「別にいいんですけど、あの、いくつか質問させて下さい」
俺は恐る恐る切り出す。
全部現実だった場合、俺は非常に厄介な事態に巻き込まれていることになる。
「いいですよ。僕に分かることなら答えます」
「ありがとうございます。えっと、俺はここから出られますよね?」
これは重要な問題だ。
出られなければ話にならない。というかこんな場所に閉じ込められたら絶望的だ。
「大丈夫です。体が目覚めれば、この夢からも出られますよ」
ひと先ず俺は胸を撫で下ろす。そして気を取り直して次の質問。
「夜井さんは人間ですか?」
「うん。人間人間」
人の気も知らないでどこかのほほんとした様子で、夜井さんは答える。
「じゃあ、何でよろりに体を貸してるんですか?」
その質問に夜井さんは財布を失くした並みの落胆を見せた。
聞いてはいけないことだっただろうか。もしかしたら彼もよろりから被害に遭っている可哀想な仲間かもしれない。
「それはね……僕が弱かったからです」
彼の呟く声は小さかった。こんな空間でもなければ聞き取れないほどに。
「僕は、いわゆるエリート教師一族の生まれでした。祖父は一代で学校建てちゃうくらいの人で、父も母もそれなりに優秀で出世街道爆走中です。僕も将来を期待されて死に物狂いで勉強していい大学に入学して、教員免許を取りました。だけど僕、本当は教師になんかなりたくなくて、教育実習でも向いてないなって思っちゃって、どんどん教壇に立つのが嫌になったんです」
ありがちな話だな、と俺は開き直って心の中で呟いた。
夜井さんは力なく笑う。
「しばらくは日海学園とは別の公立高校で嫌々教鞭を振るっていました。辞めたい辞めたい、学校なんて燃えちゃえばいいのにと思いながら。そしてある日の晩、よろりが夢の中現れて僕に言いました。『私は夢を司る悪魔である。そんなにイヤなら我輩と代われ。面白い人生にしてやろうではないか』と」
いかにもよろりが言いそうなことだ。
「僕は二つ返事で了承しました。まあ、ただの夢だと思ってましたしね。しかしその日から僕の体はよろりのものになり、僕はこの意識の海の住人になりました。もう、一年くらいになるのかなあ」
懐かしそうに、彼は目を細めた。
間違いない。彼は被害者だ。
俺は異国で同郷の人間に出会ったような喜びに胸を打たれ、真剣に夜井さんに向き合った。
「つまり夜井さんは、よろりに身体を乗っ取られちゃってるんですね? どうにもならないんですか? あいつを退治する方法とか封印する方法とか知ってます? 俺でよければ協力しますよ」
俺の言葉に、夜井さんはきょとんとした。
そして大爆笑。
今度は俺がきょとんとしてしまう。
「あははっ! 何を言ってるんですか、パンダくん。僕は後悔なんて全くしてませんよ。今とても幸せなんです」
「は?」
「よろりの振る舞いは、ある意味僕の憧れです。無鉄砲な行動、理不尽な物言い、破天荒な発想とそれを実行しちゃう強引さ……。見ていて痛快ですね。今まで生きてきてこれほど楽しいことはないです」
うっとりと夜井さんは両手で頬を覆う。
なんていう身勝手な人だ。自分さえよければいいのか。
俺は呆れ、そして怒った。
「目を覚まして下さい! よろりのせいで俺たちがどれだけ迷惑を被っているか知ってるんでしょう? 一緒になって面白がらないで、何とかしましょうよ!」
「嫌でーす」
ふざけた態度に思わず頬が引きつる。
この人さえよろりに協力しなければ、俺たちはアニマルクラスに所属することはなかった。普通に日海学園に落ちて、第二志望の高校で今頃素敵な高校ライフを送れていたかもしれない。
殺気すら抱いてしまいそうな自分が怖い。俺はぐぐぐっと拳を強く握りしめた。
「ま、まあまあ、怒らないで下さいよ。僕は今のこの状態に幸せを感じていますが、不満もあります。ほとんど誰とも話せなくて実は少し寂しいんです。今日みたいにパンダくんと話せるととても楽しい。会いに来てくれるのは、よろりと彼女くらいですから」
夜井さんは目を伏せ、自嘲気味に笑う。
「彼女?」
俺の問いに、夜井さんは肩をすくめる。
「よろりの主人です。それが誰かは目覚めれば分かるでしょう」
そろそろ時間ですね、と夜井さんは名残惜しそうに手を振った。
「もしも機会があったら、また会いに来て下さい。いろいろお話しましょう」
二度とごめんだという気持ちと、しょうがないなという気持ちが相俟って、少し複雑な気分になる。もはや何も言うべきことはない。
それを正確の読みとったらしい夜井さんは苦笑し、今までで最もはっきりとした口調で言った。
「君の目覚めた先に、幸せがあることを祈っています」
その言葉とともに俺の体は浮上し、意識が真っ白に染まった。