事件は森の中
おかしい。
三上先生が出動してからもう一時間は経っているが、貧血で倒れたという生徒はもとより日海学園の関係者が一人も戻らない。
「ど、どうしたんだろうねー?」
「分からない」
俺と小熊さんは顔を見合わせては、同じような言葉を交換していた。
そろそろハイキングを終えてゴールした生徒が現れてもいい時間だ。どうして誰もやってこない?
いつの間にか周囲には陰鬱な空気が漂っていた。風が木の枝をさわさわと揺らし、俺と小熊さんの恐怖心を煽る。
俺は忠弥やクラスの男子に電話してみた。小熊さんもそれに倣う。
「変だな。誰も出ない……」
「うー、こっちも同じ」
留守番電話に切り替わるだけで、誰も応答してくれない。圏外ではないのに。
絶対に何か起こっている。俺は確信した。
「ちょっと様子を見てくるよ。小熊さんはここにいて」
「え、わたしも行くー」
「でも一人はここにいないと……」
「嫌だよ。だってパンダくんまで帰ってこなかったら、わたし、どうしたらいいか分からなくなるもん。一緒にいて」
う。そんな風に服の袖を掴まれたら断れない。
俺は小熊さんとともに『憩いの丘』を目指すことにした。
案内看板と遠足のしおりを頼りに、俺たちは森の奥へ続く階段を上った。不気味なほどに静かで、生きとし生けるものの気配がない。
しばらく階段を上ると、一本の道とぶつかった。小熊さんによるとここはハイキングコースの中腹に当たる道で、憩いの丘はここから五分ほど歩いた先にあるらしい。
「誰か倒れてる!」
俺は道端に寝転がる男子生徒を見つけて駆け寄った。
日海学園の一年生で間違いなさそうだ。揺さぶっても返事がないものの、呼吸は穏やかで外傷もない。
「ね、寝てる……?」
健やかな寝息を立てて、幸せな夢を見ているらしい。その生徒の顔はだらしなく緩んでいた。
どうしてこんな道の真ん中で眠っているのだろう。響子ちゃんならありうるが、普通はありえない。何が起こったらこんなことになるのだ。
「ふわわぁ、パンダくん……」
振り返ると、小熊さんが俺の腕の中に倒れてきた。
「えー!?」
反射的に受け止めたが、勢いあまり二人ともその場で尻もちをついてしまった。
「お眠なのー……むにゃ……」
「へ?」
小熊さんは俺の腕の中で目を閉じていた。やべー寝顔も超かわいい、なんて言っている場合じゃない。
鳥肌ものの光景だったが、俺はすぐに我に帰った。
「小熊さん、どうしたの? しっかりして!」
何度呼びかけても返事がない。返ってくるのは寝息だけ。
ど、どうしよう。
変なガスが充満してるんじゃないか、という考えが頭によぎる。だとしたら早く警察と救急車を呼ばなくては。
俺が携帯電話を取り出したとき、背後に何者かの気配を感じた。
「パンダに熊ちゃんか」
聞き覚えのある声に、悪寒が走る。俺が小熊さんを抱えたまま首だけで振り返ると、黒い服を身にまとったあいつが、にやりと笑って俺の顔に手をかざした。
「うっ!」
瞼が急に重くなり、強烈な目眩。視界が滲む。
なんだ、これ。催眠術? めちゃくちゃ眠い。
「寝てろ。いい夢が見られるぞ」
「……い、嫌だ!」
俺は口の中を噛んだ。
ここで眠ったら何をされるか分かったものではない。
俺だけならともかく、小熊さんに危害を加えられたら最悪だ。断固死守だ。俺は負けない!
「むう、パンダの分際で抵抗するとは生意気な! これでどうだ!」
更なる眠気が俺を襲う。
唇に血がにじむほど力を入れたとき、閉じかけた視界がチカッと煌めいた。その瞬間、ふわりと体が軽くなる。重力が突然消えたらこんな感じだと思う。
「わっ!」
心地よい浮遊感は一瞬で、そこからはバス酔い以上の胸糞悪さが俺の胃を鷲づかみにした。苦しい。息ができない。
我慢できたのはそこまでだ。もういかん。
俺は無念さと小熊さんを胸に抱いたまま目を閉じる。
あっという間に意識が真黒に染まった。