弁当はgood
森林公園に到着。
冴えわたる青に、筆で書いたように滑らかな雲の跡。日差しは強いが、風が心地よく服を煽り、とても過ごしやすい一日となっていた。
「いい天気だなあ」
視界を横切った影は鳩かな。平和の象徴。確かに俺は今、平和を慈しんでいる。
バスから降りてすぐ、けろりと体調は回復した。
芝生の上に敷いたシートに寝転び、心穏やかに森林公園の緑で目を癒す。
遠くから若人たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
落ち着くなぁ。このままでは十歳は老けこむなぁ。
「あなたも災難ねぇ」
俺を覗き込んだのは、養護教諭の三上先生だ。妙齢の美人に差し出されたお茶を恭しく受け取り、俺は恐縮して礼を言った。
「ありがとうございます」
「いいのよ。テント張るのを手伝ってくれて助かったから」
冷たいウーロン茶がまた荒んだ心を癒してくれる。
「ちょっとバス酔いしたくらいで置いていかれるあなたが、もう不憫でしょうがないわ」
「過ぎたことです。できるなら忘れさせて下さい」
「そうね。ごめんなさい」
「こうしてるのも悪くないですから」
俺と三上先生は中央広場の片隅に屋根だけのテントと救急箱とともに鎮座していた。ここは簡易保健室というわけだ。
三上先生はあくびをかみ殺して、再び女性雑誌に視線を落とした。
何もすることがない俺はウーロン茶を飲み干して、再び寝転がる。
俺はよろりにバス酔いを理由に保健室行きを言い渡された。忠弥や小熊さんは負けじと反対してくれたのだが、屁理屈でよろりに勝てるはずもなく、結局一人でみんなの帰りを待つことになった。
小熊さんが気に病むといけないので、体調不良は本当だからと俺は笑って見送った。そのあとテントを組み立てるふりをして涙を流したのは三上先生も知らないだろう。
ツイてないな。結構楽しみにしていたのに。
だけど反抗した罪を見逃されなかった忠弥が、よろりに首根っこを押さえられてハイキングコースに入っていくのを見て、自分だけが辛い思いをしているのではないと無理やり納得させた。忠弥の無事を心より願う。
一方響子ちゃんはというと駐車場のバスの中で寝ている。一応起こそうとしたのだが、どれだけ揺すっても「スヤァ」という返事しかなかった。本当に何しに来たの?
そう言えば、と俺は頬を掻く。
猫田さんは珍しくよろりをなだめてくれなかった。
普段の彼女なら「先生?」の一言と、絶対零度の眼差しだけで行き過ぎたよろりの悪戯を阻止してくれるのに、今回に限ってはだんまりを決め込んでいた。
もしかして、俺は猫田さんに嫌われているのかな。
それは落ち込む。ハイキングに置いていかれたこと以上に悲しい。
いや、しかし彼女、顔色が悪かったような気がする。もしかして体調が悪いんじゃなかろうか。こんな陽気な日なのに、白い肌は若干青ざめていたようだし、暗い表情をしていた。だからよろりに注意する元気がなかったのかもしれない。
都合よすぎる考えだと俺は小さく笑った。
「何で笑ってるのー?」
ひょこ、と目の前に小熊さんの顔が現れる。
「うわあっ!」
俺は跳ね上がる心臓とともに、体を起こした。俺のリアクションがウケたらしく、小熊さんは手を叩いて笑う。
「び、びっくりした。小熊さん、どうしたの? ハイキングは?」
「わたしはもう終わったよ。見て、一番だったのー」
そう言って彼女はリュックサックの中から、お菓子の詰め合わせと食堂のタダ券を取り出した。それが一位の賞品らしい。
「え、もう? だってまだ一時間くらいしか経ってないよ」
「うん。滅茶苦茶ダッシュでゴールしてきたの。クイズとかゲームは猫ちゃんに答えと裏技を教えてもらったんだ。ほら、猫ちゃん実行委員だから」
見れば小熊さんの額には汗の玉が浮かび、頬は赤かった。本当に全力で走った証だ。それにしても約十五キロあるコースをたった一時間で帰ってくるなんて、この小さな体のどこにそんなスタミナがあるのだろう。素直に尊敬してしまう。
小熊さんは両手を絡めて、申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんね、パンダくん。わたしが余計なこと言ったから、お留守番になっちゃったのかなと思って……寂しくなかった?」
「え」
もしかして小熊さん、俺のために早く戻ってきてくれたのか?
自意識過剰だとしたらこれほど恥ずかしいことはないけれど、小熊さんは優しいから俺が一人残ることになって罪悪感を抱いたらしい。全ての悪はよろりだというのに。
俺の動揺を知ってか知らずか、彼女ははにかむ。
「わたしお腹すいちゃった。お昼一緒に食べようよ。……ね?」
惚れたね。
これで首を縦に振らない男は男ではない。だけど俺は頷きつつも、どうしたらいいのか分からずに慌ててしまった。
女の子にはあんまり免疫がないのだ。響子ちゃんは、女の子というより響子ちゃんというジャンルを確立しているし。
今日の小熊さんは私服だ。まあ遠足だから当たり前といえば当たり前だが、いつも制服姿しか見ていないので、パーカーに短パンにスニーカーという格好が新鮮で好ましい。とくに細くてきれいな足を何の惜しげもなく晒しているところとか、もうどこを見ていいのか視線が泳ぎっぱなしだ。目の保養を通り越して毒だった。
やばい。顔の熱が引かない。
「あらあら、良かったわね。伴田くん」
三上先生にも微笑ましげな視線を背中に浴びながら、俺と小熊さんは弁当を広げた。
「え、パンダくん。それだけで足りるの?」
結果を言ってしまうと、俺の弁当箱より彼女のランチボックスの方が大きかった。ちなみに俺の弁当箱は男子高校生の標準サイズなので一般のよりは大きい。
なるほど、それだけ食べれば元気いっぱいに一日過ごせるだろうね。逆にいえばこれだけ食べても太らないのはエネルギーを常に大量消費しているからだと思われる。
「あ、きょ、今日だけなんだよ、こんなにたくさんおかずが入ってるのは。お姉ちゃんが、遠足だから豪華にしてくれただけで。みんなで食べれるように」
さすがに恥ずかしかったのか、小熊さんは一生懸命説明する。しかし普段から彼女がそれ位の量を食べているのは周知の事実だ。隠すことないのに。
それにしてもお姉さんがお弁当を作っているのか。「お母さんは?」などと野暮なことは聞かない。
「パンダくんも食べて食べて」
お言葉に甘えて、俺は卵巻きをいただいた。
「ん、ダシがよく利いていておいしい」
小熊さんの大切な昼食に手を出してしまったからには、こちらもお返しをしなくては。俺が弁当箱を差し出すと彼女は恐る恐るハンバーグをつまみ上げて口に入れた。
「お、美味しいー!」
彼女のあまりの驚きぶりに、俺は少し得意げになった。ありがとう、マイファザーアンドマザー。
「うちは洋食屋なんだ。店の余りがこうして次の日の弁当に入るわけで」
「そうなの? すっごく美味しいよ。お金とれるくらい」
だから普段はお金取ってるんだよ、という突っ込みはよそう。やっぱり小熊さんは天然が入っている。
「良かったらいろいろ食べて。俺は運動してないから、あんまりお腹減ってない」
というか、小熊さんの笑顔を見ているだけで胸がいっぱいだった。
「い、いいの? こんなに美味しいものを」
「俺はいつも食べてるから」
「ありがとう。パンダくんって良い人だね」
というわけで俺は小熊さんが美味しそうにお弁当を食べている様子を堪能しながら、今この幸せを噛みしめた。
何だかデートしている気分だ。
変な妄想していることを悟られないよう、俺は気を引き締める。
「パンダくんって、部活入ってないのー?」
「うん。店の手伝いもあるし、部活やりながら勉強付いていく自信もなかったからね。小熊さんは?」
「わたしも帰宅部だよ。本当は中学校からやってるソフトボール部に入りたかったんだけど……」
小熊さんは一瞬顔を曇らせたが、
「でもいいの。夏休みたくさん遊べるし、バイトもできるもんねー」
と無理に笑顔を作った。
何か事情があるようだ。
ソフトボールへの未練だろうか。俺も中学時代は野球部だったと喋るのは自粛した。共通点が見つかるのは嬉しいが、小熊さんの沈んだ顔を見るのは悲しい。
その後、他愛もない会話で場をつなげていたところ、後ろから着信音が聞こえてきた。三上先生が携帯電話を片手に立ちあがる。
「はい。え? 分かりました。すぐに行きますので」
どうやら向こうでけが人か病人が出たらしい。声に緊迫感がある。
「伴田くん。ちょっと頼んでいいかしら。誰かが来たら私は『憩いの丘』にいるって伝えて。生徒が貧血で倒れたみたいなの」
「分かりました」
三上先生は救急箱を持って颯爽と走っていった。
ハイキングコースはこの中央広場をぐるりと何周も囲むようにできているので、いくらでも近道ができるし、ハイキングの途中でリタイアすることも容易である。だから中央広場に保健室を設けて三上先生がスタンバイしていたのだ。
気がつくと、あんなに晴れやかだった空に曇天が覆ってきた。雲行きが怪しくなるとはこのことか。
ちくり、と目の奥が痛み、背筋に悪寒が走る。
「嫌な予感がする」
俺の第六感がまたもや騒ぎ出した。
しかし今回のそれは尋常ではない。よろりとの出会い以上に悪いことが起こるような気がして、俺は体の芯から震え上がる。
何か邪悪な気配が森林公園に満ち始めている。
いや、気のせい、気のせい。
ちょっと悪い知らせがあっただけ不吉な予感を覚えるなんて、俺はどれだけネガティブなんだ。小熊さんがいる手前、もう少し男らしく構えていなくては。
しかし、結果的にそれは気のせいなどではなかった。