四月は怒涛
忠弥は呆れ顔で言う。
「相変わらずお人好しだよな、お前」
「そう?」
俺は隣のおばあさん家のゴミ袋を収集所に置く。
腰を曲げたおばあさんが辛そうに運んでいたら、誰だって代わりを引き受けるだろう。登校するついでなので大した手間でもない。
ついでにカラス避けネットからはみ出した袋を手早く積み上げ直す。会心の出来に俺は満足して頷く。
「あらぁ、二人ともおはよう。早いのねぇ」
「おはようございます」
「……っす」
近所の山田のおばちゃんがやってきた。
俺と忠弥の制服をまじまじと見てしみじみと呟く。
「いいわねぇ、日海学園の制服。おばちゃん知らなかった。あんたたちがそんなに優秀なんて。ご両親も鼻が高いでしょうね」
俺たちは揃って言葉を濁した。おばちゃんはそれに気づかず「昔はあんなにやんちゃだったのに」とか、「うちの子は今○年生でねー」とか、比較的どうでもよい情報を喋り出す。
「あ、すみません。俺日直だからそろそろ行かなきゃ」
「オレも朝練……」
おばちゃんは気分を害した様子もなく、「大変だろうけど頑張んなさいね、高校生!」と、にこやかに去って行った。
俺と忠弥は顔を見合わせる。
「頑張れってよ」
「頑張ってるつもりだよね」
「ああ、すげー大変だからな」
「うん。どうしてこんな目に遭ってるんだろうね」
入学早々アニマルクラスの面々に降りかかった災難は、一か月たった今なお継続中である。
周りは敵だらけ。心休まる時などない。
同情的な視線を向けてくる生徒や教師はまだマシで、あからさまに顔をしかめて疎ましがる奴は想像以上に多く、俺たちは肩身の狭い思いをしていた。
どうやら日海学園創立以来の汚点として認識されているらしい。
授業が始まり、教師は俺たちの学力の低さにげんなりしていたし、実力テストの結果を見て遠回さずに苦言を呈した。それでも日海学園の生徒か、と何度ため息を吐かれたことか。
同じ学年の生徒はもとより先輩方にも、「恥ずかしいから裏門から入ってこい」だとか、「お前たちのおかげで学園の品位が下がる」だとか、「ずるいよな。馬鹿でも入学できるなんてさ」だとか散々後ろ指さされた。すみません。
何よりも厄介なのは、言うまでもなくよろりである。
「フハハハ! 不正解だ! では聞かせてもらおうか、とっておきのすべらない話を!」
よろりは数学教師なのだが、授業中当てられて間違えた生徒には罰ゲームを課した。無茶ぶりの一発ギャグやモノマネをさせた上、泣きっ面に蜂とばかりに酷評してくる。
彼の悪行はそれだけに留まらない。
勝手に生徒の弁当を盗み食いしたり、可愛い女子にひいきしたり、小テストの答案に稚拙な落書きをして返却したりと、とにかく子どもじみた行為が大好きらしい。
ある日、とうとう耐えかねた俺たちはクラス全員で校長室に押し掛けた。
あの悪魔教師を何とかしてくれ、後生ですから、と。
「すまない。大人の事情というものがあってだね……」
俺たちは無垢な瞳で食い下がった。
校長先生、思い出して!
新任教師だった頃、生徒のためにこの身を捧げようと決意した、赤く青い情熱を!
校長先生はトナカイとはぐれたサンタみたいな顔で首を横に振った。
何もできない、頼むから問題を起こさないで下さい、今年で定年退職なんです云々。
なんてことだ。この学園は腐敗している!
権力の後ろ盾とは恐ろしいもので、理事長の愛孫よろりに楯つく大人は皆無だった。
俺たちとしても、親の助力を借りるのは最終手段にしたい。
というか、恥ずかしくて親に打ち明けられない。
本当は不合格だったのに、動物の名前が入っていたから合格できたんです、なんて。
俺たちは涙が溢れないように天を見上げて祈るしかない。
ああ、神よ。哀れな子羊に救いの手を。
というわけで、アニマルクラスの面々はサバンナでライオンやハイエナに囲まれた小鹿のような立場に立たされているのである。孤立無援だ。
不幸中の幸いと言えば、俺たちは自らの境遇を嘆きあい、クラスメイト同士とても親睦を深めていることであろう。自然と内の団結が確固たるものになった。
同じ檻の中に閉じ込められた者同士、ともに頑張ろう。励まし合っていかなければとてもじゃないが、毎日登校する気は起きない。
かく言う俺もその一人。
素直に日海学園入学を喜んでくれた両親にも弟妹にも真実を打ち明けられず、毎朝暗澹たる面持ちで家を出ているのだ。
それでも登校するのは励まし合う仲間がいるから。
バスケ部の朝練に向かった忠弥と別れ、俺は教室に足を踏み入れる。
今日も一日頑張れ、俺たち。
「あ、パンダくんだ。おはよー」
「お、おはよう」
半ばやけくそ気味にクラス面々は、愛称として動物の名前を用いるようになっていた。特にパンダは呼びやすいらしく、もはや「伴田」と呼ばれることは皆無である。
俺に声をかけてくれたのは、小熊さんだった。机に古典のプリントを広げて格闘中のようだ。
可憐な美少女と二人きりというナイスシチュエーションに、俺は朝から天にも昇る心地になる。
小熊さんは男女問わず人気である。
華奢に見えて意外と快活で豪快。面白いことがあるとけらけら笑うし、面白いことがなくとも大抵笑っている。かわいいのを鼻にかけないし、誰にでも分け隔てなく接してくれるところもポイントが高い。
「小熊さん、早いね。俺は日直だからだけど。勉強?」
「ううん。勉強はついでなのー」
小熊さんはふふん、とトートバッグからあるものを取り出した。
「見て見てー。超特大メロンパン。この限定商品を買いたくてね、頑張って早起きしたんだー」
「……すごいね」
小熊さんは自分の顔より大きなメロンパンを愛しそうに抱きしめる。クッションのようだ。
ああ、食欲旺盛なところもなんかいいなぁ。
「そうだ、よろり先生に見つからないようにロッカーに隠さなきゃ」
いや、小熊さんのパンによろりは手を出さないだろう。とびきりかわいい彼女のことをよろりはクラスで二番目にかわいがっていた。彼女の怒りを買うようなことをするとは思えない。
メロンパンをしまうと、小熊さんは俺に両手を合わせた。
「お願い、パンダくん。古典のプリント貸してくれないかな? 自信ないところがありまして候……」
「ああ、いいよ。はい」
活用形覚えるの大変だよね、と俺はプリントを差し出す。
「ありがとう。わぁ、解答欄全部埋まってるー。パンダくん、もしかして賢い人?」
「いや、全然。勉強についていけなくて毎日必死だよ。古典はわりと得意だけど、理数系は悲惨……何でこんなこと勉強しなきゃいけないんだろうね」
ありふれた現実逃避を口にすると、小熊さんは深く頷いた。
「難しいよねー。高等数学や化学式のおかげで便利な暮らしができてるんだから、人類の末裔としては頑張らなきゃって思うんだけど、ここまで科学技術が発達しちゃうと大変」
「う、うん、そうだね。もはや魔法の域だよね」
意外と言ったら失礼だが、しっかりしていらっしゃる。俺は何だか自分の勉学への取り組みの甘さが恥ずかしくなってきた。
小熊さんはハッと口を押える。
「じゃあ、も、もしかしてわたしたちって今、初級魔法を学んでる?」
「へ?」
「それは、燃える」
やる気スイッチが入ったのか、小熊さんは凛々しい顔つきで猛然とペンを動かし始めた。
あっという間に古典のプリントを終わらせ、数学の予習まで始める。
……面白い子だなぁ。
この天然不思議系、少し間違えればイラっとしてしまいそうだが、小熊さんはなんか許せる。むしろ癒される。
俺は微笑ましい気分になって、黒板の掃除を始めた。
始業時間が近づき、教室に活気が出てきた。
日直の朝の仕事を終えた俺は席に戻る。
「席替えは面倒なので二か月に一回だ」とよろりが宣言したので、俺はまだ猫田さんの隣に着席することを許されていた。
大変な名誉に目眩を覚える。
猫田さんは読んでいた文庫本を閉じて、俺に意味ありげな視線をよこす。
「何かいいことあった? 嬉しそうね」
おそらく小熊さん効果が顔に出ていたのだろう。
「思わぬ幸運に巡り合ったんだよ。朝からツイてた」
「良かったわね。きっと日頃の行いがいいのよ」
猫田さんは魅力的な唇を笑みの形に歪めた。色っぽい。
何を隠そう、よろりに一番かわいがられているのは間違いなく猫田さんだ。
彼女をクラス委員長に任命したことからもそれは分かるし、彼女に対するさりげない言動は俺たちに対するときとは比べ物にならないほど丁寧だった。しかし、だからと言ってこのクラスの誰も彼女のことを妬んだりはしていない。
猫田さんの高貴なオーラが、自然と下々の者に彼女を敬わせる。
彼女はアニマルクラスの中でも別格だった。
猫田さんも自分の立場を認識しているのか、進んで矢面に立つ。アニマルクラスをいじめる教師や生徒たちに彼女だけが堂々と反論できるのだ。
先日も英語の授業で和訳を当てられて答えられなかったクラスメイトを罵る教師に対し、彼女はすっと立ち上がって言い放った。
「先生。差し出がましいようですが、黒板の英文にスペルミスが二つもあります。まずご自分の勉強を見直したほうがよろしいのではありませんか?」
二の句を継げなかった教師は、顔を真っ赤にしてチャイムと同時に教室から出ていった。あのときほど清々しかったことはない。
またクラスや学年の垣根を超えて、猫田さんに愛の告白をする者は絶えない。しかし彼女はなみいる秀才の男どもの告白を片っ端から一刀両断に切り捨て、「万が一にでも私と付き合えると思ったのでしたら、御冗談でも笑えませんわ」とにっこりと微笑んだらしい。
恐るべし、猫田ノエル。
小熊さんと猫田さん。
この二大美少女がいることで、アニマルクラスの面々(特に男子)は何とか逆境に耐えることができていた。ちなみにみんな恋愛面は草食だから平和です。
そんな感じで怒涛の勢いで4月は過ぎ、ゴールデンウィークを終えてすぐ一学期最初のイベントが到来した。
楽しく嬉しい春の遠足。
それはさらなる波乱の始まりだった。