夏休みは極楽
七月中旬。うだるような暑さが教室を侵食し始めた頃。
「つまらんな、夏休み。仕方ない。サファリパーク、いっそアフリカかアマゾンにでも行くか……」
そんなよろりのどうでもいい呟きで、夏休みは始まった。
期末テストは何とか赤点を回避し、俺を含め一緒に勉強したみんなも補習を受けずに済んだ。奇跡である。
そしてもう一つ奇跡が起こった。
「あ、あのね、パンダくん。その……連絡先交換しない?」
終業式の日の帰り際、小熊さんが俺に声をかけてくれた。
今日から何週間も彼女に会えないのは寂しい、と思っていた俺は驚喜した。もちろんすぐにスマホを取り出し、念願の小熊さんの名前を登録する。
「でも、どうして?」
俺は舞い上がりすぎてついそんな疑問を口にしてしまった。小熊さんはかぁっと頬を赤くする。
「えっと、夏休みも、一緒にお勉強できたらいいなって思って」
ああ、なるほど。
進学校だからなのか、高校だからなのか、中学の頃とは比べものにならないほどたくさんの宿題が出ていた。
俺も小熊さんも部活はしていないものの、アルバイトが忙しい。一人でこなすのは大変だろう。協力して消化したいというのも頷ける。
でも、ちょっと残念だな。遊びのお誘いだったらもっと嬉しかった。
いや違う。何を言ってるんだ。
小熊さんには好きな人がいる。片想いなのかもしれないし、すでに失恋しているのかもしれない。しかし未だに夢で恋煩うほどの想いなのだ。
下手な期待はしてはいけない。
というか、本当に小熊さんのことが好きなら、俺の方から声をかけて頑張るべきだ。
小熊さんがまだ想い人と付き合っていないのなら、俺にもチャンスはある。
そう思いつつも、いざ小熊さんを目の前にすると、尻込みしてしまう。
だって、かわいいから。
こんなかわいい子と付き合えるかも、なんて夢を見るのもおこがましい。
「パンダくん?」
「あ、うん。勉強、いいね。一人だとさぼっちゃうし、二人なら心強いよ。よろしく」
「良かった。じゃあまた連絡するねー」
小熊さんは笑顔で手を振って、教室の入り口で待っていた友達に駆け寄っていった。
俺は長いため息を吐いた。
無意識に「二人」と言ってしまったが、小熊さんは否定も訂正もしなかった。
学校外で二人きりで会えるのだ。顔がにやけない方がおかしい。
そうして一学期最後の日は終了した。
次の日、さっそく小熊さんからメッセージが届いた。
図書館でお勉強しましょう、という爽やかな内容だ。
日取りはすぐに決まり、お勉強会が行われることになった。
当日の昼過ぎ。
日海学園最寄りの市立図書館で俺たちは待ち合わせた。
小熊さんはカジュアルなパーカーのワンピースを着て現れた。小柄で可憐な顔立ちとスポーティーな格好のギャップは素晴らしい。
見惚れる俺に小熊さんは恥ずかしそうに俯いた。
「変かな?」
「全然変じゃないよ! すごく……か、かわいいと思う」
お互いますます照れてしまい、その日は勉強に身が入らなかった。
ただ並んで座っているだけでも、心臓が落ち着かない。周りの人にはどう見えているのだろう、とか、小熊さんは今何を考えているのだろう、とか目の前の二次方程式よりも大切な問題を俺は考えてしまうのだった。
てか、これ、俺の人生初デートにカウントしていいかな。いいよね?
小熊さんにそのつもりがないのは分かっているけど。
「も、もうダメなの。頭ぐるぐるー」
先に音を上げたのは小熊さんだった。
「お、俺も」
もう限界だった。
クーラーの効いた快適な館内なのに、熱中症になりそうだ。
閉館時間にはまだ遠いが、俺たちは勉強を切り上げることにした。これ以上やってもペンは進まない。
迷いの迷った末、俺はなけなしの勇気を振り絞って声をかけた。
「もし、まだ時間大丈夫なら……お茶でもどうかな?」
もっと気軽にさりげなく言いたかった。まぁ、それができたら最初から苦労はしていないのだが。
小熊さんは目を見張り、そして、小さく頷いた。
俺たちは知り合いに見つからないよう、学校から離れたカフェに入った。
自分から誘ったくせに、喋るのはほとんど小熊さんに任せてしまった。もういっぱいいっぱいで、ブラックコーヒーなんて飲めなかったのに、砂糖を入れ忘れて飲んでいたくらいだ。
小熊さんはパフェをつつきながら幸せそうに話す。
「パンダくんは、夏休み何か特別な予定あるの?」
「んー、家族でおじいちゃん家行ったり、忠弥たちと近所の夏祭りに行くくらいかな? あと弟妹に付き合ってヒーローショーとか」
「そうなんだぁ。良いお兄ちゃんだねー」
「そ、そうかな? 小熊さんはどこか行くの?」
小熊さんは首を横に振る。
「家族では特に予定ないんだー。お母さんずっと病院だし」
軽々しく流せない発言に俺は恐る恐る尋ねた。
「お母さん、病気なの?」
「うん。病気だね、あれは。しかも絶対治らなさそー」
ううむ、と小熊さんは唸った。
それから言葉を失くす俺を見て、目に見えて慌て始めた。
「あ、違うの。今、すごく紛らわしい言い方しちゃった」
「ん? どういうこと」
小熊さんは珍しく苦笑いを浮かべた。
「ワーカホリックなの。わたしのお母さん、看護士さんでね、手術だ急患だーっていつも忙しいの」
「あ……そうなんだ」
勘違いで良かった。
てっきり不治の病で長期入院中かと思った。
「お姉ちゃんもわたしもほとんど放置されてるんだー。お父さんは海外にボランティアに行ったまま帰ってこないし」
「それは寂しいね」
「そうなの。しかもね、あれだけ放置しているくせに、『働かざる者食うべからず』ってお小遣いあんまりくれないんだよ」
「それでバイトしてるんだね」
俺は首を傾げる。
「ソフトボールをやめたのはどうして?」
「実は、中学の時にひじを痛めちゃって。たまに使う分にはいいんだけど、日常的にボール投げてると腕が上がらなくなるって言われちゃったのー」
しゅん、と小熊さんは肩を落としたが、三秒後には顔を上げる。
「でも、部活やってない分勉強頑張ったら、すごく楽しいよ。パンダくんと猫ちゃんのおかげだけど、期末もなかなか良かったし」
「猫田さんはともかく、俺はほとんど役に立ってない。テスト結果は、小熊さんの努力の結果だよ」
「ううん。パンダくんのおかげだよ。勉強にやる気になったのは」
えへへ、と笑って小熊さんはパフェを平らげた。
ああ、幸せだな。
高校一年の七月。
俺は至福の時を過ごしていた。




