入学式は桜色
夢のようだな、と俺は思った。
晴れ渡る青空の下、満開の桜並木を見上げる。
桜や春が人を狂わせるという話はよく聞くが、とても信じられない。鼻先をかすめていく春の匂いは俺を穏やかな気持ちにさせてくれる。校門をくぐっていく同輩たちも、めでたい今日という日を晴れ晴れとした表情で楽しんでいた。
本当に、夢なら覚めないでほしい。
「よ! 茶竹!」
「ぐふっ!」
目の覚めるような一撃を背中に食らった。力加減がなっていない。
「……痛いよ」
「あ? 悪ぃ悪ぃ」
彼は素直に謝った。しかし約束より十分も遅刻してきたことには一言も触れない。改めて咎めたりしないさ。もう慣れている。
彼、井上忠弥は俺の幼なじみの一人である。家が近所で学校でも頻繁に同じクラスになったのでずっと仲が良い。背の低さをからかわなければ、気の良い常識人である。
「ついに来たな、この日が!」
珍しく忠弥が少し浮かれている。地元の中学生憧れの高校に入学できるのだから、当然と言えば当然だ。俺だって未だに合格の喜びで踊りたくなる。
「ところで、あいつは?」
「まだだよ。連絡もない」
忠弥はあからさまに顔をしかめた。自分の遅刻は棚の上だ。
しかし気持ちは分かる。もう入学式まで時間がない。待ち合わせとして分かりやすく校門を設定したのがまずかった。これから昇降口にある掲示板でクラスを確認し、体育館に移動するとなるとぎりぎりの時間だろう。
「こんなことなら家に迎えに行けばよかったなぁ」
「もう後の祭りだ。先に行こうぜ」
「え、でも、置いてくなんて可哀想だ」
忠弥は首を横に振る。
「相変わらずお前は甘いぜ。その優しさはあいつのためにならねぇぞ」
「そ、そうかな」
「ああ、そうだ。時には社会の厳しさってやつを教えてやらねぇと、いつまでたってもあいつは――どわっ」
そのとき、背後から忍び寄る影が忠弥にもたれかかった。
「おはよ……」
青白い顔に儚い笑みを浮かべ、鶯原響子ちゃんが片手をあげた。
目の下には大きなクマがあるし、アッシュグリーンの長い髪は持ち前の天然ぶりをいかんなく発揮してうねっている。爆発事故現場から救出されたばかりです、と言われてもすんなりと信じられる有様だ。
「だ、大丈夫?」
「うん、ちょっと三日ばかり寝てないだけ……音楽の神が降臨しっぱなしでさ……ふふっ、ふふふふふ……!」
響子ちゃんは腹の底から高笑いした。小綺麗な格好をして真面目な表情で黙っていれば美人なのに、台無しである。
響子ちゃんも俺の幼なじみだ。
俺たちは三人とも幸か不幸か入学式に親が欠席のため、連れだって向かう約束をしていた。同じ町内に生まれてしまった以上、野放し、もとい、放っておくことはできない。
「遅っせーよ! それに怖ぇよ!」
忠弥はいつも通り響子ちゃんに食ってかかる。
「ごめんちゃい。今日が入学式だということに三十分前に気づいたもんで……」
「相変わらず時間にルーズだな」
「自分の時を生きているから……」
「かっこつけてんじゃねえ!」
この二人、相性はよろしくないが、息はぴったりである。俺を微笑ましい気分にさせるために密かに漫才の練習をしてくれているのではないかと思うくらいだ。
「もう時間がない、さっさとクラス見に行こうぜ」
響子ちゃんを相手にしても埒が明かないと思ったのか、忠弥は校門をくぐり、足早に掲示板に向かった。俺たちも続く。
夢にまで見た憧れの日海学園高校の門をくぐると、武者ぶるいなのか俺の体は痺れるように震えた。
日海学園は、この辺りで最も有名で人気の進学校である。
倍率は年々上がり、それゆえに入学するにはかなり高い偏差値を必要とする。俺の学力なんかじゃ足蹴にされるだろうと踏んでいたが、せっかく近所に住んでいるのだからと記念受験した。
何かの間違いで入学できたら儲けものだと冗談半分で試験を受け、「やっぱり無理だな」と諦めていたのだが、家に届いた封筒には合格通知が入っていた。
何かの間違いが起こってしまったらしい。
俺はちらりと忠弥と響子ちゃんを盗み見た。
二人の成績ははっきり言って俺よりも悪い。しかし二人とも凡人ならざる才能を有している。
忠弥は中学時代、バスケの県大会で最優秀選手に選ばれ、全国大会でも活躍した。バスケの強豪校から引く手あまたなのに、どうしても遠距離通学も寮暮らしもしたくないらしい。
響子ちゃんは子どものど自慢大会で優勝して以来、芸能プロダクションに準所属している歌手の卵だ。本人は作曲家になりたいらしいが、大抵の楽器は弾きこなせるというし、将来この町を代表する音楽家として名を馳せることは間違いない。
それに比べて俺は……。
大した特技を持たない、健康と幸運だけが取り柄の凡人だ。
どうして合格したのか。
本当にここにいてもいいのか。
不安ではないといったら嘘になる。だけど、入学手続きをしてしまったのだから、もう後戻りはできない。
ダメだ! 悲観的になるのはやめよう。
せっかく憧れの学園に足を踏み入れたのだから、楽しまなきゃ損というもの。
きっと素敵な高校ライフが待っている。
中学の時は少し失敗してしまったが、高校で同じ轍は踏まない。平和で円満に卒業してみせる。
大丈夫。俺は変わったのだから。
俺は自分を奮い立たせて、掲示板の前に立った。
「また三人とも同じクラスじゃねえだろうな」
「まさかー」
忠弥の言葉に俺は笑う。
中学校三年間、俺と忠弥と響子ちゃんは同じクラスだった。
一年生の時は偶然だろうが、二年と三年は職員室の方々の作為的なものを感じた。だが高校ではそうはいかない。確率的にはバラけるだろう。
一緒のクラスが嫌なわけではないが、せっかく高校デビューを目論んでいるのだから、少し距離を置いてもいいかなというのが本音である。
「私たちの名前、どこ……?」
「え!?」
掲示板には一から九までのクラスが張り出されていたが、そこに俺たちの名前はなかった。三回も見直したのだから間違いない。
俺と忠弥は青ざめ、響子ちゃんは口笛を吹いた。
そんな馬鹿な。
確かに合格通知は送られてきたし、先日の入学説明会でも問題はなかった。何故だ、何故名前がない。
挙動不審な俺達はさぞ怪しかっただろう。時折通りがかる教員や保護者らしき方々が訝しげな表情を作る。
「あの」
か細い少女の声。
振りむき、そして俺たちは息を呑んだ。
肩までのサラサラの茶髪を風から手で守り、華奢な少女が立っていた。
潤んだ瞳、傷一つない白い頬、桜色の唇。
絵にかいたような可憐な美少女だった。
そんな少女が桜吹雪の中に立っているものだから、俺達はすっかりと目と心を奪われていた。
日海学園の制服は灰色のブレザーに赤チェックのスカートでかわいいと人気だが、彼女ほど似合う生徒はいないだろう。今この風景を学園のパンフレットの表紙にしたら倍率がまた跳ね上がるに違いない。
「もしかして、そこに名前ないの?」
誰ともなく頷いた。
彼女は俺たちの間抜け面を見て目を輝かせた。
俺の心臓は爆音を鳴らす。
「わたしもね、名前なかったの。でもあっちの掲示板にあったよ。みんなもきっと、わたしと同じクラスだよー」
「え、ああ……」
「先行くね。急がないと入学式始まっちゃうよ。じゃあ、またあとでねー」
少女は元気よく手を振って、春風とともに体育館に走っていった。心なしかすれ違いざま甘い香りが鼻をかすめる。
俺たちはしばらく金縛りにあったみたいにその背中を見ていた。
「……今の子、めっちゃくちゃかわいかった」
俺は無意識に呟いた。
「ああ。あんな美少女実在するんだな」
「まさにミューズ……良い曲が書けそう……」
三人とも、示し合わせたように同時に溜息をついた。いいものを見た。そして彼女と同じクラスになれるのなら、それだけでもう高校生活はバラ色だ。
しかしいつまでも惚けてはいられない。
俺たちは彼女の教えてくれた掲示板を見上げた。
「特別Aクラス……?」
三人の名前は確かにあった。しかしクラス名がおかしい。他のクラスは数字なのに、俺たちの所属するらしいクラスはアルファベットで頭に「特別」という王冠付き。
「普通こういうのってさ、特別頭がいい生徒が選ばれるよね? あり得ない」
自分の言葉を自分で否定する悲しみが俺を襲う。
俺たち三人とも、合格できただけでも天変地異なのだ。
「ふふ、さすが、私ともなると扱いが違う……」
響子ちゃんが何故か自信満々に胸を張る。
「アホか。入試の後泣いて無理だとわめいていた奴が何言ってやがる! ……ああ、そうか。このAはアホのAだな! 特別アホクラスだ。じゃなきゃ説明がつかねえ。もういい、さっさと体育館に行こう!」
忠弥が切り上げてくれなければ、俺たちは掲示板の謎の言葉に足止めされたままだっただろう。それほどまでに不可思議だった。
俺は最後にちらりと掲示板に視線を向けた。
先ほどの美少女はどんな名前だろう。気になる。
あのような美少女が俺を相手にするとは思えないが、日海学園に入学するという奇跡が起きた今、もしかしたらと思ってしまう。少なくとも一年同じクラスにいて頑張れば友達くらいにはなれるかもしれない。
そう考えただけでいい夢が見られる。
しかし、期待に胸を躍らせて笑っていられたのはここまでだった。




