むつあめ
とある雨な金曜日。
時刻は午後三時を過ぎて四時を回るかといった頃。
第一高校高等部『保健室』にて。
とある保健教諭の、
やはり叫び声が響き渡っていた。
「吉津音せんせー」
私は保健室の扉をがらりと開けて中をひょいっ、と覗き込む。吉津音先生は机の前で一人頭を抱えていた。そして私に気付くと慌てたように口を開く。
「き、如月さんっ、どうしたんですか?もう放課後なのに僕に何か用事ですか?」
「はい、まぁそうなんですけど。先生の叫ぶ声が聞こえたから…。どうしたんですか?」
私は保健室に入り扉を閉めた。
放課後なので廊下にも窓の外にも、帰宅する生徒や部活動だろう生徒が大勢いる。扉を閉め、てくてくと吉津音先生がいる所まで近付いていくと、吉津音先生の仕事机の上が放っちゃかめっちゃかに荒らされていた。
ペン立ては倒れ、紙は散乱し、ビリビリに破られた千切れ紙が辺りを埋め尽くしている。
泥棒?
もしくは。
「二郎ですか?」
私は机を指差しながら聞く。
狐の二郎。多分彼がやったのだろう。
「は、はい。まぁ…」
「二郎がこんなことするなんて。初めてじゃないですか?」
よく吉津音先生と二郎は喧嘩という名のじゃれ愛をしていたりはするのだが、二郎がこんないたずらをすることは今まで無かった筈だ。
「昨日、少し言い過ぎてしまったみたいで」
狐に?
と吉津音先生のその言葉に言ってやりたかったが、吉津音先生は真剣なので茶化したりなど出来はしない。
「二郎は?」
保健室内に二郎の姿はやはりない。外は雨が降っているというのに、もしや外に出ていってしまったのだろうか。
「二郎ならそこに」
だが、吉津音先生はベッドの下を指差した。
いるのかよ。
「じろー」
私はしゃがみこんでベッドの下を覗き込む。そこには狐の二郎が伏せの状態でこっちをじっと見つめていた。
「二郎、とりあえず出てきなよ」
「…………」
私の言葉に二郎はむくりと立ち上がり出てくる。私は二郎を抱き上げてそのまま吉津音先生の所まで戻った。
「如月さん」
「はいはい」
私は抱き抱えていた二郎を、放っちゃかめっちゃかになっている机の上に乗せる。
吉津音先生は私が二郎に優しくするのを極端に嫌がる。怒る、と言ってもいいのかもしれない。
前に、二郎には気を付けろ、優しくするな、親しくならないように、つけあがる。と吉津音先生には散々言われている。
だから私が二郎をこうやって抱き上げるだけでも、吉津音先生はいい顔をしないのだ。
どうしてそこまでするのか。どうしてそこまで二郎と私との距離を取りたがるのか。
それはやはり、あまり仲良くなってしまうと二郎を野生に返せなくなってしまう恐れがあるからなのだろう。
私は机の上で大人しくしている二郎に優しく話しかける。
「二郎、さすがにコレはやりすぎだよ?大事な書類だってあったかもしれないのに」
「まさにありましたよ。それを狙ったかの如くその重要書類だけ再起不能なまでにびりびりにされてますがね」
「…………」
吉津音先生、今日は相当怒ってます。
「二郎、俺に当たるのは構わない。だけど、仕事に支障が出るようなやつ当たりの仕方はやめてくれ」
吉津音先生はそれだけ言って私に向き直る。
吉津音先生が『俺』って言うのを初めて聞いた気がする。
いつもの、ぼへっとのへっと抜けてる吉津音先生でもそんな言葉を口にするらしい。感情が高ぶると地が出てしまうのかもしれない。
ということは、ぼへっとのへっと抜けてる吉津音先生は作りものなのだろうか。
「如月さんすみませんでした。何か用事でしたか?」
「あ、えっとー…、ちょっと頼みたい事があったんですけど」
私は荒らされた机に視線をやる。
そして机の上に居る二郎にも。
「…忙しそうなのでまた今度で良いです」
私の視線に気付いてか吉津音先生も机に視線を向けた。二郎はそっぽを向いたままこちらを見ようとはしなかった。
「……そうですね。すみませんが急ぎでは無かったらまた今度にしてもらえますか」
「大丈夫です。急ぎじゃないので」
それだけ言って、私は保健室を後にした。
吉津音先生と二郎、ちゃんと仲直り出来るだろうかと心配しながらも私は廊下を歩き出す。
それにしても。
狐と喧嘩をする人間だなんて。
「吉津音先生ぐらいだな」
私はふふ、と笑う。
狐とガチで喧嘩など、あの吉津音先生だから出来る芸当なのだろう。それに二郎も。
二郎は人間の言葉が分かっているような、そんな雰囲気が前々からあった。吉津音先生の言っている事を理解しているような、そんな素振りも垣間見る。
狐とは頭の良い動物なのだろうか。
それとも吉津音先生の躾がいいのか。
吉津音先生と二郎。
私は鞄を開けて綺麗にラッピングされた手の平サイズの透明な袋を取り出す。中身は今日の調理実習で作ったクッキー。
この間のカップケーキの雪辱戦として、保健室で吉津音先生や二郎と食べようと思っていたのだが。
「一人で寂しく食べなきゃいけないのか…」
残念だな。
本気でそう思った。
《太郎と二郎の残念な喧嘩》