ひとあめ
とある晴れた月曜日。
時刻は午前十時を五十分ほど廻った頃。
ここ、第一高校高等部『保健室』にて。
とある教諭の叫び声が響き渡った。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁーーーっっっ!!!」
「うるっさぁぁぁーいっっ!!」
仕切りのために引いてあるカーテンをシャッ、と開けて私は寝ていた身体をベッドから半身起こし、絶叫していた保健室教諭こと吉津音先生を怒鳴り付ける。
「うるっっさいですよ吉津音先生!体調不良の生徒がこうやってベッドで寝てるんだから静かにするのが保健の先生の仕事ってもんでしょっ?!役割ってもんでしょっ?!業務ってやつでしょうっ?!」
「ご、ごめんっ!ごめんなさいっ!…って、如月さんまた勝手にベッドに入り込んでたんですかっ?!」
どうしてここにいるんですっ、と驚き、起こされ不機嫌極まりない様子の私を見る吉津音先生。
吉津音先生が驚くのも当たり前だ。私は吉津音先生が保健室を留守にしている間にこうやってここに忍び込んだのだから。
そしてベッドですやすやと安らかな寝息を立てて熟睡していたというのに。
「先生が大声出すから目ぇ覚ましちゃったじゃないですかっ!どーしてくれるんですっ?!折角寝れたのに!!安眠妨害で訴えますよ!!慰謝料請求ですよっ!!いくら払えますかっ?!私の提示した額払って貰えるんですよねっ!!」
「ぇええっ?!ちょっ、訴えるのは勘弁して下さいよっ。それに僕、低賃金の雇われ教諭なのであまりお金は持っていな…、って!それどころじゃないんです!!」
吉津音先生は怒る私そっちのけでわたわたと辺りを見回して何かを探しているようだった。だけど私はそんなわたわたしている吉津音先生の『それどころ』発言にカチンときていた。
一生徒の安眠妨害をそれどころ、だと。
「先生っ、酷いです!私にとって睡眠がいかに大事な事か知ってるじゃないですかっ!それをそれどころだなんて…」
わたわたしていた吉津音先生は、はっ、と私の様子に気付き慌てて小走りに近付いて来た。そしてベッドに座る私と視線を合わせるようにしてしゃがみこみ「す、すみませんっ」と言った。
「如月さんの気持ちも考えずに僕は自分の事ばかり頭に入れてしまっていて…。そうですよね、まず僕が一番に考えなくてはいけなかったのは生徒のことだっていうのに。僕はまだまだ未熟者です…」
しゅん、と俯く吉津音先生。
「先生…、分かってくれればいいんです。次からは私の安眠を妨害しないで下さいね?」
「分かりました。肝に命じます」
吉津音先生はここで一端言葉を区切り、「…ですが」とまた口を開く。
「ですが、如月さん。保健室を自分の寝室と勘違いされては困りますよ」
「てへぺろ」
「可愛子ぶって誤魔化そうとしても駄目ですから」
けっ、と態度をがらりと変えた私に吉津音先生はため息を吐いた。
「それよりも先生。何か探し物ですか?」
教室に戻ろうと身支度を整える私は、まだ保健室内をきょろきょろとしている吉津音先生に声をかけた。よっぽど大事な何かを無くしでもしたのだろうか。叫んでたぐらいだし。
「は、はい。まぁ、ちょっとしたものなんですけど…」
「何を無くしたんですか?」
「えと…、ちょっとしたもの、です」
「…………」
濁した。
何だろう。
見られたら困るもの、だろうか。
そして絶叫するほど大事なもの。
「…吉津音先生。私も一緒に探しましょうか」
にっこりと全身『善意』でそう言ったのに、吉津音先生は「いいから早く教室に戻りなさい」と私を追い払うようにした。
気になるのに。
先生の大事な、誰にも見せられないような秘密のもの。弱味でも握ってやろうと思ったのに。そしたら私、保健室使いたい放題できるのに。やだ。パラダイスじゃないですか。それ。
「如月さん」
私に、最後の一押しの如く吉津音先生はびしりと私の名を呼んだ。私は口を尖らせて不服全快アピール。だけど、吉津音先生は折れなかった。
「わかりましたよっ、帰ればいいんでしょ帰ればぁ」
私は仕方なくそれだけ言って先生に背を向け保健室の出入り口に向かったのだが。
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
「……!?」
突然またしても吉津音先生は悲鳴を上げた。私はびっくりして飛び上がる。
「な、何なんですかっ今度は!!ゴキブリでもいたんですかっ?」
「あっ、いやっ、ちがっ、えっと、違います。違います。その、何でもありませんっ、如月さんは自分の教室に、も、戻って下さい」
振り返り吉津音先生を見る私に吉津音先生はそう言った。不振すぎる。怪しすぎる。きょどり過ぎる。
だけど、教室に戻れと言う吉津音先生を訝しみながらも私はまた仕方なく出入り口に向けて吉津音先生に背を向け歩き出した所で、背中に違和感を感じ振り向く。何となく引っ張られた感があったのだ。
「…先生、今私の制服引っ張りました?」
「えっ?し、してない、してないよ。」
「…………」
怪しい。
それに。
「先生、後ろ手に何隠してるんですか?」
「ぎくり」
先生は何故か両手を後ろに回して、明らかに何かを隠し持っているようだった。何を隠しているのか。
「先生、もしや私にいやらしいことをしようと」
「してませんっ!!いいから早く教室に戻りなさいっ!」
ぐわっ、と声を荒げた先生の後方。
先生が後ろに回した手の辺りからぴょこん、と何やら尻尾のようなものが見えた気がした。
「……犬?」
吉津音先生は子犬でも匿っているのだろうか。
「先生、犬でも拾ったんですか?」
「ひ、拾ってないですよっ。い、いいから早く如月さんは教室に戻っ、って、あっ!こらっ、二郎!?」
するりと吉津音先生の手からそれはすり抜けひょいっと飛んで私の前に華麗にその四つ足で着地した。
そして。
「コーンッ」
と鳴いたそれは犬でも猫でも鳥でもハムスターでも猿でも猪でも虎でもライオンでも。
そして狸でもなかった。
「…狐?」
私の目の前にいるのは間違いなく狐だった。
「先生…」
「き、如月さん、あのね、こ、これは」
「狐って、本当にコーンって鳴くんですね…」
「えっ、と、あ、う、え、うん。鳴くんだよねぇ、ビックリだよねぇ」と言った先生が冷や汗ダラダラ垂れ流しているのを、狐を見続けていた私は少しも気がついてはいなかった。
この日を境に、私は狐の嫁入り事情に深く関わる事になる。
《本物の狐もコーン、と鳴いた》