008
蘇芳の中にいる兎は、喋ることもなければ存在を主張することもない。
唯一の耳は、普通の人には見えないらしい。
尤も、霊感があるというようなちょっと鋭い人には見えてしまうのだそうだ。
そういう人たちは、夢獣自体も見えるそうだが、”夢獣”と認識はしていない、と木路蝋が言っていた。
そのため、下手に憑き物だなんだと騒がれるのも厄介なので、普段から帽子は外さないようにしている。
蘇芳自身、中の兎の御蔭で夢獣を夢獣と認識することはできる。
そのほかに以前と変わったところと言えば、何処にいても露草のいる方向が何となく解るようになったところだ。
兎が余程露草にご執心なのかと思ったが、それを尋ねると木路蝋があっさりと首を振った。
『露草は、夢獣にとって何にも替えがたい御馳走といったところだ。他の人間が石コロなら、露草は金剛石なんだろう。普通、夢獣は夢を見せる相手の記憶や夢を食べる。食べるかわりに、悪夢や吉夢を見せるわけだ。食べる物は勿論、美味い方が良い。だが、普通の人間でそう美味い奴はいないから、夢獣は憑いても大抵の奴は適当に食って、また離れていく。だが、露草の場合、あいつより上手そうな相手がいない。だから、憑かれたら遠慮なく貪られるだろうな。下手をすれば廃人だ。だが、それでも夢獣は美味いものを食べたいから、夢を見せ続ける。廃人になっても、ただそれでも生きなければ、と思わさせられたまま、ずっと生きることになる』
『そんなこと』
『俺も甥がそんな目に合うのは嫌なんでな。精々護衛に励んでくれ』
「言われるまでもないです」
記憶に一人ごちて、蘇芳は迷いなく奥へ進む。
離れに程近い和室が、露草の部屋だ。
「失礼します」
灯りをつけない部屋の中で、露草は天窓からの月明かりをぼんやりと眺めていた。
「嫌になるよね」
部屋に入って襖を閉めようとした蘇芳の背中に、ポツリと露草の声が届く。
「結局部屋を飛び出しても、行き着く場所が此処しかないなんてさ。家を飛び出すなんて選択肢は選べないんだ」
「飛び出さないでくれてよかったです」
「解ってるよ。どうせ飛び出したら飛び出したで、あんたや木路蝋の世話になるんだ。そんなのは御免だね」
蘇芳が襖を閉じて向き直ると、露草は視線を下ろして肩を竦めた。
「僕は、あんたを解放したい。木路蝋からも、夢獣からも。それに、僕からもだ」
「露草は勘違いをしています」
「なんのことだよ」
「犠牲だなんて思ってません。露草が今ここにいるだけで、十分です」
「だから、それが嫌なんだ」
苦虫を噛み潰したような顔をして、露草は蘇芳の帽子を引っ張る。
するりと落ちた帽子の下から現れた兎耳に手を伸ばして、露草は目を細めた。
「早く、ただの女の子に戻りなよ」
本当に小さな声で零れ落ちた言葉は、座敷に落ちる前に空中で霧散する。
庭から聞こえる虫の声が不意に強くなって言葉の余韻をかき消した。