Chapter02 未来の名前
全部が終わったら、この家を出ることは初めから決めていた。
ただ、彼女がついてくるのは予定外だっただけだ。
「私、木路蝋さんについて行きますからね?」
「は?」
訝しげに自分の妻を振り向くと、彼女はあっけらかんと笑った。
「なにおかしな顔してるんです?」
「何の話だ?」
「何処かに行くなら、私も一緒に行きますから」
「誰が、いつ、どこに行くんだ?」
「木路蝋さんが、いつかどこかへ」
「なんだ、それは」
彼女には何も話していないのに、どうしてか彼女は敏感にそれを感じていたらしい。
「仮にですよ。仮に。だから、私を忘れて行かないでくださいね」
「仮に何処かに行くとして、どうして連れて行ってほしいんだ?」
「どうしてって。だって、夫婦でしょう?」
何の屈託もなくあっさりとそう言った彼女に、溜息をつく。
「此処にいれば不要な、苦労してもか?」
「何言ってるんですか。若い時の苦労は買ってでもしろ! ですよ」
「若いか?」
「もう、失礼ですね。露草君達に比べれば若くないですけど、若い方ですよ」
そうやっていつでも笑ってくれるから、多分それに救われていた。
「木路蝋さんが隣にいるなら、それは苦労じゃないですよ」
「口が滑りすぎだぞ」
こつんとその額を叩いて彼女の横をすり抜ける。
顔を見られたら、朱くなったのがばれてしまいそうだった。
「なぁ」
「どうしたんですか?」
電車の揺れが、眠気を誘う。
ぼんやりとした隣の彼女の視線から逃げるように、窓の外に視線を向けた。
「俺は、自分が感傷的な質だとは思ってない」
「はい」
「それでも、後悔していることがある」
躊躇ってから零した言葉は、誰にも言えなかった言葉だ。
分家の三人はもとより、露草にも言えなかった。
「あんな風に、この手から離すつもりはなかった」
「はい」
「でも結局、一番関係のなかったはずのあいつに全部背負わせた」
意味が解らない筈なのに、彼女は何も問いかけることはしなかった。
静かに、相槌を打つだけだ。
「本当は俺が、護らないといけなかった」
「だったら、今度は護ってあげてください」
「は?」
視線を動かせば、彼女は優しげな手つきで自分の腹に触れた。
「この子の名前、貴方がつけてください」
「な、」
狼狽えると、彼女は屈託なくにっこりと笑う。
「大丈夫ですよ」
「何言ってる。代わりなんか、」
「代わりじゃありませんよ。その子もこの子も、別々の人間ですけど、貴方が愛して護りたい子どもであることに変わりはないでしょう?」
「それはそうだが」
「だから、この子と一緒に、その子を護りましょう? それとも、貴方の大切だったその子は、同じ名前のこの子に意地悪する様な、そんな子だったんですか?」
「いや」
考える間もなく、直ぐに零れたのは否定の言葉。
間違いなくあの少女は、同じ名前の子どもをそっと見守るような人間だ。
「でしょう?」
なんだか彼女にはすべてお見通しの様で、木路蝋は肩を落とした。
当主という肩書はとっくに捨てたが、それでも本当に威厳も何もあったものじゃない。
「ま、女だって保証はないがな」
「まあ。女の子だったんですか? 妬けます」
ぷくっと頬を膨らませた彼女は、けれど次の瞬間にはくすくすと笑ってことんと頭を肩に乗せた。
電車が揺れる。
静かに穏やかに。
あの日、少女と兎と出会った場所へ向かって。
あの日、降り立った駅に立っていると、向こうから電車がやってくるのがみえた。
特に予想があったわけではない。
ただあの葉書に気づいたなら、来るかもしれないと思っただけだ。
今日か明日か。
それで来なければ、それだけということだ。
「ねぇ、誰を待ってるの?」
「そうだな。お前の、婿候補か」
二両だけの車体がホームに滑り込んで、先頭車両から少し大人びた一人の青年が降りてくる。




