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宵闇の風が、渡り廊下を歩く露草のマフラーを揺らしていく。
短く切り揃えた髪との隙間に入り込んだ風に露草は首を竦めた。
時折楽しそうに笑いながら追い抜いていく学生の波が、あの日失われた記憶を色濃くしている。
『夢獣は消えた。この家ももう、過去に縛られることもない』
木路蝋はそう宣言して、さっさと当主の座を下りると、家を出ていった。
もう夜を畏れることもなければ、誰かに護られることもない。
望んだ日常の筈なのに、ぽっかりと空いた穴を、露草は埋められずにいる。
「あ、露草君だよ。山吹ちゃん」
「ほんとだ。ばいばーい」
ひらひらと手を降る二人組に、露草は微かに手を振り返した。
「気をつけて帰りなよ、伽羅。山吹」
「うん。露草君もね」
彼女達の記憶は高校入学当時からすっぽりと抜け落ちていて、夢獣に関するものは一欠片も残らなかったらしい。
二人に関しては、木路蝋から様子を見るように言われたが、特に問題はなさそうだった。
去っていく二人を見送っていると、不意に肩に重みがかかる。
「どうした」
「大丈夫かい?」
肩を叩いたのは鈍で、その奥から顔を出した鴇に、露草は小さく笑った。
「大丈夫ですよ。鈍先輩、会長」
「そうか」
「露草君、何度も言うが、私はもう会長ではなくてだね」
「じゃあ、元会長?」
「素直に、鴇先輩で良いと思うのだけどね」
あの後、鈍と鴇も、打ち身が酷くて病院には行ったものの二三日で退院してきて、すぐに顔を出してくれたのだ。
二人の記憶の中には、露草の穴を埋める少女のことが微かに残っていたが、それでもそれもいつの間にか口には昇らなくなっていった。
「気をつけて帰るのだよ」
「じゃあな」
二人が行ってしまうと、何故か急に寒さが身に染みて、露草は首を竦める。
家路を急ぎながら、露草がふと顔を上げると三日月が浮かんでいた。
『あいつはお前だけは、どうしても護りたかったんだろうよ』
去り際の木路蝋の言葉が不意に蘇って、露草は足を止める。
悲願を果して世界を護った一人の少女。
彼女の記憶を持つのは、あの時渦中にいたものだけだ。
露草と木路蝋を除く一族のものから、彼女の存在した過去は消え、学園からも彼女の痕跡は失われた。
そこには、予め誰もいなかったというように。
けれど、露草は知っている。
死地に陥ってなお、前を向いた強い光を。
「 」
こぼれ落ちた名を、抱きしめて露草は前を向く。
立ち止まることはできない。
彼女はそんなことは望まないだろう。
覚えている限り、彼女は確かに此処にいたのだ。
だから、忘れてなどやるものか。
風に揺れたマフラーを払って露草は歩き出した。




