煤けたゴーグルに夜空を映して
「星企画」のことを知りまして、可能ならば参加したいとひそかに思っていたのですが、物語を作ろうとするとちっとも筆が進みませんで。ならば、「星」と聞いて、普段私がつい考えてしまうことを書いてみようと思いました。ジャンルとしてはエッセイに近いかもしれません。まるっきりの文系人間ですが、昔から星空には憧れがありまして、そんな拙い子供染みた空想を綴ってしまいました。面白みなどないかとは思いますが、他の方々の素敵作品の隙間に、一つくらいはこんなものが混じっていてもいいのかなぁと思いつつ。ああもう、色々すみません。
夜空に浮かぶ星々は、昔から何故か僕をメランコリックで感傷的な気分にさせた。小さい頃は、ただただ頭の中が空っぽになるような爽快感に未知への探求心と不可思議さが夏の夜空の大三角形のように揺らぐことのない黄金比率で入り混じって、訳もなく胸の奥が疼くような堪らない気持ちになったけれど、大人になった今の僕には、その理由に大体の見当が付いた。
それは恐らく、僕が目にする小さな光が、その地球との距離に比例した非常に遠い過去のもので、今、こうして僕が光だと認識する遥か何十、何百光年もの先に、その星が今も同じような形であるかどうかは、分からないから――かもしれない。
僕が心を砕き、そして慰めているのは、過去の幻影。おんぼろの映写機に映ったセピア色の映像のようなもの。真っ直ぐに、ただひたすら真っ直ぐに伸びた光りの中に踊る小さな埃の軌跡のような――そう、チンデル現象みたいなもの。
だが、僕の現在は、そうした【今】に届く【過去】からの光りに囚われている。現在と過去の時間軸が【僕】という媒体を交えることで交差する。それを見出した時、僕は自分がとても崇高な使命をもっているのではないかと思い、心が震えた。
最近の僕の密かな楽しみは、ベランダに置いてある長椅子に寝そべって一人夜空を眺めることだ。僕が暮らす都会の片隅の小さな部屋は、お世辞にも広いとは言えないけれど、何故かバルコニーには相対的に見て贅沢過ぎる程の空間があった。多分、設計上の歪がそこに出てしまったのだと思う。図面上では完璧でも、実際にそこに形作られて初めて分かる空間の歪みのようなもの。そんな類のものだと僕は思っている。
日中は狭い部屋を鼻で笑うかのように不釣り合いな面積を保有するバルコニーに反射した日差しが照り返すお陰で、この部屋は中々借り手が付かなかったそうなのだが、僕がこの部屋に住もうと思った決め手はこの広いバルコニーにあった。日中は仕事で家を空けている僕にとって、容赦ないという真昼の太陽からの攻撃は全く気にならなかったから。僕がここで過ごす時間は精々日没から朝の七時半くらいまで。僕にとっては夜のバルコニーが、この部屋の醍醐味だった。
風呂上がり、タオルを首に引っ掛けたままのだらしない姿で――因みに下は、昨今流行りのポップでカラフルなステテコ姿、柄は扇型に波が弧を描くあの【青海波】だ。中々に渋いだろう?――缶ビールのプルを引く。冷えたグラスに注ぐなんて洒落たことはしない。アルミ缶の味が気になる程、繊細な舌を持っているわけでもない。そうして、ただぼんやりと夜空を眺めるのが眠る前の儀式みたいになっていた。
虫たちが羽を震わせる音が聞こえる。どこかの家の軒先にぶら下がる風鈴の声も。ああ、いまだ興奮冷めやらぬ蝉たちの大合唱も忘れてはならないだろう。夜になっても気温が昔みたいに下がったりはしないので、勘違いした蝉が日没後も羽を震わせ続けるのだ。束の間の短い命の間に伴侶を尋ねて。その声は時に繊細に、そして時に大胆、かつ悲愴的な程にこの気だるい夜空に響き渡る。僕は無関心を装いながらもその必死な叫び声のこだまに己が気持ちを同調させそうになって、ほんの少しだけ心がざわついた。だって、その蝉たちの番う相手を見つける為の雄の必死さは、ここ数年余り彼女いない歴を更新している僕の私生活に陰りのような染みを落として行ったから。ただ、僕にはあんなにガムシャラに【彼女(もしくは嫁)欲しいぜ、Baby!】みたいなスローガンを叫ぶほどの度胸も気力もない。正直に言えば、ほんのちょっぴり――そう、ちょぴりだけね、羨ましいと思わないでもない。例えば、それは失くしてしまった青春の情熱に似ているから。
ねっとりとした湿度の高い夜。もう何日続いているか分からない熱帯夜だ。まとわりつくような大気を時折、気紛れに吹く風が攫う。シャワーを浴びたばかりなのに僕の毛穴は、再び汗を生産しようと収縮を始めた。
都会の夜は、実際、星を見るには適さない。僕が一人慎ましやかに暮らすこのマンションの一室も、眼下に広がるのは、似たような住宅街の家の明かりばかりだ。そして、街灯や商店街の明かりが混ざり、遠く高層ビルの輪郭を象るようについた赤色灯が点滅を繰り返す。
一体、あの赤い光は何のために、そして誰の為に点滅しているのだろうかとその昔、考えたことがある。その時、僕はフランスの飛行機乗りだったサン=テグジュペリの小説を思い出した。真っ暗な闇の海原を一人、飛行機で飛ぶ時、ただ一つの点となって現れる小さな農家の明かりが、どれだけの救いであるかということを。日が落ちれば、昼間は朗らかな草原も、全き闇の怪物に変わる。飛行機乗りである僕をその闇に誘い、そして飲み込もうとするのだ。そんな時は、頼りない小さな計器と夜空の星々が唯一の命綱になる。ああ、星も当てにはならない。だって時の経過と共に、刻々とその位置を変化させるから。唯一の頼りは北極星だ。周囲にある明らかに主役格の星々とは違う控えめな脇役。だが、その脇役に、この世界でどれだけの男たちが救われているかしれない。その星も本当は僅かに動いていて、2000年から3000年後の世界では、北極星として認識されるのは、僕が今知るようなこぐま座のα星ではなくて、別の星(ケフェウス座のY星)に変わるのだが、それはちっぽけなことだ。今も昔も、そこにあって変わらぬ存在は、確かにあって、誰かの支えになっている。そのことに変わりはない。
ああ。もし、あの時の飛行機乗りが、この夜空を見たら、何と言うだろうか。果てしない闇の上を飛ぶあの男たちは思い描いたことがあっただろうか。90年後の世界は、かようにも目映い人工の明かりで満ち溢れていることを。もしかしたら、余りにも眩し過ぎで、逆に目がちかちかしたようになって困惑することしきりかもしれない。そうしたら、今度は目隠し、アイマスクが必要になって、真っ黒のゴーグルをして操縦桿を握るんだ。そして、やたらと高くなった建物を眼下に望みながら、人間はまた【バベルの塔】の過ちを繰り返そうとしていると顔を青くするかもしれない。
いや、待てよ。ビルを象る赤色灯の点滅は控え目なものだから、彼らの心をほんの少しだけ慰めるかもしれない。真っ黒の煤けたゴーグルから覗くのは、微かな赤色灯の点滅。それは、まるで闇に沈む巨大な生き物の鼓動を思わせるかもしれないんだ。等間隔でぼんやりと蠢く赤い光の正体。そこに潜むのは闇に巣食う大きな命の欠片。そうすると決まって夜に、今も昔も、飛行機乗りの眼下に広がるのは、彼らを惑わそうとする闇の使者なのかもしれない。そんなことを思って、僕は自分を慰めた。
このような幻想的な程に明るい地上の泉を下に――それは多分、ハイ・エルフの森にあるこの世を映す鏡の泉に似ている――ぼんやりと白む夜空に星を見つける為には、意識を集中させて目を凝らさなければならない。しかも夏の夜空は、無数のエアコンの室外機から放出されるくすんだ熱気に閉じ込められていて、どうあがいても、すっきりと遠くまで見渡せない。そんな中、針の穴みたいに小さな光る染みを数点見つけることが出来れば、きっと御の字だ。
折しもその日は、月が出ていて、闇に沈むはずの空を明るい群青色に照らし出していた。
星を見るには、全くと言っていいほどに適さない夜。煌々と照る月は、自ら生み出した光ではなく、太陽からの反射に過ぎないのに、宇宙の影の中に沈んだ地球を前に、随分と不躾な程にその夜を侵略する。
だが、それ以上にこの人工的な街の明かりが、太古から続く人間――つまり、僕――と星々との交感を阻んでいたのも事実だった。
ああ、僕が焦がれて止まないのは闇だ。密度の濃いずっしりとした重みのある漆黒。
本物の闇というものを僕はこれまでのそこそこ長い人生の中で、実は二度ほどしか経験したことがない。一度目は、奈良の春日大社の【万燈会】だった。日がとっぷりと暮れて、手にした提灯の蝋燭の明かりが消え、ふっと辺りが深い闇に包まれたのだ。折しも、参道をゆっくりと下っている時だった。すぐ傍には沢山の似たような参詣客がいて、其々が提灯をぶら下げ、参道の石灯篭にはぼんやりとした明かりが灯っていたけれども、僕はこれまでに感じたことのない【闇】を意識し、心がどうしようもないほどにうち震えた。それは本当の所、完全な闇には程遠かったのだけれど、本能に訴えてくる未知の恐怖と共に僕の奥底に眠る夜行性の獣としての遥か昔の記憶を揺さぶった。
二度目の闇は、長野の善光寺の本堂下にある【胎内巡り】だった。こちらは本当に光が寸分も差し込まない完全なる闇の中を木の壁に作られた出っ張りを頼りに進む。視覚が利かない感覚に初めて恐怖を味わった覚えがある。その時に指先に触れた木肌の感触は、今でも思い出すことが出来た。そして、太陽が照る日中に人工的に作り出された闇は、僕を無限のブラックホールの中に落とした。僕は自分が立っているのか、空間に漂うように浮かんでいるのかさえ分からなくなった。そして諦めたように目を閉じ、指先に触れる木肌の感触だけが唯一の世界に己が神経を同調させた。その時、僕は譬えようのない息苦しさと、同時に相反する解放感を感じた。矛盾する気持ちが交互に現れては僕を混乱させた。そして早くこの苦行が終わることを願いながら――その時の僕は念仏を唱えていたかもしれない――空間感覚の消失した無限の闇をひたすらふわふわと浮いて行ったのだ。
これらは共に暑い夏の日の出来事だった。
僕が今、こうしてベランダで寝そべって見上げている頼りない夜空もまた、夏の空だ。正直に白状すれば、僕は、真冬の夜空の方が好きだ。キンと張りつめた澄み渡る空気に、余計な不純物を許さない潔癖なまでの冬の空。南の夜空に大きく輝くオリオン座――ベルトの三つ星――を見つける度に、ああ、今は冬なんだということを実感し、訳もなく心が躍るのだ。鼻の奥が冷たい空気にツンとして、僕の鼻の頭はあの有名なクリスマスソングのトナカイみたいに真っ赤になっているのだけれど。
でも風呂上がり、缶ビール片手にベランダに置かれたチープな長椅子に寝そべってぼんやりと星空を眺めるのは、やっぱり夏の方が適している。
こうして見上げた夜空の星が、例えば、あの小さく光輝く星が、地球から400光年の彼方にあるとすると、今こうして僕が目にしているのは、400光年も前の光であるという事実に僕は途方もなく圧倒されるのだ。時に目眩を覚え、陶然とするほどに。
もしかしたら、今こうして僕が目にしていると思っている星は、もう実際には存在しなくて、僕が夜毎目にして慰めているものは、もしかしたら、もう存在しないかもしれない星の名残の輝きで、僕はその最後の見届け人なのかもしれない――なんて無限ループみたいな罠にはまりそうになる。そして、僕はそんな広大で底の無い宇宙時間の中で、人間は、なんてちっぽけな存在なんだろうと不思議な気分になるのだ。僕を流れる時間とあの星々の時間は余りにも隔絶し過ぎている。それでも、きっと、僕を構成する分子と、あの星々を構成する分子は同じような物で――この宇宙空間を漂う物質と言う点で等しくて――この広大な宇宙の地球と言う名の星に生命が育まれ、こうして僕のような人間があくせくと毎日を働き、そしてこの途方もない闇の空間に浮かぶ星々に想いを馳せることは無関係ではなくて…………。
毎晩、夜空を見上げる度に途方もない数の星々の光が僕に降り注ぐ。照射される方角も強さもてんでバラバラで、僕が暮らすこの地球という名の星は、太陽からその恵みを貰うかたちで光を照らされているだけで、あのように夜空に散らばって見える無数の星々とは根本的に違う。その想いに僕の繊細で夢想家のハートは打ちのめされそうになるけれど、僕は勇気を震え立たせて、『いや、そうではない』と拳を握る。空になったアルミ製のビールの缶が、僕のたいしたことのない握力にぺこりと凹んだ。
そこで僕は、ビールの残滓が付着した唇を剥き出しの腕で拭った。男らしく。タオルを首に掛けていたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
あれらは太陽のように自ら膨大な熱を発し続ける恒星で、あの星の周囲には、もしかしたら太陽系のような自らは光をもたない惑星があるかもしれなくって、そうしたらあの中には、この地球のように生命を育んでいる星があるかもしれなくて、そこに暮らす生命体も、もしかしたらこうして夜空を眺めて、未知の惑星の未知の生物の存在に思いを馳せているのかもしれない――なんて。僕と同じような存在が――その姿形は僕とは似ても似つかない可能性だってある訳で、もしかしたら僕はみみずのようにのっぺりとした視力を持たない線虫の類かもしれない――こうして果てしない空間のどこかで同じように空を見上げているのかもしれない。
宇宙はある日、突然、ビックバンと言う名の巨大爆発から生まれたと著名な天文学者が提唱した。【無】から、どうやって【有】が生まれるのか。僕の小さな脳みそは直ぐにオーバーヒートだ。いや、そもそもブラックホールと呼ばれる漆黒の闇は【無】ではなくて、余りにも多くのものが詰まり過ぎて、逆に何もないように見えるのかもしれない。空間は幾重にも歪み圧縮され、時間軸すら幾方向にもぶれる。その暗黒エリアから、偶然(?)、それとも必然に爆発が起き、宇宙は急速に拡大、膨張し続けているという。
そうなるとその別の宇宙を抱える巨大な【無】があってもいい訳で。そうすると宇宙と言う存在は、唯一のものではないのかもしれない。
ああ、もうここまで来ると僕はお手上げだ。僕は、僕を構成する細胞の一つ一つを知覚できるわけではないけれども、僕の体は数え切れないほどの細胞が寄り集まってできたものだということは知識として知っている。もしかしたら、宇宙もそうなのかもしれない。例えば、恒星の一つ一つが僕にとっての細胞に似たようなもので、所謂銀河が人の形に近い集合体であったら、宇宙はそんな擬人化された銀河が散らばって集まった空間で、地上に暮らすかつての人の祖先が、遥か未知の土地を求めて探検を繰り返したように、その活動範囲を広げて行っているのではないか。
僕は、中途半端な都会育ちだ。電燈の無い満天の夜空なんて知らなくて、かといってビルの林が乱立する灰色の街で生まれた育った訳でもない。天の川なんて産まれてこの方見たことがないけれど、それを不幸だとは思わない。星空は常に家の明かりや街灯の明かりと共にあった。北極星やおおぐま座にこぐま座、カシオペア座におうし座のプレアデス星団であるスバルやふたご座、オリオン座くらいは見分けが付くし、おおいぬ座のシリウスやはくちょう座のデネブやわし座のアルタイル、こと座のベガくらいは知っている。
昔の人々は夜空を1枚のカンバスのように見立てて、膨大な星明かりを線で結んで行った。その想像力には今でも感嘆を禁じえない。そして、こと細かに様々な物語を紡いでいった。そうすると夜空は騒がしい程の物語で溢れ出す。きらきらと光る目映いばかりの物語。そしてその物語は、一晩を掛けて天をゆっくりと回るのだ。
僕の友人の一人に、その昔モンゴルに旅行をしたことがあるやつがいた。学生時代、夏の1か月、遊牧民のゲルの片隅でホームステイ。歓迎の馬乳酒を飲んで、即腹を壊したと笑っていた豪快で、僕からしたら羨ましい程に型破りな奴だった。そいつは、モンゴルの夜空は素晴らしかったと本当に感極まったように僕に語ったことがある。あれは一度、死ぬまでに見ておくべき光景だと言って。どれだけ素晴らしいものであったかと僕に滔々と語ったのだ。地平線の彼方から日は昇り、地平線の彼方に日が沈む。そしてまっ平らな地平線で区切られた広大な夜のカンバスに驚くほどの無数の星たちが存在を主張するように瞬いているのだ。勿論、天の川もくっきりと見られたと言う。この宇宙にひしめく膨大な星々からの光りのメッセージ。この星が孤高の存在でないことへの賛辞。
何万、何千、いや何億という過去の光りが、きっとそいつに降り注いだことだろう。止めどなく、痛いほど真っ直ぐに。スバルのプレアデス星団から注ぐ400光年の光も、こと座のベガから降り注ぐ25光年の光も、そいつが受け止めた時点では、等しく同じ瞬きで。でもそいつの元に届くまでは、其々400光年と25光年という人間には途方もない年月を掛けてもたらされているのだ。そして、その光りは共に400年前と25年前の光である。
今、僕がこうして暮らすこの場所が、利便性、文明という名の人工的な光りの為に失ってしまった景色。もしかしたら、今、僕がこうして夏場のベランダに一人寝そべっている時も、僕がその関知する触角を失ってしまっただけで、同じように光りは届いているのかもしれない。ああ、そうだ。そうに違いない。すぐそこに、白い群青の空の向こうに天の川はあるはずなんだ。ただ、それを僕が受け入れる為には、僕が暮らすこの下界はとても騒がし過ぎるのだ。
僕たちが天の川と称している星の流れは、銀河の中心で、星々が固まった場所が重なって帯のように見えるものだ。その銀河が人であったならば、きっと膝小僧の軟骨を囲う細胞の一つが太陽系かもしれない。そんなことを思った僕は、チープなデッキチェアに寝そべったまま、自分の左足を天へ向けて掲げ、そして揺らしてみた。シンクロの選手が、水際からすらりとした脚を出してキックをするみたいに。【青海波】のステテコが波の模様を描いて揺れた。
それからまだだらりと全身を弛緩させて。僕は大きく伸びをした。宇宙が膨張する速度を意識しながら。
纏わりついた熱気が首元に汗を滴らせていた。群青色の白けた空をジャンボジェットが点滅をしながら通り過ぎてゆく。大勢の乗客を鉄の塊という翼の生えた船に乗せて。あの点滅する光すら、僕には強すぎた。
ああ。そうだ。僕にも目隠しが必要かもしれない。あの飛行機乗りが使ったみたいな頑丈な煤けたゴーグルが。そして僕は、小さな操縦桿を両手に握るのだ。
その時、僕が目裏に思い描くのは、プラネタリウムで観た星空だ。丸い人工的な球体に点滅した人工的な光り。本物のあの光り一つ一つは、太陽を凌ぐほどの膨大な灼熱のエネルギーを持っているから、人間など一たまりもない。いや、もしあのような恒星が間近に接近したら、地球など一たまりもないだろう。一瞬で地球の海、水分という水分が干上がって、そして燃え朽ちるだろう。灰のように。そんなことを考えるだけで、あの無数の星々は綺麗だと褒めそやすには、とても容赦がない横暴さと残酷さを持っていることが分かる。
この時、僕はとあるアメリカドラマのワンシーンを思い出した。もし、人が宇宙空間に放り出されたらどうなるのかといシミュレーション。大気圏外で、もし、人が外に放り出されたら、無酸素状態では、人間の体内の細胞は一気に膨れ上がって、体中の水分が一気に蒸発する。即ミイラのような状態になるというものだった。かくして人類は、未だにこの地球から簡単には抜け出せそうにない。ずっと昔から、空想の世界では、宇宙に進出して、その探検を続けて行く理想を描き続けてはいるが、それが実現するのは、まだまだずっと先の話に違いない。そして膨大な数の星々、沢山の銀河を抱え、膨れ続ける宇宙の中で、新しい生命体に遭遇するまでに、人類が存続しているかも怪しいかもしれない。まぁいずれにしても僕が生きているうちになんてことは有り得ない。
僕は安物のデッキチェアに寝そべりながら、ゆっくりと目を閉じた。目裏に降り注いでいるはずの大量の星々の光、α線やγ線やX線――時間も強さもてんでばらばらの光り――を吸い込んだ。
そして、再び瞼を開いた。
群青色に仄白んだ空が、少しだけトーンを一段下げてその色を闇に近いものに変えていた。僕の汗ばんだ額を撫でるそよ風に秋の気配が滲み始めていた。
こと座のベガとわし座のアルタイル、そしてはくちょう座のデネブ。南の空に広がる三つの星を線で結ぶ。すると、大きな夏の大三角形が現れた。そんなことに一体どんな意味があるのだろうと思いながらも、僕はそうやって星の名前を探し出すことで、賑やかな物語を作り出すことに手を貸している。二千年前とはきっと星の巡り合わせも位置も見え方も違っていたのだろうけれど、未だにこの物語は僕の世界では有効だ。そして僕がいなくなったあともずっと語り継がれてゆくのだろう。
プラネタリウムに行こうか。例えば、今、気になっているあの子を誘って。そんなことを不意に思った。いや、それよりも田舎の町に行ってみようか。ただ、星を見る為に。アルコールが少しだけ入った僕の思考は、あの果てしない虚空の夜空のように広がって止めどなく流れ出す。僕は何故か人恋しい気分になった。
そうやってどのくらいの時をベランダで過ごしただろうか。
漫然と微かな星が散らばる夜空を見つめ続けて。不意に僕の視界の端に小さな光りが走った。流れ星だろうか。余りにも一瞬で、あっと思った時には、その光りは跡形もなく消えていた。流れ星、「shooting star」なんて言うけれど、あれは、地球の引力に引き寄せられて大気圏に突入した宇宙からの欠片だ。線香花火の最後の震える光りに似ている。
こちら側に落ちてきた、かつては星であったものの欠片に願いを込めるなんて、冷静に考えてみればちょっと変だよなぁと思わないでもないけれど――だってその欠片にしてみればまさに最期の時なんだから――それでも、摩擦で生じた微かな光りが夜空を走る様はどこか神秘的で、そこに大いなる神のような存在を思うからかも知れない。
それから暫く目を凝らしてみたけれど、濃さを増した夜空に流れてきた星の欠片は見えなかった。僕はあくびをした。生理的な涙を通して見た天は、少しだけメランコリックに揺れていた。
やっぱり、プラネタリウムに行こう。僕は何故かそう確信した。
そして僕は、もう一度空を観て、少し場所を移動した大きな三角形を辿った。
―fin―
はじめましての方も、そうでない方も。このような拙い物語にもならない文章に目を通して下さいましてありがとうございました。
締め切りまでには間に合わないかと思っていたのですが、なんとかなりましたのでアップしました。夜空には無数の星々があります。私の作品はきっと人の目に見えるか見えないかの実に僅かな光ではありますが、この企画の賑やかしになれば嬉しく思います。
主催者のtm様、素敵な企画をどうもありがとうございました。