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雲の隠れ家  作者: 空魚
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喫茶店 [Carpe diem (カルペ・ディエム)] 2

【登場人物】

 放浪する人(流浪の男):過去を捨てられず国々を彷徨う男。

 喫茶店の主:筆を折り、街に喫茶店を開業した男。

 絵本作家の青年:妻子を亡くし、喫茶店へ一人通う青年。

 画商や絵描き達が互いに議論しあうのを尻目に、一人、店の片隅で闇色の液体をすする男がいた。その男はテーブルの上に置いた一冊の本に視線を這わせては、口に含む液体よりも深い吐息を吐くのだった。


 その男の存在を気に留めるものは数少なかったが、二階から降りてきた流浪の男はふと視界の隅に映った年若い男の姿を見て、自分に近しいものを感じた。喪失感に打ちひしがれたその姿は、そのまま今の自分の姿でもあった。


 流浪の男が沈んだ空気を纏う青年に声をかけようとすると、彼を引き止める者があった。

 振り返り、見知った顔に行き当たる。

 相手は静かに首を振り、顎でテーブルの上の薄い本を示した。


 カルペ・ディエムの主は男に青年が絵本作家なのだと伝えた。

 年若くして妻子に先立たれ、わずかばかり発行した絵本をあのように見つめ続けているのだと。


 流浪の男は押し黙った。

 そして、静止する主に少しだけ頭を下げると、無言のまま青年の向かいの席に座った。


 青年はチラリと男に眼差しを投げかけたが、すぐさまその視線は何も捉えなかったように宙を泳いだ。男は口を閉ざしたまま同じ席に座り続けた。


 カルペ・ディエムの主は仕方なさそうに肩をすくめると、流浪の男のために珈琲を淹れる作業に移った。それら一連の成り行きを感じ取ったのか、店内を満たしていた熱気は濃い珈琲の香気に塗りつぶされつつあった。


 ざわめきがおさまり、室内を濃厚な珈琲の香りが満たす。

 だが、絵本作家の青年が口を開く気配はなく、また、対面に座った男の顔を見ることもなかった。


 カルペ・ディエムの主が流浪の男の前に出来上がった珈琲を置いた。カップがテーブルを打つ小さな音が、静まった店内に響く。と同時に、青年は席を立った。


 様子を見守っていた者から鋭く息を呑む音が漏れたが、青年はそれをまるで気に留めなかった。テーブルの上の薄い本を取り上げると、何事もなかったかのように店を出て行った。


 流浪の男はそれを黙って見ていた。カルペ・ディウムの主もまた。


 しばらくしてから男は珈琲の礼を述べたが、店主は小さく首を振った。

 男は肩をすくめると、用意されたカップに口をつけた。


 やがて店内は元通りのにぎやかさを取り戻していったが、流浪の男は青年がいたときと変わらず、空席となった場所を見つめていた。


  * * *


 翌日夜半すぎ、いつものように活気付くカルペ・ディウムに再び青年は姿を現した。一杯だけ珈琲を頼み、昨夜と同じ席につく。同じようにテーブルの上に本を乗せ、同じようにその表紙を眺めた。


 彼の訪れを待っていた流浪の男もまた、無言のまま対面の席へ移った。カルペ・ディエムが昨日のように静まることはなかったが、そのことが返って青年をその場へ引き止めたようだった。


 記憶を刺激するような深い香りが店内に漂う。

 カルペ・ディウムの主は珈琲ができあがると、そこへわずかばかりのブランデーを落とした。それが二人の距離を少しでも縮めることを願って。


 絵本作家の青年と流浪の男は店主の願いが溶け込んだ闇色の液体を口に含みながらも、相変わらず言葉を交わすことはなかった。


 だが、同じようなやり取りは以降、幾度となく続いた。

 そして、それが一月に及んだある日、青年はようやく重い口を開いた。


 流浪の男は己の耳を疑った。相手が発した言葉は思いも寄らぬものだった。


 絵本作家の青年はこう男に告げたのだった。

 貴方にこの作品を差し上げます、と。


 差し出された本と青年の顔を交互に見やり、男はすぐさま首を振った。青年が淋しそうな笑みを浮かべる。彼はテーブルの上に絵本を残したまま席を立った。


 カルペ・ディエムを満たす穏やかな灯が珈琲の上で金色の細波を立てる。その様をしばらく見つめた後、ならばそれを処分してください、と青年は続けた。それは私の罪の形そのものだから、と。


 流浪の男が言葉を詰まらせている間に青年はカルペ・ディエムを後にした。

 男は渋面のまま店の主に視線を送った。主もまた肩をすくめ、そのままテーブルの上に置き去りにされた本に視線を落とした。


 表紙は擦り切れ、最早どのようなタイトルがそこに記されていたかも判別できない。青年が幾度となくその表紙を撫でたせいであろう。艶を帯びたその本はそれ自身が鈍い光を放っているようだった。


 流浪の男は絵本を手に取ると、そっとその表紙を撫でた。青年が時折そうしていたように。


 表紙を開こうとすると、紙同士が固まりかけていることがわかった。青年は長らくこの絵本を開かなかったらしい。


 男は本が傷まぬよう、丁寧にその表紙をめくった。よれた紙の端がわずかに剥がれ落ち、細かな紙の粉がテーブルの上に散った。

 

 流浪の男は絵本の厚目の頁を一枚一枚確かめるようにめくっていった。絵本には青年が口にした罪と言う言葉からは程遠い物語が描かれていた。


 小さな男の子が幾つものおとぎ話の世界を転々とする夢物語。

 そう、それはとても贅沢な物語だった。


 一頁ごとに誰もが一度は胸踊らせたことのある物語が繰り広げられていた。ある時は空の上の鳥の国へ、ある時は海の底にある魚の国へ。少年は行く先々に待ち受ける困難を生き生きと乗り越えてゆく。


 画面に描かれた色彩豊かなイラストには紛れもない愛情が滲んでいた。この主人公が作り手の大切な誰かであることは一目で伺い知れた。


 だが、最後の頁を開いた時、流浪の男は眉をひそめた。物語の結びとなる頁は故意に切り取られ、唐突に物語が断ち切られていたのだ。


 男は絵本をいったん閉じ、表情を濁らせたままそれをカルペ・ディエムの主に手渡した。主は絵本を受け取ると、流浪の男と同じように丁寧に頁をめくった。そして同じように最後の頁まで辿りつくと、断ち切られた跡をジッと見つめた。


 店の主は失われた頁がそこにあるかのように視線を落したまま呟いた。

 青年はこの物語を終わらせたくなかったのだろう、と。


 男は主の手の中の絵本に視線をやり、同意するようにゆっくりと首を縦に振った。


 相変わらず店内は画家や画商等の賑やかな話し声が響いていたが、二人の間に流れる空気は重かった。


 やがてカルペ・ディエムの主は客に呼ばれてその場を後にした。流浪の男もまた、店の主がテーブルの上に置き残した絵本を手に取ると静かに席を立った。


 別れ際、互いに言葉を交わすことはなかったが、二人は共に同じ思いを胸に秘めていた。


 その夜から絵本作家の青年は喫茶店から姿を消した。

 流浪の男もカルペ・ディエムの主も、それを承知の上でそれぞれ互いの思いのままに行動を起こした。


 男ははじめ、その行いが何を意味するか深慮しなかった。ただ、それが青年にとって僅かでも慰めとなればと考えていた。しかし、青年のために諸国を遍路するうちに、身の内に巣くっていた喪失感が薄れていることに気付いた。気付いて、男は誰にも解らぬ奇怪な笑みを浮かべた。まるで泣き顔のような笑みだった。


 カルペ・ディエムの主も時同じくして行動を起こした。彼もまた、行動することで己の夢の残り火が胸中にくすぶるのを感じた。だが、既に彼の側には馴染みの道具はひとつとてなかった。主は小さく溜め息を吐いたが、その音は店内の賑やかな話し声にすぐさまかき消された。


 憂いを帯びた二人の奇妙な行動は一月も経つと絵画の街で知らぬ者がないほどとなった。二月目には川を隔てた物書きの街でさえ人々の噂の的となった。その噂の広がりとともに二人の思惑は現実というキャンバスに描かれ、少しずつ形になっていった。


  * * *


 丁度その日は彼等が行動を起こしてから三月目の夜だった。

 相変わらず賑やかなカルペ・ディエムに一通の手紙が届けられたのは。


 差出人の名のない封筒。

 宛名にはカルペ・ディエムとだけ記されている。


 カルペ・ディエムの主は様々な配達物に混じっていたこの封筒を見るや否や絵本作家の青年の姿を思い浮かべた。その筆跡は絵本のイラストに添えられていたサインと同じものだったのだ。


 流浪の男が今日の成果を報告にきたのを見計らい、店主は手紙の封を切った。そこにしたためられていた短い文章に目を走らせると、店に到着したばかりの男にそれを渡した。流浪の男は薄い便せんの内容に目を通すと何も言わずに再び店を出た。


 深い夜の闇を切り裂くようにして黙々と歩き始める男。カルペ・ディエムの主は思わず店先まで彼の後を追ったが、馴染みの客に呼び止められ足を止めた。見ると相手は不審そうに自分を見ている。


 店主は我に返り、手紙のことは流浪の男に任せることにした。仕事に戻る際、彼は一度だけ路地を振り返った。しかし、男の姿は既に闇に溶け込んだ後だった。


 流浪の男は手紙の内容を繰り返し胸中で反芻しながら真直ぐに続く道を見つめた。


 十分に丸くなった月の光を邪魔する街の灯りは遥か後方に退いている。そこここに降りしきる白々とした月明かり。草の香を伴った夜気が頬を撫でてゆく。草のざわめきに混じって夏虫の鳴き声が響き渡る。


 ふと、時の流れを感じて男は静かに笑った。絵本作家の青年と出会ったのは花の蕾みがほころびかけた頃だった。たった四ヶ月前のこと。だが、その四ヶ月が過ぎるのがいかに早かったことか。


 男は手中の便せんを握りしめた。青年の居場所を記したそれはとても薄い墨で綴られていた。痕跡をできるだけ残さぬよう、配慮したかのように。


 流浪の男は己の考えを否定するように首を振った。そして、青年の指定した場所に向かう歩みを早めた。三日程度の道のりではあったが、男は幾ばくかの不安を抱いていた。


 その場所の名は『最後の丘』と言った。


  * * *


 宙に枝を広げた楡の木が、夜風にもまれて波が打ち寄せるような音をたてている。その木の根元に据えられたベンチには人影が一つ。青年は巨大な月の光に飲み込まれそうになりながら、ただ前を見据えていた。


 流浪の男はひとまず胸を撫で下ろした。そして気持ちを新たにしてベンチに近づいた。


 青年は男が草を踏みしめる音が聞こえる距離に来ても、変わらず月を見つめ続けていた。口を閉ざしたまま。


 流浪の男は青年の背後までくると、彼が膝の上に何かを乗せているのを目にした。月明かりに照らされたそれはよく見なくとも、絵本の切り取られた頁であることがわかった。


 男は胸が引き連れるような痛みを覚えながら青年の隣へ腰掛けた。青年は月を見つめたままだったが、頁を握る両手だけは痙攣するかのように僅かに動いた。


 しばらく二人は並んで月をみつめていた。風の音と草木のざわめきだけが支配する中、先に口を開いたのは青年だった。


 息子に会いました、と彼は消え入るような声で呟いた。応えて頷く男に青年は続けた。こんな厚意を受ける資格は自分にはない、と。


 しかし男は前を見つめたまま、私たちがしたことは自己満足にすぎないと自嘲気味に笑った。


 流浪の男とカルペ・ディエムの主は店に集まる画家や知人の物書きにこう依頼したのだった。作品の一部に絵本の少年を登場させてほしい、と。


 そうすることで余分なことをするなと青年は怒るかもしれない。かえって悲しみを深くするかもしれない。だが、静かに消えていこうとしている絵本作家としての命の灯火を二人は放っておくことができなかった。自分と同じ人間を増やしたくなかった。ただ、それだけのこと。


 青年は流浪の男の言葉にそうですか、と応えた。そして何か思い悩むように固く目を閉じた。


 風の音が途絶える。虫すらその意を察して鳴き止んだようだった。


 絵本作家の青年は再び目を見開くと、私がこの絵本に私財を全て投じたせいで二人は命を落としたんです、と呟いて口元をゆがめた。


 金などどうでもいいと思って生きてきた。それなのに僅かな治療費さえ捻出できなかったせいで最愛の者を失った。本当にどうでもよかったのは己の作品ではないのか。


 青年の吐露は明るすぎる月の光の中へ吸い込まれていった。


 こういった告白を流浪の男は幾度となく聞いてきた。このままでは青年は筆を折るだろう。そしてその存在は作品とともに忘れ去られてゆくのだ。それだけは避けたかった。


 青年が今後、己の傲慢さと創造の歓びとの間で葛藤することを承知の上で、男はそれは違うと青年を諭した。もしもあの作品が本当にどうでもよいものであったのなら、君が他の人の作品の中に自分の息子の姿を見いだすことはなかったはずだ、と。


 青年は苦悩に顔を歪めながら膝の上に視線を落とした。そこに描かれていたのはたくさんの思い出話とともに帰路についた少年の姿。いつまで経っても変わらぬ笑顔で向かえてくれる息子の姿だった。


 こらえきれず肩を震わせながら、青年は許されるでしょうかと呟いた。

 男は哀しげに微笑んだ。肯定はしなかった。


  * * *


 カルペ・ディエムの主は一部始終を流浪の男から聞き終えると、男が返した薄い便せんにもう一度目を走らせ、かの場所にもう一つ通り名があったことを思い出した。


 別名『始まりの丘』

 絶望の淵に立たされた者が向かう場所。そして始まりに戻る場所。

 一つの終りは次の始まりにつながっている。


 カルペ・ディエムの主は珈琲を口に運ぶ流浪の男をそっと眺めた。

 前に進むべき時が来たのはどうやら青年だけではなさそうだ、と彼は胸中呟いた。


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