喫茶店 [Carpe diem (カルペ・ディエム)]
【登場人物】
喫茶店の主:筆を折り、街に喫茶店を開業した男。
闇色の液体を湛えたカップの縁を柔らかな灯りが滑る。
今宵もくたびれた旅人達や、商いを終えた画商たちが集まり、今日の成果を語り合っている。傍らでは絵の具で汚れた服を着た画家たちが、持ち寄った作品を互いに批評しあっていた。
その姿を見つめながら、男は口元に笑みを浮かべた。筆を折ってから幾年月が経ったことか。明日の夢を語らう彼らの姿にかつての自分が重なる。
あんなふうにがむしゃらに生きていたことが自分にもあった。
だが、毎日くたくたになるまで働き抜き、筆を取ることが段々億劫になっていった。絵を描くことに対する情熱が消えていたことに愕然とした日のことは今でも覚えている。
洗ったカップを棚の中に戻そうとした時、硝子に映った自分の顔を目にして男は自嘲気味に笑った。
失ったものは本当に大きかった。自分を認めない世の中が憎かった。だが、本当は認めさせるだけの実力がない自分こそが一番憎かったのだ。
物思いにふけっていたとき、男は常連の若い画家に呼ばれた。男はカップを棚に片付けると、画家の言葉を熱心に聞いた。
顔料の知識から、技巧、構図について。彼等の口から飛び出る言葉はかつて男を苦しめたものだった。
しかし、素晴らしい作品を生み出すために相談を持ちかける画家たちの熱意は余りにも純粋で、失った夢の中に男を連れ戻すのだった。
男は以降も筆を取ることはなかった。だが、彼の知識を得た若い画家たちは、互いに影響しあいながら多くの作品を生み出していった。
それこそが男が叶えられなかった夢を叶える唯一の方法だった。
Caffeeに足を運んでくださった方へ