三、貴族の娘
八丸に別れを告げた後、すぐに鈴花は朱音に会うことができた。
朱音は鈴花の姿を見つけるやいなや、無事を確認すると大きくため息をつき肩を落とす。
朱音の右目の下にある泣きほくろが、その悲しそうな瞳をいっそう色っぽく感じさせる。
「鈴花様、好奇心が旺盛なのは良いことですが、毎度突然いなくなられては困ります。
何かあったのではと思うと、私の気持ちが保ちません」
「あら朱音、まっすぐな前髪が乱れているわよ。大冒険でもしてらしたの?」
くすくすっと鈴花は笑い、朱音の髪を撫でる。
「お、お止めください私なんかに!」
「あら照れなくてよろしくてよ」
「まったく、鈴花様には敵いません……」
慎重に獣道を下っていくと、すぐに普通の山道に戻ることができた。
「あちらに牛車を待たせております。早くお屋敷に戻りましょう」
朱音は鈴花の手を引きながら急かす。
「あら、そんなに急がなくても」
「何をおっしゃいます、お忘れですか?
今夜は鈴花様のお父上様、光晴様がお見えになるのですよ」
「そう、でしたわね」
牛車に乗り込み町へと向かう。
道中鈴花の頭には先ほどの少年のことばかりが浮かんでいた。
ぼーっとしていたのか、朱音が心配そうに鈴花の顔を覗き込む。
「どうかなされましたか?」
「―……いえ、なにも」
「先ほどから上の空なので」
話には聞いていたが初めてみた獣族だったからだろうか、ずっと胸のあたりがそわそわする。
「光晴様にお会いするのが、不安なのですか?」
「えっ…いえ、まぁ確かに突然で驚きましたわ」
思考を現実に戻す。鈴花は貴族の生まれで、一人娘として大切に育てられてきた。
父親は地位のある権力者のひとりで、鈴花や母親とは普段違うところで暮らしている。
そんな父親が先日話がしたいと文を送ってきた。
その約束が今晩なのだった。
「もうすぐ着きますよ。お部屋に戻られましたら、すぐにお着替えの準備に伺いますね」
「分かったわ」
ガラガラと牛車の車輪の音が町の通りを走り去った。
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「おお、おお、鈴花!少し見ない間にまた一段と美しくなったな」
男の陽気な笑い声が屋敷中に響き渡った。
「父上もお元気そうでなによりです」
鈴花は軽く会釈を返す。
鮮やかな朱色の着物は、色白の鈴花を一段と美しく見せた。
「お帰りなさいませ、光晴様。ゆっくりしていけますの?」
隣で母の菊が尋ねる。
「おお、お菊や、お前も相変わらずいつ見ても美しい。
むこうの仕事がこう忙しくなければ、ずっとこの美女に囲まれて生活したいものだ……」
「あら、もったいなきお言葉ですわ」
ほほほっと菊は口に手をあてて笑った。
光晴の為に馳走が用意された。
使用人が数人せわしなく働く中、しばらく3人は食事と変哲もない会話を楽しんだ。
食事が終わると、光晴が話を切り出す。
「ところで鈴花……本題に入りたいのだが」
光晴が近くの使用人にちらっと目配せすると、状況を察したのか皆部屋を退室し、部屋には3人だけとなった。
「何でございましょう」
「なに、固くなること無い。ちょっとまたあるお方から縁談をうけてだな」
「縁談、ですか」
「あら良かったじゃないの鈴花」
隣で菊が微笑む。
「なかなかの力をお持ちの方だよ。
金も、地位も、あぁしかも容姿もなかなか美しい好青年ときた!
今回こそは、お前も気に入ってくれると思うんだがね。
……と言うよりも、気に入ってもらえないと困るのだよ。
ここだけの話、一番重要なのはそのお方の地位だ。
豪族の人間だぞ?しかもここら一帯を取り締まっている家系だ。
貴族である我が家とつながりができれば、さらに大きなことができる」
光晴は拳を握り語る。
「だが、もちろんわしも人の親。可愛い娘に無理はさせたくない。
鈴花、お前が首を縦に振らなければ無理に結婚させるつもりはあらんよ」
光晴は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます、父上。……少し、考える時間を頂けますでしょうか」
「ああ、ただ実はもう3日後には面会を申し込まれていてな」
「面会?」
鈴花は意外な展開に思わず語尾があがってしまった。
「3日後ですか!」
菊も驚きの声をあげる。
「いつになく早いお話ですのね」
「いきなりはさすがに鈴花を驚かせると思ったのでな。こうして時間を見つけて話に来たのだ」
光晴は腕を組んでふうっとため息をつく。
「そういう訳で、話は以上だ。よろしく頼むよ鈴花。
さて、そろそろ休ませてもらうとするか。用意を頼んでおくれ」
そういうと光晴は立ち上がった。
菊がパンパンっと手をたたく。すると素早く使用人が現れた。
「すぐに寝床の用意をお願い。 鈴花、あなたももう自分の間に戻って休みなさいな」
「はい、母上。そうさせていただきますわ。父上も、よい夜を。……失礼します」
鈴花は頭を下げ部屋を出た。
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涼しい風の吹く夜だった。
月が中庭の池に映りゆらゆらと揺れている。
鈴花は縁側の簾をあげ、夜風にあたりながらそんな池を眺めていた。
「鈴花様、お呼びでしょうか」
襖の奥から朱音の声がした。
「お入りなさい」
朱音はすっと襖をあけ部屋に入ると、鈴花の少し後ろで正座をした。
「どうなさいましたか」
朱音が心配そうに尋ねると、鈴花は優しく微笑んだ。
「ご覧なさい朱音。月がとても美しいですよ」
「誠に、趣がございます」
朱音は視線を鈴花から月に移す。
「先ほど父上からお話を聞きました。
変わらず元気そうでしたわ。お仕事は大変みたいですけど」
「光晴様、お元気ならなによりでございます」
朱音はにっこり微笑んだ。
「……また、縁談でしたわ」
突然鈴花の表情が悲しそうに変わった。
「それは良いお話ではありませんか」
朱音は明るく鈴花に返す。しかし鈴花は悲しそうな瞳で月を眺めるだけだった。
「父上のお話だと今回のお相手の方は、今までの殿方以上にすごいお方でしたわ。
今まで私のわがままで、惹かれない方との結婚は取りやめていただいてきたけれど………
今回は、少し我慢をした方が良いのかもしれないの」
鈴花は困ったような笑顔を朱音にむけた。
朱音も少し切ない表情になる。
「きっとよいお方ですわ。光晴様がお選びになられたのですから」
「―……ねえ、朱音」
「はい」
「あなたは恋をしたことがありますか?」
鈴花は朱音を真っ直ぐ見つめ問いかけた。
驚きのあまり朱音はすぐに答えられなかった。
「えっ……恋、でございますか?」
「はい」
「そんな、私めが滅相もございません!」
朱音は顔を赤らめ首を横に振る。
「私も、ありませんの」
鈴花がぽつりと呟く。
「どのような気持ちなのでしょうか。
私は今回の殿方にお会いすれば、それが分かるのでしょうか」
「鈴花様―……」
ふわっと心地の良い風が、2人の髪を揺らす。
「不安など、初めてのことにはつきものでございますよもう夜も深いです。
今夜はもうお休みになられた方がよろしいかと。お体にさわります」
「ありがとう、朱音。おやすみなさい……」
庭の虫たちの鳴き声と山の獣の遠吠えが、夜風にのって空に響いていた。