二四、純愛
鈴花の言葉に、菊の瞳はぱちぱちっと数回瞬いた。
しかし穏やかな表情は崩れず、驚きを露わにすることもなく落ち着いた口調で口を開いた。
「頌澄様から、聞いたのですね」
「――……はい」
「ならば誤魔化したところで無駄なのでしょう。
いかにも、私は貴族の夫婦に育てて頂いた賤民の女―……」
「なぜ今まで黙っていたのですか!」
菊の言葉が言い終わらぬうちに、鈴花は机をバンと両手の拳で叩き声を荒げた。
しかし取り乱す鈴花とは裏腹に、菊は落ち着いた表情を崩さない。
「その事実を知ろうと知らずとも、何も変わらないからです。
あなたは紛れもなく私と光晴様の子。血は濁れど貴族の娘に変わりはありません」
菊の真剣な瞳に気後れしてしまい、鈴花は返す言葉に詰まってしまった。
吸い込まれてしまいそうなほど深く黒い瞳。
しかしその奥には頑固として乱れぬ強い想いが潜んでいるように見える。
鈴花がどのような言葉で自分のこの悶々とした気持ちを伝えればいいのか悩んでいると、
突然菊は大きなため息をつき肩を落とした。
その口元は僅かに緩み、視線は膝上に重ねられた手元に向けられる。
目尻による小皺は大人の哀愁を帯びている。
「私の育ての両親は、私を本当の娘のように育てて下さいましたわ」
とても穏やかな口調で発せられた菊のその言葉に、鈴花は黙って耳を傾けた。
菊はそんな鈴花を確認すると、さらに言葉を続けた。
「私を捨てた本当の両親と数人の兄弟の記憶以上に、私にとっては育てて下さった両親の思い出が大きいのです。
己の血筋が軽蔑される事情もよく理解しているし、己の立場を本当の貴族様と並べるつもりはありません。
でもね、鈴花。たとえあなたに私の賤民の血が流れていようとも、
私は確かに貴族の家で受けた教育をしっかりとあなたにしてきたつもりです。
貴族の女として生きる上で、恥じることが無いように育ててきたのです。
現にあなたは今、立派な貴族の女として胸を張れるように成長したではありませんか。
あなたは自信を持っていいのですよ。混血がなんだというのです」
菊の言葉を聞いていた鈴花の目には、いつのまにか涙が溜まっていた。
唇を噛みしめ、流れぬようにと堪えてみるが菊の優しい声を聞けば聞くほど歯止めが利かない。
(私は自分を恥じる必要は無い――……?)
鈴花の心の中の自問を見透かすかのように、菊は言葉を続ける。
「それに、あなたはこれから頌澄様の妻となる身ですよ。
頌澄様は今この地で最も強い権力をお持ちの豪族の若君……
その妻であるあなたが、己の立場を気にして怖気づいているようでは駄目じゃありませんか」
(そうだったわ―……)
菊の言葉で、再び鈴花は現実に引き戻された。
「私は、頌澄様と結婚する。頌澄様の妻に――……」
ぽつりと呟かれた鈴花の言葉に、菊は穏やかな笑顔で頷いた。
そんな菊を見つめ、鈴花は不安の表情を浮かべる。
「母上、まだお尋ねしたいことがございます」
「どうぞ、何でも言ってごらんなさい」
菊の優しい言葉に、鈴花は一度間をおいて口を開いた。
「母上は、恋をしたことがありますか?」
鈴花の問いかけに、菊は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、
数回瞬きをすると、口を手で隠しクスクスっと笑い始めた。
何が可笑しいのか判らない鈴花は、不思議そうに首を傾げて菊を見る。
「ふふ、ごめんなさい。あなたが突然そのようなことを聞くものだから驚いて―……」
菊は笑いを押えながら顔を上げた。
「勿論、ありますよ」
「本当ですか!?」
ゆっくりと発せられた菊の答えに、鈴花は食い入る様に上半身を前に乗り出す。
「ふふ、そんなに驚くことではありませんよ。どうしてまた、そのようなことを?」
「あ、いえ……私は恋を知らないので、つい――……」
過剰に反応してしまった自分を少し恥ずかしく思い、鈴花は頬を染めながら身を引いた。
そして視線を机の上に向けたまま、口ごもりながらも言葉を続ける。
「私はずっと、結婚とは恋をした相手とするものだと考えていました……。
でも私は恋を知りません。どのような気持ちになるのかも分かりません。
けど……私が今、頌澄様に抱くこの感情は、決して恋とは違うものの様な気がするのです。
あのお方の傍にいると、いつも全身が強張るのです。恐ろしくも感じるのです。
私は本当にあのお方の傍にいれるのか、自信がありません。
だからこそ、母上が恋を経験したのなら、どんなものか教えていただきたいのです」
鈴花の真剣な眼差しは、真っ直ぐ菊を見つめていた。
菊はその眼差しを正面から見据えると、少し間を置きゆっくりと口を開いた。
「そうですね、あなたに教えとして話をできるほどの経験や知識ではないかもしれませんが、
私の初恋―……光晴様との馴れ初めで良ければお話ししましょうか」
「是非お聞きしたいですわ!」
菊が柔らかい笑顔を浮かべれば鈴花の硬い表情も崩れ、ぱっと笑顔に変わった。
そんな鈴花の笑顔を確認すると、菊は視線を天井に向け口を開いた。
「―……初めてお会いしたのは確か……そう、春祭りの時でしたね。
桜が咲き誇っていて、町中が美しい桃色に染まっておりました」
ひとつひとつを懐かしむかのように、ゆっくりとした穏やかな口調で言葉を紡いでいく。
「賤民の生まれである私は、育ての両親にできるだけ公の場に出ないように言われておりました。
でも、その年の春祭りは珍しく母上が外出に誘ってくださったので、心弾ませて町へ出たのです。
綺麗な着物を着せて頂き、目をキラキラさせて歩きましたわ。
目に映る光景がどれも華やかで、大勢の人がいて……そんな時でした」
食い入る様に聞き入っていた鈴花は、菊が一呼吸置くのと同時にごくりと喉を鳴らした。
「慣れない人混みに紛れてしまい、母とはぐれてしまったのです。
不安でおろおろとしていたら、人の足に躓いて転んでしまって……
慣れない底の高い下駄を履いていたものですから、運悪く足を挫いてしまったのです。
地面に倒れる私を、道行く人は見向きもせずに避けて歩いていく中、
一人だけ手を差し伸べてくれた殿方がいたのです。その方こそ、光晴様でした」
「――……まぁ……」
鈴花は口を両手で覆い、目を見開いた。
菊は視線を一度鈴花に向けると微笑み、再び話し始めた。
「大丈夫か?と、優しくお声をかけて下さいましたわ。
とても輝いて見えて……茫然と、そのお姿に見とれてしまったのです。
その所為で、決して外で名を述べてはいけないと言われていたのに、
つい光晴様に問われた際、名乗ってしまったのです。
気づいた時にはもう遅く、口を手で押え誤魔化そうにも誤魔化しきれず……
光晴様も名乗り返してくださり、これから一緒に祭りを回らないかとお誘い下さいましたわ。
しかし、私が口を開くより先に背後から付き人の声が聞こえて……」
鈴花は言葉を止めると、肩を落して頬を緩めた。
「結局、その時はそこで終わりでしたのよ。
母上の元へ戻ることもできて、無事に一日を終えましたわ。
その翌日からです。光晴様が毎日のように私の元へ訪ねてくるようになりました。
まるで、今の頌澄様のようでしたわね」
瞳を細め笑みを浮かべる菊へ、鈴花はぎこちない笑顔を返した。
当時の光晴の積極的なアプローチを幸せそうに話す菊の気持ちと、
頌澄に抱く自分の気持ちが同じとは、到底思えなかったのだ。
しかしそんな鈴花の気持ちには気づかないようで、菊は再び記憶を辿り始める。
「今まで家の者以外と交流することの無かった私にとって、
光晴様の存在は新鮮で、とても眩しく感じておりました。
私を汚れた血の女と知ってもなお、変わらず明るく接してくださり、
楽しいお話をして私を笑わせて下さったりと……光晴様と居るときは本当に幸せでしたわ。
ああ、勿論それは今も変わりませんけどね?
ただ今でも判らないのは、どうして光晴様のようなお方が私なんかを好いてくれたのかということですわね」
くすくすと笑いながら話をする菊を眺めながら、鈴花はその問いの答えは単純なことだろうと考えた。
「それは、母上が美しい上に優しくて謙虚なところだと思いますわ」
鈴花の突然の言葉に菊は少し頬を赤く染めれば、
ほほほっと笑いその言葉を否定するかのように首を横に振った。
「とにかく当時は、本当に光晴様のことばかりを考えていましたわ。
私が純粋に恋に落ちたのは、光晴様が最初で最後のお方ですわね」
「恋をすると、そのお方ばかりを考えるのですか?」
小首を傾げて問いかける鈴花に、菊はこくりと頷いた。
「そうですわね。そのお方のことばかりを考えて……
早くお会いしたくて、お話ししたくて仕方がなくなってしまいますね」
菊の言葉を聞いた瞬間、鈴花の脳裏に浮かんだのは頌澄の顔ではなく、
獣族の少年、八丸の笑顔だった。
「早くお会いしたくて、お話ししたくなるお方……」
ゆっくりと、声に出して繰り返してみる。
鈴花の脳裏に浮かぶのは、やはり八丸の顔ばかりだった。
二人並んで大きな柳の木の元で語り合った思い出が鮮明に思い起こされる。
「――……母上、有難うございました!」
鈴花はぱっと顔を上げ、菊へ明るい笑顔を向けた。
突然の大きな声に、菊は驚き一度目をぱちぱちと瞬かせる。
「私、恋がなんなのか少し判ったような気が致します」
(しかし、もう遅い――……)
不意に目尻にじわじわと込み上げてくる熱いものを流すまいと、
鈴花は目を細め精一杯の笑顔を作った。
きらりと光り頬を流れ落ちた滴は、鈴花が頭を下げると同時に畳へ落下する。
(気付くのが、遅かった――……)
全身に湧き起こる感情を堪えようと力めば、鈴花の唇はかすかに震えだした。
「鈴花?どうしたのです?」
「何でもありませんわ。――……今夜はこれで、失礼いたします」
心配そうに声をかける菊にこれ以上弱みを見せまいと、
鈴花は顔を上げると同時に素早く着物の袖で涙を拭き取った。
菊は充血し赤くなった鈴花の目を見て心情を察したのか、無言で一つ頷き目を細める。
「鈴花、無理をしてはいけませんよ。自分に正直に生きるのです」
「――……母上」
菊はパンパンっと二度手を打ち鳴らした。
するとすぐに音を聞きつけて、菊の付き人である梓が襖を開け顔を出した。
「お呼びでしょうか」
「梓、鈴花の自室まで付き添いなさい」
「かしこまりました。では鈴花様、こちらへ。足元にお気を付け下さい」
鈴花は再び菊へ向かって深く頭を下げると部屋を後にし、
梓と並ぶようにして、長い廊下を歩き始めた。
「――……梓も、術師なのですよね」
込み上げてくる重い感情を紛らわそうと、自室へ向かう途中の廊下で鈴花は口を開いた。
突然の問いかけに、梓は驚いた表情を浮べる。
「はい。鈴花様は術師に興味をお持ちなのですか?」
「ええ、まぁ……少しだけ」
鈴花は自身が修行をしていることを悟られない様に、濁した返事を返した。
「驚きました。今まで多くの貴族様にお仕えしてきましたが、
私共のような存在に興味を示した方にはお会いしたことがありませんでしたので」
淡々とした口調で言葉を紡ぎながらも、梓はちらちらと周囲を警戒しながら歩いている。
「梓は、何属性をお持ちなのです?」
「私は水属性でございます」
「まあ!私も……」
言葉を言い終える前に、鈴花はハッとして口を閉じた。
自分と同属性であることを口走ってしまいそうになったのだ。
突然言葉を止めた鈴花に違和感を抱いた梓は、不思議そうに鈴花へ顔を向ける。
「どうか、いたしましたか?」
「いえ、わ、私の付き人の朱音も水属性をもっていたのを思い出しまして」
鈴花は口元を着物の袖で隠して、ほほほっと菊の笑い方を真似てみせた。
梓はそんな鈴花の様子に首を傾げる。
「朱音は、土属性じゃございませんでしたか?」
予想外の返答に、鈴花はおろおろと返す言葉を考えた。
笑って誤魔化せば、梓は話題を流してくれると思ったのだ。
「えっと、朱音は火も土も、水も使っておりましたわ」
「それはありえません」
「え?」
突然梓は足を止めると、真顔で鈴花に向き直った。
夜風が廊下を吹き抜け、ふわりと二人の髪を揺らす。
「彼女が優秀な術師であるのは認めます。長年、共にこのお屋敷で使えている身ですので。
しかし人間が体に宿す属性は一つだけであり、例外はございません。
独りの術師が複数の属性を操るなどあり得ないのです」
「しかし、まれに複数扱える人もいるのでは……」
「いません。これは術師の常識でございます」
梓の真面目な表情と口調は、とても嘘をついているようには思えない。
しかし鈴花は現に自分の目にした朱音の術を思い出した。
外出先で男に囲まれた時のことと、水の術を指導してくれる姿が鮮明に思い出せるのだ。
「けど、確かに……朱音は私を守るとき、火と土を……」
「きっと、鈴花様の見間違いでしょう。違う属性でも、似たような術式のものは存在します。
もし全ての属性を操れる者がいるとすれば――……」
梓は言葉を続けたまま再び振り向き、廊下を歩き始めた。
鈴花も慌てて後に続き、手に嫌な汗を握りながら梓の揺れる後ろ髪を見つめた。
「もしいるとすれば、それは自然界の神でしょうね」
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「――……それでは鈴花様、よい夜を」
「ありがとうございました。おやすみなさい」
梓は鈴花を確かに部屋へ送り届けると、一礼し歩いてきた廊下を引き返した。
鈴花はふうっと息を吐き、自室の襖を開けた。
「あ、お帰りなさいませ鈴花様」
襖を開ければ、部屋には朱音が寝床の用意を終え待っていた。
「お疲れ様でした、すぐにお着替えを」
「ありがとう、朱音」
素早く歩み寄り、重たい帯を解き始める朱音に、鈴花は口元を緩ませる。
その瞬間、先程の梓との会話が鈴花の脳裏を横切った。
(朱音は、嘘をついているの?)
しかし、せっせと自分に尽くす朱音の姿からは、とてもそんなことを想像できない。
幼いころから自分の面倒を一生懸命見てくれる朱音は、
鈴花にとっては姉のような、親友のような存在でもあった。
誰よりも信頼を寄せている人物なのだ。
(そんなこと、考えたくもない――……)
着替えを終え、桶の水で化粧を落とすと、髪飾りを取るために鏡の前へ移動をした。
朱音は鈴花の背後から髪を弄りながら、鏡に映る暗い表情の鈴花に視線を向ける。
「鈴花様、どうなされましたか?」
「え?ああ――……大丈夫よ。今日は一度にいろんなことがあったものだから」
鈴花が顔を上げると、不意に視界に一輪挿しにして飾られているナデシコの花が目に入った。
八丸から貰った花だ。
今朝とは違い、だらりと力なく首が下がっている。
葉も茎も、しおしおと萎んでおり、凛とした姿とは打って変わってみすぼらしい姿となっていた。
そんな垂れ下がった花弁を、鈴花はそっと指で撫でた。
(純愛――…………)
花を見つめれば見つめるほど、頭に浮かぶのは八丸の顔だった。
(所詮私は、純愛などできないのだわ……)
先程堪えていた感情が、再び胸に湧き起こる。
「――……朱音、もう寝ますわ」
「え?」
「早く終わらせて」
「あ、はい。分かりました」
鈴花の言葉に、朱音は慌てて櫛で髪をすいていた手を止めた。
鈴花は顔を俯いたまま移動すると、そそくさと布団に入り込み、頭からそれをかぶった。
「鈴花様?」
「おやすみなさい、朱音」
「――……おやすみなさいませ」
朱音は明らかに心配した声色で言葉を発したが、
鈴花のいつもとは違う様子に諦め、そっと部屋を後にした。
パタン、と襖の閉まった音が部屋の中に響く。
鈴花は襖の閉まる音を布団の中で確認すると、突然瞳から涙が溢れ出した。
一人になったことで、それまでの緊張が一気に解けたのだ。
「あっ……うう、うっ……」
嗚咽する声が布団の中から漏れ出す。
鈴花は一晩中泣き続けた。
大きな声を挙げることなく、むせび泣き続けた。
そしてその思いを労わる様に、鏡の傍に飾られたナデシコの花弁が、
ひらりひらりと床へ落ちていった。
後半走り書きになってしまった部分が多々あるので雑になってます、自覚しておりますごめんなさい。
とにかく時間が空きすぎてしまったので早く投稿したかった一心です。
後々誤字や訂正を加えていきたいと思いますので、ご意見があれば是非参考にさせて頂きたいです。
春までに完結宣言から数か月――……春っていつかな?頑張ります!