二一、失ったもの
予定より一日遅れましたが、なんとか更新!
葵は走った。必死に里を目指し、狼の姿で山道を駆け上った。
焦げ茶色の全身の毛を風になびかせ、ただ必死に走っていた。
葵の目には、はっきりと二人の人物の並ぶ姿が刻まれていた。
大好きな幼馴染の八丸が、楽しそうに一人の少女と笑い合っていたのだ。
隣りで微笑む美しい少女は、人間だった。
綺麗な衣を身にまとい、可愛らしい髪飾りをつけていた少女は確かに人間だったのだ。
(嘘よ……信じたくない)
胸の鼓動がうるさいくらいに脈を打つ。
これほどにも胸が苦しいのは、走っているからだけではないのだろう。
すると、里の入り口が見える前に、一人の人影が葵の目の前に現れた。
葵に気付き、驚いた表情をしているその少年は、響炎だった。
響炎を確認するや否や、葵の中で何かの糸がぷつりと切れた。
「葵!?」
自分の名を呼ぶ声に、葵は迷わず響炎目がけて飛びついた。
飛び上がった空中で、ふわりと風の渦が葵の体を包み込むと狼の体は一瞬にして少女の姿へと変わる。
そして人間の姿になった葵は、そのまま響炎の胸に飛び込んだ。
「響炎!うあ、あたし……ヒック…うあああん!」
響炎に抱きついた途端、葵の目からは堪えていた涙が一気に溢れ出した。
突然自分に泣きつく葵に混乱し、響炎は慌てふためく。
「お、おい……どうした?何があったんだ?」
響炎は困惑した表情で、泣きじゃくる葵の顔を覗き込んだ。
そして、普段気が強い葵の弱々しい姿に、響炎は涙の理由がただ事じゃないと察した。
葵は肩を震わせ、ぐずぐずと鼻を啜り泣きながら、震える声を絞り出した。
「はっ…八丸が……っ…」
言葉の合間に、ひっくひっくと何度も息を詰まらせる。
「八丸?八丸がどうした!?」
響炎の眉間には深いしわが寄り、葵の肩を掴む手に力が入る。
「響炎が…前に、八丸に好きな人ができたって……
その子、人間だった!八丸の好きな人……人間だった!!
私見ちゃったの!八丸が、八丸が人間の女の子と楽しそうに笑ってたの!」
「……っ…そ、そんな……」
葵の言葉に、響炎の腕はだらりと力なく垂れた。一瞬にして顔は青ざめる。
「信じられっかよ……だって、八丸に限ってそんなこと、あるわけ……」
そんな響炎の胸にしがみ付き、葵は止まることのない涙を流し続けた。
響炎は震える手で、そっと葵を抱きしめる。
「でもあいつ……好きな人は、椛の里の子だって…―」
直後、響炎はハっと目を見開いた。
「……嘘?俺は、騙されてたのか?」
わなわなと体が震えだす。そして怒りに満ちた瞳がギラリと光った。
「…るさねぇ、許さねぇ!よりによって人間なんかと!」
葵を泣かせた。それだけでも響炎には十分怒らずにはいられないというのに、
まして親友に嘘をついてまで、大嫌いな人間と親しくしていたのだ。
響炎はぐっと唇を噛みしめると、抱きしめていた葵をそっと体から離した。
「きょう……えん?」
「八丸と、話しをしてくる」
「わ、私も行く!」
「葵は、先に里へ帰っていて。まずは二人で話しをしたい」
最後に優しく葵の頭を撫でると、響炎は走り出した。
「響炎!」
葵の叫び声が山に響く。響炎は葵の声を背に山を駆け下りた。
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鈴花から逃げるように走り出した八丸は、しばらく勢いのまま山の中を走り回っていた。
しかし次第に興奮は収まってきたので、八丸は走るのをやめた。
荒い息を整えながら、ゆっくりと土を踏みしめる。
(良かったんだ。これで、良かったんだ)
この言葉を繰り返す度に、八丸の胸はぎゅっと強く締め付けられる。
そして同時に、鈴花の無邪気な笑顔が頭に浮かぶのだった。
「くそ!くそっ!!」
八丸は近くにあった木の幹を思い切り拳で叩きつけた。
自分で決めたことなのに、悲しくて寂しくてしょうがないのだ。
「なんで、なんで俺は獣族なんだ!なんで鈴花は……人間なんだ!」
叩きつける拳は次第に擦り切れ血が流れ出る。
それでも八丸はそれを止めることができなかった。
痛みを感じることもなく、ただ力の限り何度も木を叩き続けた。
「なんで、人間なんか好きになったんだよ……!」
しかしやがて力尽きると、八丸はへたりとその場に座り込んだ。
死んだ魚のような目で、ぼーっと目の前に咲く小さな花を見つめる。
そこに咲いていたのは、偶然にもピンク色のナデシコの花だった。
(純愛……)
そのナデシコの花に、八丸が手を伸ばしたその時だった。
「八丸!」
突然自分の名を呼ばれ、八丸は声のした方へ振り向いた。
そこには肩を上下させ、荒い息遣いをしている響炎がいた。
ギラギラと怒りに満ち溢れた瞳で八丸を捉えたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「やっと見つけた……」
「響炎っ」
八丸は突然の響炎の登場に驚いたが、すぐに先ほどの葵を思い出した。
(そうか、響炎にもバレたのか……)
八丸は冷めた目で響炎を見つめ返した。
普段怒りを隠す響炎が、今はあからさまに怒りを八丸へ向けている。
「……ごめん、響炎」
八丸の口からは、自然と謝罪の言葉が漏れた。
その言葉に響炎は眉をピクリと動かしたが、そのまま八丸に詰め寄ると、
襟をわし掴み、ぐっと八丸の体を引き上げた。
八丸は抵抗することなく、無言のまま響炎から目を離さなかった。
「葵を泣かせるな」
響炎は重みのある声で呟いた。
「聞いたよ。人間の女といたってな。お前、俺には狼の女って言ってたじゃん。
騙したのか?俺に嘘をついてまで、人間なんかとつるんでたのか!?」
「……ごめん、嘘をついたのは本当に悪かったと―…」
「人間だぞ!俺の家族を皆殺しにした!山を荒らした!!
お前、人間がどれだけ非道で残酷な生き物か判るだろ!?」
むき出しにされた響炎の牙は、今にも八丸の顔面を食らいつく勢いだった。
それでも八丸は表情を変えることなく、静かに口を開いた。
「もう、会わないから」
「ぁあ?」
「葵から聞いたんだろ?その通りだよ。彼女は人間だった。俺は獣族だ。
もう会わない。俺は間違えてたんだ。本当に……ごめんな、響炎」
「……八丸」
怒鳴る自分とは対照的な八丸の態度に、徐々に響炎の熱は冷めていった。
「なんだよ、やけに素直じゃん」
響炎の怒り狂った形相はすっと消え、代わりにムスっと口を尖らせる。
眉をひそめ、疑うような目で八丸をじっと睨んだ。
「全部、本当のことを話すよ。だから信じて欲しい」
八丸の瞳に、迷いは無かった。
そんな真っ直ぐな瞳に耐え兼ね、響炎はバッと掴んでいた襟を振り払った。
そのはずみでお互い少しよろける。
立ち直した八丸は乱れた襟をぐっと正すと、まだ疑わしそうな顔をしている響炎に向かい目を細めた。
「立ち話もなんだし、里までゆっくり歩こうか」
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里へ向かって歩く中で、八丸は一通り鈴花との出会いを話した。
木の実ばかり持って帰り、響炎に文句を言われたあの日のこと。
あの時話した美しい少女が鈴花だったと打ち明けた。
八丸は抱えていた思いや頻繁に会っていたことも話したが、あえて鈴花自身については話さなかった。
それらの話を俯いたまま無言で聞いていた響炎は、里に着いた時初めて顔を上げた。
そして緊張した表情の八丸に向かって、わずかに口元を緩ませた。
響炎の瞳から、怒りの色は消えていた。
「俺、八丸を信じるよ。八丸も俺を信じて話してくれたんだろ?
この話は里の皆にも黙っていてやる。だからもう、俺に隠し事なんてするな」
「響炎……」
「前も言っただろ。話してくれたことが嬉しいんだ」
「ありがとう、響炎」
お互いニイッと歯を出して笑い、握った拳と拳をこつんと合わせた。
「俺はこれから、葵のところへ行くけど八丸はどうする?」
イチョウの木の間の霧を潜り抜け里に入ると、響炎が立ち止まり振り向いた。
「俺は後にする。大丈夫、ちゃんと話すよ」
「どう話すつもり?」
「ありのままを話すさ。葵もきっと、判ってくれると信じてる」
「じゃあ、俺からは話さないでおいた方がいいな。
でも、これだけは伝えておくよ。もう八丸は、あの子に会わないってさ」
「その方が助かるよ」
八丸は眉を下げ苦笑しながら頭を掻いた。
響炎はこくりと頷き「じゃあ」と別れを告げると、葵の家を目指して去って行った。
一人になった八丸は、真っ直ぐに岩山を目指した。里が一望できるお気に入りの場所だ。
いつもの大きな岩にたどり着くと、夕焼けに染まった真っ赤な空が広がっていた。
八丸はごろんと仰向けに寝転んだ。手を広げ、感情のない瞳で空を眺める。
いつもと変わらぬ夕焼けの色が今日は特別暖かく感じ、感傷的な気分に落ちていく。
体にぽっかりと穴が開いたような、物寂しい思いがするのだった。
(鈴花を失ったからかな……)
しかしすぐに、ぎゅっと唇を噛み締めた。
(違う。鈴花は最初から手に入れてないんだから、失うこともないんだ)
再び茫然とした瞳で空を眺めていると、一羽の鳶の姿が目に入った。
悠々と翼を広げ綺麗な弧を描きながら飛んでいる。
八丸がじっと眺めていると、その鳶は次第に八丸へ向かって飛んできた。
気づいた八丸がハッと体を起こすと、その鳶は八丸のいる岩の上へ舞い降りた。
「やあ、八丸じゃないか。こんなところでどうしたんだい?」
ふわりと着地すると同時に、鳶の体は風の渦に包まれ一人の青年へと姿を変える。
すらりと長身の青年は、和服の裾をぱっと払うと長い前髪を掻き上げ八丸に向かって微笑んだ。
右上にきゅっと結び上げられた黒い長髪が風に揺れている。
「飛鳥さん……」
馴染みのある優しい声に、八丸は眉を垂らして微笑み返した。
「どうしたの?なんだか悲しそう」
飛鳥は心配そうに八丸の顔を覗き込むと、優しく髪を撫でた。
突然優しさに触れたからだろうか。
八丸の表情はみるみる歪み、先程まで無感情だった瞳からポロポロと涙が溢れ出した。
突然の八丸の変化に、飛鳥はギョッとして目を見開いた。
「お、おい、八丸?どうしたの?なんで泣くの?」
「うああ……飛鳥さぁん!お、俺……やっぱり馬鹿だったぁ」
「知ってるけど……」
「酷いですうううう!!」
泣きつく八丸を、飛鳥は訳が分からず困惑した表情のまま抱きしめると、子をあやすように背中を優しく撫でた。
ひくひくと体を震わせながら、八丸は今まで堪えていたものを全て吐き出すかのように泣くじゃくる。
「かっ…彼女に……もう、会わないと言ったんです……」
「え?」
鼻をぐずぐずすすりながら、八丸は口を開いた。突然の言葉に、飛鳥の手は動きを止める。
「人間の少女のこと?」
「全部俺の妄想だったんだ!彼女は、俺なんて眼中になかった!
彼女には……彼女には婚約者がいたんだ!!」
八丸は再び声を上げて泣き出した。
飛鳥の表情は一瞬凍りついたが、すぐに八丸の体を優しく抱きしめた。
飛鳥の中で、目の前の八丸の姿が過去の自分と重なる。
「……だから、やめておけと言ったんだ」
ぽつりと耳元で呟くと、飛鳥はそれ以上何も言わずに八丸の頭を優しく撫でた。
飛鳥の優しい腕に包まれ、八丸は声が枯れるまで泣き続けた。
気づけば空には、満天の星が輝いていた。