二十、撫子の花
貴族の屋敷が立ち並ぶその奥に、一際大きな屋敷がある。
さも自分の力量を見せつけるかのようなその豪邸は、辺り一帯を統治している豪族、頌澄の屋敷だった。
日が落ち、屋敷の誰もが眠りにつこうとしている頃、
頌澄だけは、ゆらゆらと揺れる蝋燭の明かりで照らされた小さな机に向かって書き物をしていた。
サラサラと筆の動く音だけが響く中、不意に頌澄は人の気配を感じた。
すると直後、低いと男の声が障子の奥から聞こえてきた。
「頌澄様、霧木でございます」
障子に映る影にちらりと目をやり、ふっと口を緩め頌澄は顔を上げた。
「待っておったぞ、霧木。入れ」
頌澄の返事に、霧木はゆっくりと襖を開けると部屋へ入った。
薄暗いその空間で、頌澄の微笑む笑顔だけが蝋燭の炎によって不気味に照らされている。
「遅かったじゃないか。勿論、素敵な話を聞かせてくれるのだろう?」
「……はい、頌澄様」
霧木は無表情にただ頌澄を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「山神の、獣族の里を見つけて参りました」
霧木の言葉に、頌澄の口はにたりと微笑み手間のかけられた白い歯を覗かせた。
「それでは、次の準備に取り掛かろうか」
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人間の騒動から数日後、あの日のことが嘘のように山は穏やかな空気に包まれている。
まだ日差しも強くない早朝の小川の畔に、二人の人影が並んでいた。
人の姿をした八丸と鈴花だ。今朝は五日ぶりに会う約束をしていたのだった。
久しぶりに見る鈴花の愛らしい笑顔に、八丸は落ち着かない気持ちでいた。
「なぁ。俺、鈴花に見せたいもんがあるんだ」
「まぁ、なんでしょう?」
鈴花のキラキラとした好奇心旺盛な瞳が八丸を見上げる。
「とっておきの場所!今が一番見頃だから、連れて行きたいんだ」
「移動……するのですか?」
「あぁ。でも、すぐそこだから心配ない。ほらっ」
「きゃっ!」
不安な様子を浮かべていた鈴花を、八丸は突然軽々と横向きに抱き上げた。
驚いた鈴花は慌てて八丸の首に腕を回す。
「お、重たいのでは……」
「大丈夫、軽い軽い!行くぞっ」
にかっと笑顔を浮かべると、八丸は力強く地面を踏みしめ川を飛び越え、凄まじい速さで走り出した。
びゅんびゅんと耳元で風を切る音がする。初めて体験する勢いに、鈴花は子供のように笑っていた。
鈴花の笑い声につられ、八丸も思わず笑い出す。二人の楽しそうな笑い声が、木々の間をすり抜けた。
「着いたぞ」
「……っ…まあ…!」
突然、開けた場所に出ると八丸は足を止めた。目の前に広がる光景に、鈴花は思わず息をのんだ。
丸く開けたその空間一面に、ピンク色のナデシコの花畑が広がっていたのだ。
花は朝日をたっぷりと浴びてきらきら輝き、風に揺られている光景は、まるで撫子色の湖のようだ。
「綺麗……本当に綺麗です!こんな美しい景色、初めて見ましたわ!」
抱えられたまま興奮する鈴花をゆっくりと地面に下すと、八丸は照れ臭そうに指で鼻を擦った。
鈴花はぱっちりとした瞳を一層大きく見開いて、手を合わせて喜んでいる。
そんな鈴花の喜ぶ顔を見て、八丸は満足感に満たされた。
二人は花畑が一望できる位置に横たわっていた古びた丸太に並んで腰かけた。
座って落ち着くと、八丸はすぐ近くに咲いていた花を一本摘み取り鈴花に差し出した。
「ずっと、見せてあげたいと思ってた。俺のお気に入りの場所なんだ。喜んでくれて嬉しいよ」
へへっと照れ笑いを浮かべる八丸から、鈴花は花をそっと受け取ると、それを鼻に近づけ香りを嗅いだ。
ふんわりと、優しい香りが鈴花の花の奥を突く。鈴花はうっとりとした表情で花を見つめた。
「八丸さん、ナデシコの花言葉をご存じですか?」
「花言葉?」
八丸は、知るはずもないその言葉を少し考える素振りをしてみせる。
そんな八丸の様子にふふっと小さく笑うと、鈴花は手に持った花をくるくると指で回しながら呟いた。
「“純愛”です」
「じゅ、純愛!?」
「本当にご存じなかったのですね」
顔を赤くして驚く八丸を鈴花はくすくすと笑った。
しかしすぐに寂しそうな表情で、再び花に視線を戻した。
「私……てっきり勘違いするところでしたわ」
「え?それって……」
「いえ、独り言です。気にしないでください」
再びにこりと微笑む鈴花の笑顔に、八丸の胸がトクンと高鳴った。
(勘違い?)
すると不意に、数日前の飛鳥との会話が頭に浮かんだ。
『その子は、八丸を好きだと言ってくれた?』
今まで考えもしなかった、鈴花の気持ちが気になり始める。
(鈴花は、俺をどう思っているんだろう)
純愛という言葉に胸を躍らされ、八丸の中に淡い期待がにわかに湧き起こる。
(確かめたい。でも、俺が先に想いを伝えるのが礼儀?いや、でも彼女は貴族だし……)
こんなに美しい鈴花を、他の人間の男が放っておくとも考えられない。
悶々とする思考を巡らせ、なんと話を切り出そうかと悩んでいると、八丸よりも先に鈴花が口を開いた。
「私、今悩んでいることがありますの」
「え?悩み?」
突然の言葉に、八丸はぱっと思考を止めて鈴花の言葉に耳を傾けた。
「これですわ」
そう言って鈴花が八丸の目の前にかざしたのは、八丸が今渡したばかりのナデシコの花だった。
「ナデシコ……?」
「“純愛”です」
その言葉の意味を理解できず首を傾げる八丸に、鈴花は目を細めた。
「私、ある殿方に結婚を迫られているんです」
「―……え?」
一瞬にして、八丸の頭の中は真っ白になった。
「結婚?」
震える声で、その単語を問い返した。次第に混乱し始めた脳内で、その単語が何度も繰り返される。
一方の鈴花は、寂しそうな瞳を小さな手に包まれたナデシコの花に向けて言葉を続けていた。
「結婚といっても、家柄の契約みたいなものですわ。
そうだと頭で理解していても、私はなぜかコッチを求めたくてしょうがないのです」
(結婚。相手がいる?初めから、鈴花には相手がいたってこと?)
八丸の頭には次々と不安な疑問が浮かび上がり、鈴花の言葉は聞き流されていく。
(じゃあ、やっぱり俺の気持ちは一方通行だったってこと?最初から俺のことなど……)
「八丸さん?」
「……っえ?」
「八丸さんは、どう思いますか?」
「え?えっと―……」
「聞いおりましたか?」
「あ、ごめん。言葉に驚いちゃって……」
ガサガサッ
「……っ!」
突然、すぐ近くから草木をかき分ける音が聞こえた。
その音に驚いた八丸は言葉を止めると、バッと音のした方へ振り向いた。
「な、なんでしょう?」
同じく驚き体を震わせた鈴花も、音のした方へ顔を向け、ぎゅっと八丸の服の裾を握り締める。
「鈴花、ちょっとここで待ってろよ」
「はい」
八丸は鈴花のいる丸太を離れ、音のした方へ向かったが、そこには誰もいなかった。
だが地面には踏みしめられた跡が残っている。たった今、誰かがここを去ったのだろう。
(匂いも残っている…………)
スンスンと鼻をひくつかせた瞬間、八丸はハッと目を見開いた。
馴染みのある匂いに、全身が凍りつく。
そして次の瞬間、少し離れた場所に位置する木々の間を駆け抜けていく小さな獣の姿が目についた。
「葵!!!!」
八丸は叫び、追いかけようとしたが踏みとどまった。鈴花を待たせている。
今葵を追いかけて行ったら、鈴花が他の獣族に見つかってしまうかもしれない。
八丸はぐっと感情を抑えこむと、急いで鈴花の元へ戻った。
鈴花は先ほどと変わらぬ様子で待っていた。
そして八丸の姿を確認すると、パッと立ち上がり駆け寄った。
「大丈夫でしたか?」
「あぁ、大丈夫。誰もいなった」
心配そうな瞳で見上げる鈴花の頭を優しく撫でると、八丸は目を細めて微笑んだ。
「あのさ、鈴花。さっきの話」
「え?えっと……純愛の」
「いや、結婚のこと」
鈴花の手には、まだ先程の八丸が渡したナデシコの花がぎゅっと握られていた。
八丸はその花に視線を落としてから、鈴花の瞳へと視線を移す。
「相手の人は、どんな人なんだ?」
「えっとー……豪族の殿方でございます。
権力者であるのは間違いないのですが、人柄は好めない部分がございまして―……」
八丸から視線を逸らし、戸惑いながら鈴花は答えた。
それを八丸は、どんどん泥濘沈んでいくような気持ちで聞いていた。
そして今の自分は、先程の自分からは想像できないほど冷静であることに気が付いた。
(飛鳥さんだけじゃなく、葵にまで見られてしまった。
またいつ、誰にこの関係を知られるかも分らない)
鈴花の声を聞きながら、ゆっくりと自分の心に言い聞かせた。
(鈴花には立派な相手がいる。獣族の俺みたいな奴じゃなくて、貴族の身分に見合った人がいるんだ。
俺はずっと、鈴花の邪魔をしていたのかもしれない。それなら、いっそのこと……)
「……鈴花、ありがとう」
「急に、どうしたのですか?」
「帰ろう。小川まで送るよ」
「八丸さん?」
八丸は、自分が今どんな顔をしているのか分らなかった。
ただ自分を見上げる鈴花の表情は、今まで見たことないほど困惑した様子だった。
来た時と同じように、八丸は鈴花を横向きに抱き上げると小川を目指して走り出した。
風がびゅんびゅんと勢いよく耳元で音を鳴らす。
しかし小川につくまでの間、二人は一言も口を開かなかった。
小川を渡ると、八丸は鈴花をそっと地面に下した。
鈴花の手には、まだナデシコの花が握られている。
「八丸さ……」
「あのさ、鈴花」
八丸に言葉を遮られ、鈴花は唇をきゅっと結び言葉を飲み込んだ。
八丸は真面目な顔で鈴花に向き合う。
「もう、会うのは止めよう」
鈴花は大きく瞳を見開いた。わなわなと体が震え出す。
「どうして……何故、そんなことを言うのですか」
「鈴花は、俺なんかの相手をしていたら駄目だ。俺といても、鈴花は幸せになれない」
「そんな!あんな話をしたからですか?私が、婚約の悩みを言ったから……」
「いいんだ、言ってくれて良かったんだ。鈴花みたいなお嬢様に、狼の俺は不釣り合いだ。
近くにそれだけの人がいるなら、早くその人と結ばれた方が幸せになれる」
「止めてください!八丸さんから、そんな言葉聞きたくありません!」
気づけば鈴花の目からは小さな涙の粒がぽろぽろと溢れ出していた。
それでも、八丸は自分の心に強く言い聞かせる。
(鈴花のためだ。これでいいんだ)
目を背けたくなるような鈴花の悲しい表情に苦しい思いをしながらも、
八丸はなんとか真面目な表情を保ち続けた。
「いつ俺の仲間に鈴花の存在が知れ渡るかも分らない。俺といても危険が付きまとうだけだ」
「嫌です……それでも私、まだ八丸さんとお話ししたいんです」
「……ごめん、鈴花」
「八丸さん!聞いてください!私は、私はっ……―」
「鈴花、幸せになれよ。さようなら!」
八丸はそれだけ言い残すと、鈴花に背を向け走り出した。
鈴花が自分を呼ぶ声が聞こえたが、次第にその声も聞こえなくなる。
歯をギリギリと食いしばって、八丸はがむしゃらに山道を走り続けた。