十九、千切れた約束
「―……美夜?」
洞窟の奥で里の結界の強化に励んでいた紫苑は、ふと呪符を並べる手を止めた。
突然、頭の奥の弦をピンっと弾かれたような感覚に襲われたのだ。
「嘘だ……違う、嘘だ……いや!いやァアア!!」
金切り声をあげ、両手を頭に当て狂ったように激しく首を横に振る。
「山神様!」
「落ち着いてください!」
「いや……美夜っ!」
駆け付けたアサとミサの手を振り払い、紫苑は洞窟の外へ走り出した。
「お待ちください!」
「いけません、山神様!」
「美夜が……美夜が!行かなきゃ、私が行かなくては!」
軽やかに岩山を駆け降りていく紫苑の後を、アサとミサも慌てて追いかけた。
---------------------
響炎は二本のイチョウの木の間へ勢いよく飛び込んだ。
いつもより深く起ち込む霧を抜けると、見慣れた里の景色が現れる。
響炎は近くの草の上に咥えていた美夜をそっと横たえた。
まるで割れ物を扱うかのように優しく下すと、自身はぶわっと風に包まれ人の姿になった。
「……美夜?」
響炎は傷でだらけの腕で、そっと美夜を抱え直した。
瞳は完全に閉じており、かすかな呼吸の音も、鼓動の音も聞こえない。
冷たい子狐の体が、だらりと力なく響炎の腕に横たわっている。
「美夜……俺を、独りにしないで…………」
ぎゅっと小さな体を抱きしめ、響炎はよたよたと歩き始めた。
「大丈夫……助かるから。山神様が……助けてくれる……」
「響炎!?」
自分に近づく足音に顔を上げると、そこには八丸、猪雄、葵の三人がいた。
響炎の姿を見るなり、三人の表情は一瞬にして青ざめた。
「お前、どうしたんだその体!!」
「……!み、美夜ちゃ……!」
「や……っ!」
わなわなと震えながらも、三人は響炎に駆け寄る。
「早く……山神、様に……」
「喋るな、響炎!今俺たちが……」
「美夜っ!美夜ー!!」
八丸の言葉を、甲高い声が遮った。
振り向くと、桃色着物を着たおかっぱ頭の幼い少女が必死にこちらに向かって走ってくる。
その少女を追いかける様に、二人の女も走ってきた。
山神の少女紫苑と、その側近であるアサとミサだった。
「山神様!?」
猪雄が驚きの声を上げた。八丸と葵も目を見開く。
紫苑は三人をかき分けるように響炎の前へ出た。
「早く、早く美夜を!!」
「山神様……!」
響炎は素早く身を屈め、腕に抱いた美夜を紫苑の前に差し出した。
紫苑は震える手を美夜の体にかざし、ぐっと歯を食いしばる。
オンっと周りの空気が振動すると共に、眩い黄緑色の光が美夜の体を照らした。
コォォオと風を切るような音をたて、みるみる美夜の血塗れだった体は綺麗になっていく。
それでも、美夜の瞳が開くことはなかった。
「お止めください!山神様!」
紫苑に追いついたアサとミサが両脇から紫苑を美夜から引き離そうとした。
黄緑の光がフツっと途切れる。
「やめろ!離せ!美夜が……」
「無駄です!この少女は、もう……」
「うるさい!」
二人の手を振り払い、再び紫苑は美夜を治療しようとする。
「あ、アサさん……ミサさん……」
葵が震える声を絞り出した。
「もう……って、なんですか?美夜ちゃんは、助からないの?」
葵の言葉に、アサとミサは互いに顔を見合わせてから視線を落した。
「山神様のお能力は怪我や病気を治せても、死人を生き返らせることはできません」
「生死を操ることは自然の秩序に逆らうことになります。山神様といえども、それは許されません」
ゆっくりと発せられたその言葉に、響炎の顔は一層青ざめる。
「山神様……美夜は?もう……美夜は……―」
紫苑は涙を流しながら、歯をギリギリと食いしばって治癒を続けていた。
しかし、美夜の体が完全に元の状態に戻ると、次第に黄緑色の光は弱くなり、徐々に消えていった。
紫苑は力なく美夜の体から手を離すと、そのまま響炎に向けて手をかざした。
再び黄緑色の光が放たれ、優しく響炎の体を包み込む。
そして、先ほどの美夜の体の時のように、みるみる響炎の体の傷は塞がり綺麗な状態へ戻っていった。
「あ……ありがとう、ございます」
首を垂らし、かすれた声でお礼を言う響炎に、紫苑は力なく微笑んだ。
そして再び、瞳を閉じた美夜の体に視線を落とした。
周りの誰もが、美夜を見つめている。
子狐の姿の美夜は、まるで響炎の腕の中で眠っているかのようだった。
「美夜……」
小さくか細い声で、紫苑は呟いた。
「約束したじゃないか……。一緒に山で遊ぼうって、約束したじゃないか」
洞窟の奥で約束を交わした、あの日の美夜の笑顔が紫苑の頭に思い起こされる。
「嘘だったのか……あれは、嘘だったのか!!」
美夜の体に顔をうずめるように、紫苑は泣き叫んだ。
わんわんと、ただの子供と変わらぬ泣き声が空に響く。
美夜を取り囲む誰もが、涙を流し唇を噛みしめた。
『いつか一緒に、山で遊ぼう!』
じりじりと照りつけていた太陽はいつの間にか沈み、辺りは薄暗くなり始めていた。
小さな星が輝き始めた空の下、七人は永遠に目覚めることのない美夜の体を両親の眠る場所へ埋葬した。
墓の周りにはまだ咲きはじめの彼岸花が、風に揺られてサラサラと音を奏でている。
「本当に、すまなかった……」
盛り上がった土をただ茫然と見つめる響炎に、紫苑は深々と頭を下げた。
「私がいけなかったのだ。私が、私がもっと早く対処していれば美夜は……」
「いいんです、山神様。悪かったのは、俺だから」
ゆっくりと、死人のような瞳を紫苑に向け、響炎はわずかに口元を緩ませた。
「もう、行ってください。少し、一人になりたい……」
響炎の言葉に、アサとミサが頷き紫苑の肩に手を置く。
「行きましょう、山神様」
「人間が山を出たのなら、全ての里に警戒の解除を呼びかけなくては」
髪を右に結んだアサが、無理やり紫苑の手を取り歩き始めた。
「―……約束する!」
突然、遠ざかる響炎の背中に向かって紫苑は叫んだ。
アサとミサも驚き、足を止める。響炎も、ゆっくりと紫苑へ振り返った。
「約束する!次は必ず、私が守る!誰も傷つけない!だからっ……」
全身で叫ぶ紫苑を、響炎は何も言わず見つめていた。
紫苑はそんな響炎に、キッと決意を込めた瞳を向ける。
「だから、お前は笑ってくれ!美夜が悲しむ!美夜のために、笑ってくれ!」
「……っ!」
僅かに、響炎の眉がピクリと動いた。
紫苑はそれだけ叫ぶと、再びアサに腕を引かれて自分の洞窟へと帰って行った。
三人の姿が見えなくなると、猪雄がゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、響炎。おいら達も行くね。響炎も、できるだけ早く家に帰れよ」
八丸は、その言葉が響炎の気持ちを気遣って出たものだと理解し、猪雄に向かって頷いた。
葵も赤く腫れた目から流れる涙を何度も手で拭いながら、こくこくと頷く。
「また…明日ね、響炎。あだしも…お、お花いっぱい持っでぐるがらね」
「また明日、響炎……」
そう言い残すと、三人は響炎に背を向け歩き出した。
「……八丸」
歩き出した八丸を、不意に響炎は呼び止めた。
八丸は猪雄と葵に先に帰るよう伝えると、再び響炎の元へ戻った。
心配そうな顔を向けると、響炎はぎゅっと口を結び、拳を握って八丸を見つめた。
「美夜を殺した人間……親の仇だった」
「なっ……!?」
八丸は響炎の言葉に思わず口を押えた。見開いた目を向けると、響炎はゆっくり頷いた。
「しかも、金術の術師だった。自分が……情けなくてしょうがないんだ。
俺、そいつにぼこぼこにされた。擦り傷ひとつ、負わせることができなかったんだ」
俯いたままさらに力を込めて拳を握り締める響炎に、八丸は無言のまま近づくと、そのまま背中に腕を回した。
驚いた顔をした響炎の背中を、ぽんぽんっと優しく叩く。
すると響炎は八丸の肩に顔をうずめ、ひくひくと肩震わせ始めた。
次第に八丸の肩は響炎の涙で濡れていく。
「許せない……うっ……人間なんて、人間なんて……大っ嫌いだ……っ!!」
響炎の言葉は、八丸の胸にぐさりと深く突き刺さった。
自分の惹かれ始めた人間という存在が、親友をここまで傷つけた。
八丸は震える響炎の背中を、ただ優しく撫でることしかできなかった。
「響炎、我慢するな」
八丸の言葉で緊張が解けたのか、響炎は歯を食いしばって泣き続けた。
響炎の泣き声を聞きながら、八丸は心の奥に重い違和感を感じていた。
「人間なんて大嫌いだ……」
何度も呟かれるその言葉が、ずきずきと八丸の奥に突き刺さるのだった。
終わりが近づくと執筆が進む。いや、まだ続きますけど←
良ければ六話の「秘密の友情」を再読してみてください。
ちょっとでもジーンとしてもらえたら良いなと思います。